1-2


「ただいまー」


「お帰り佳恋ちゃあん‼ 待ってたのよう‼」


 学校から帰って玄関のドアを開くと共に、半べそかいた母親が腰元に抱き着いてきた。


 お腹の辺りに綺麗な黒髪をした母の頬ずりが炸裂する中、ちっとも嬉しそうな顔をしない桐谷佳恋は残念なものを見る目で母を見下ろしていた。


「……、ママ、今度は何をやらかしたの」


「えー、いきなりひどいわねえ。まだ何も言ってないじゃない」


「ママが私を佳恋『ちゃん』って呼ぶ時は大抵ろくでもないよ。この間は洗濯機の中の至る所に小銭が挟まっていたし。今日はズボンのポケットをちゃんと調べてから洗濯した?」


「それは大丈夫! ママもやればできる子です」


「よしよし。それで?」


 頭を撫でてあげると母親の上目遣いが返ってくる。


「ちょっと冷蔵庫の調子が悪いのよ。中の牛乳が腐っちゃう前に佳恋ちゃんに何とかして欲しい次第です」


「キッチン周りはスマート家電で管理されているはずでしょ? 不具合があったら管理AIのセレナが直してくれるはずだよ」


「うんともすんとも言わないのよね。だから人の手がいる修理なのかなーと思って」


「分かった、見てみる」


「あとママのお仕事の人が家にやってくるから、失礼のないようにね」


「はーい」


 ようやく腰に巻き付いた状態から離れてくれた母親のおかげで、靴を脱いで家に上がる事ができた佳恋だったが、赤いランドセルを部屋に置く前に萌花にこう問いかける。


「仕事の人が家に来るなんて珍しいね、何か問題でもあったの?」


「いいえ、自動運転とか電化製品とか、今後の方針を色々と話し合いたいってだけよ。あとパパの仏壇にも手を合わせたいとかで」


「ふうん。たくさんアイディアは出せるのに車も冷蔵庫も修理できないんだから、人っていうのは本当に適材適所だね」


「一〇歳とは思えない事を言ってないで、さっさと手洗いうがいをしてきなさいな」


 佳恋は両親の言う事をよく聞く子だ。


 二階に向かって自室の扉を開けてランドセルをベッドに放り投げると、言われた通り洗面所に寄って手洗いとうがいのタスクをこなす。次はキッチンだ。一階のリビングに行ってコップを取り出し、内側の扉のポケットに刺さっていたペットボトルを引っこ抜いて炭酸飲料を注いで喉を潤す。


「さーて」


 春先で多少温かくなってきたとはいえ、まだ薄いカーディガンが一枚欲しい時期だ。冷蔵庫をずっと開けて、中に上半身を突っ込んで修理をしていたら秒で風邪を引く。


「セレナ、微熱があるって聞いたけど大丈夫? どこが悪いか言ってみて」


 帰ってきたのは静寂だった。


 いつもであれば、冷蔵庫のどの調味料が切れかかっているのかまでアナウンスしてくれる管理AIプログラムは、確かに黙っていた。


 これは電気で動く物全般と相性の悪い母親が何かやったに違いない……と予測していた事をさらに確信して若干苛立ちすら湧いてくる佳恋。


 仕事の書類でもまとめているであろう、彼女の自室に聞こえるように大声で言う。


「ママ何したのー? 電源を引っこ抜いたでしょう、これ停電したりプラグ抜いたりしただけで初期化されちゃうデリケートな子なんだからね⁉」


 ポケットからスマートフォンを取り出して停電情報などを調べてみるが、どこかに雷が落ちた様子も発電所が壊滅した情報も出ていなかった。


「掃除機でも繋ぐためにコンセントを引っこ抜いたってオチかな、これは……。確か家のセキュリティも全部停止しちゃうから、ええと、全部再起動しなきゃいけないのか」


 母がレシピを見るためにダイニングキッチンに設置しているタブレット端末を手に取り、無線で冷蔵庫と手元のデバイスを接続する。液晶画面に表示される情報を読み解き、指先で画面を操作して、セレナのソフトを再起動する。


 管理AIが起動するまでの間、冷蔵庫を開いて中を検分してみる。


「きちんと冷気は出てるし、詰め込み過ぎって感じじゃないよね。ならセンサー周りかなあ、だったらセレナの助けがいるんだけど……」


 と独り言を呟きながら、奥の方にプチシュークリームを見つけたので一つ拝借して小さな口の中に放り込む。


 一度扉を閉じて、佳恋の視線は手元のタブレット端末に落ちる。セレナの起動を待っている間に、ゲームのアプリでも使って暇潰しをしようかと思った時だった。


 なんか冷気を感じる。


 佳恋の細い足、膝から下辺りがやけに冷える。


 冷蔵庫の方に向き直ってみると、なんか扉が薄っすら開いてしまっていた。閉め忘れたという事はない。きちんとをドアが閉まったのを確認してからタブレット端末を操作した。


「ドアのパッキンかしら」


『その通りです。冷蔵庫の扉のパッキンが緩んでしまっています』


「セレナ、起きたんだ」


『プラグを引き抜かれたり、停電したりした場合に電源が一度落ちると再起動のタスクを完了していただくまでスリープモードになってしまいます。本システムはボスが追加した後付けオプションですので、そのような仕様となっております』


「いつもの挨拶どうも。……パパめ、もうちょっと上手く設定できなかったの……? それとも管理AI作るだけで満足しちゃったパターンかな」


 工具箱が必要だった。


 一度ガレージに行って工具を持ち寄らないといけない。とりあえずスマート家電を管理するセレナは起きてくれたので、冷蔵庫の管理は任せておく。リビングを出てガレージに向かうために廊下を歩く。


 その途中で牛乳が腐る前に何とかしてくれと母が言っていたのを思い出す。


(……あ、冷蔵庫の冷気強めておいた方が良いのかな。工具箱を取って戻るまで扉が開けっ放しになっている訳だし……)


 そう思い立つと、ポケットからスマートフォンを取り出してセレナのアプリを起動させる。家電の欄から冷蔵庫を選択し、温度設定を調節する。


 その時だった。



「動くな」



 低い女の声だった。歩きながらスマホを見ていたので気付くのが遅れた。


 目の前に見知らぬ顔の女がいた。人数は二人。一人はぶかぶかのTシャツにスウェットを穿いたラフな格好の一八歳くらいの金髪碧眼。おそらくロシア人だろうと佳恋は当たりをつける。もう一人は赤い髪で獣耳を形作った、小学生くらいの少女だった。こちらはイタリア辺りの遺伝子が混じっているか。


 そして女達の存在に気付くと同時、佳恋にとって彼女達が誰なのかなんてどうでも良くなった。


 たった一人の母親、桐谷萌花が金髪碧眼のロシア人によって背後から首を腕で拘束されていたのだ。


「……」


 佳恋は手を後ろに回しながら、背筋にぞわぞわとした恐怖を感じていた。家の中にいきなり二人の強盗がいる。これで叫び声も上げなかったのだから、我ながら大したものだ。


「……誰? ママのお仕事仲間には見えないね」


「それ、デコイの情報だぜ。ガードが緩くなるかと思ってな」


 答えたのは、猫耳、または犬耳の髪型をした小さな少女だった。年齢で言えば佳恋とさほど変わらないようにも見える。


(……くそ)


 確かにすぐに人が来ると思っていたから、玄関に鍵を掛けるのを忘れていた。それでも佳恋の家は、人が来たらセレナが報告してくれる警備システムが整っていたはずだ。


 そこまで思考して、天才少女は思わず舌打ちしてしまいそうだった。


(ああもうっ、セレナがダウンしてた時に入られたっていうの⁉ タイミング最悪だわ‼)


 一〇歳の少女に女二人を相手取れる訳がない。


 一人は母の首を腕で締めて拘束したまま、もう一人の童女の方は廊下や部屋のドアを開けて家の中を物色し始める。


「……ママにはひどい事をしないで」


「そっち次第だな。テメェが素直に言う事を聞けば、桐谷萌花には危害を加えねーって約束してやるよ」


「何が目的なの? お金なら家に現金はないよ。ママはお財布にカードしか入れないもん」


「目的は金じゃねーよ。レヴィア=キリタニの部屋はどこだ?」


「パパの?」


「ああ、用があるのはヤツの技術だ。とっとと部屋に案内しろ」


 うっ、という呻き声が聞こえた。


 母の首を拘束する女の腕がさらに締め上げられ、萌花が苦しそうな声を上げたのだ。


「……、こっちに来て」


 殺す。


 そう言って無防備に飛び掛からなかっただけ、佳恋の理性はまだ強い方だった。


 階段を指差すと、ロシア人は母の首を絞めたまま、もう一人のイタリア人は歩みを促すように、こちらへやってくる。合計四人で父の部屋の前に辿り着く。リビングよりも大きな、この家の空間を大きく占める一つの部屋。


 父が亡くなってから、母以外の人が踏み込んではいない場所。


(……こいつらはただの強盗じゃない)


 萌花が桐谷社のCEOであると知っているくせに、金には目もくれない。そもそも金が目的であれば、佳恋を人質に取った方が何倍も建設的だ。


 そして人を傷つけるのが目的ではないという事は、本当に父の技術だけしか狙っていないのだ。であれば、いの一番に思いつく事案といえば。


(自動運転車。あれの競合他社ならこんな事をする、の、かも……?)


 理解は追い付かない。


 だけど思う。これ以上なく強くこう思う。


 こんなヤツらに、今は亡き父の尊厳と母の自由を踏みにじられてたまるか。一歩だって部屋に入らせるものか。大切な父の技術だって奪わせる訳にはいかない。


 だから。


「入るなら気を付けて」


「ハッ、誰に言っているんだか」


 余裕綽々といった調子の獣耳の少女に、金髪碧眼のロシア人がぼそりと注意を促した。


「……あんまり調子に乗らないようにね」


「う、ういーっす」


 母の首を絞めているロシア人は廊下で待機するようだった。残りの一人が父の部屋から佳恋の大切なものを奪うために動く。部屋に入ろうとする。


 その時だった。


 カチカチ、と急に蛍光灯が瞬いたのは。


「な……」


 当然、電気のスイッチには触れていない。しかもそれだけではない。エアコンやPC、テレビ画面までもが制御を失ったかのようにオンオフの点滅を続ける。


「なん、だ、これ」


「パパが許可していない人が立ち入ろうとすると警戒モードになるんだよ。あと、これを怪奇現象だと思わない人が立ち去ろうとしなかったら」


「?」


「PCのデータが全て飛ぶ。……ご愁傷様、これで目的は達成できなくなったね」


 まるで停電によるブラックアウトだった。デスクトップ型PCの画面が完全に落ちて、直後にうんともすんとも言わなくなった。


 一〇歳の子どもの言を素直に信じる大人はいない。慌てて獣耳少女が部屋に入り、PCの電源を何度も押す。結果は黒い画面の沈黙として返ってきただけだった。


「……クソガキ、テメェ知っていやがったな?」


「どうかしらね。それとあんまり年齢は変わらないように見えるけど」


「クソッたれが‼」


 悪態をつくイタリア人の女の子に、母の首を絞めたままの女が部屋の外から声を掛けた。


「……ねえ、とりあえずPCを奪おう。うちのエンジニアが修復できるかもしれないし。あと、その辺りの書類も持って行こう……」


「なっ」


「……残念だったね。こんな手品が大人に通じると思ったの……?」


 結局は、決意も策略も無駄だった。


 かつて父親が大切に守っていたものは、名前も知らない女性達に全部奪われてしまった。

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