第一章 世界は科学で回っている

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 六年後。


   2


「かーれーんーっ‼ 朝ご飯できたわよー!」


「んー」


 ガチャガチャ、という金属音が桐谷佳恋の手元から響いていた。


 茶髪に青みがかったグレーの瞳を持つ少女は、小学校に行く前だというのに朝っぱらからオイルとガソリンの匂いまみれになっていた。スケボーみたいな板の上に背中を載せて、アメリカ産の車の下部に体を滑り込ませていた少女は、母親の声に反応してマシンの下から這い出てくる。


「うー、腕が痛い……」


 軍手とカラー付きのスマートグラスを外してその辺りに放り投げてから、ガレージからリビングへと向かう。


 やけに大きな一軒家の中を歩き回り、黒髪の綺麗な母、桐谷萌花の元へ。すでにリビングは食欲を刺激する良い香りで一杯だった。


 テーブルを見た佳恋は目を輝かせて、


「やった、和食だ! いっただきまーす!」


「コラ、手を洗ってないでしょ。早くこっちに来なさい」


「あーい」


 空腹に耐えかねて卵焼きだけ摘まみつつ、ダイニングキッチンのシンクへと移動する桐谷佳恋。


 冷水と石鹸で手を洗いながら、小学四年生の少女は今日の成果を報告する。


「ママ、バッテリーの充電とオイル交換やっといたよ。あと調子が悪いって言ってたから一通りメンテナンスしておいた」


「あら、ありがとう。いつも悪いわね」


「パパも面倒臭い車を選んだものだよね。あんなに壊れやすいオモチャなかなかないよ」


「ふふ」


「?」


「何だかパパに似てきたわ、佳恋ったら。パパもいつも面倒臭いって言いながら楽しんでメンテナンスやってたもの」


「うん、知ってる」


 その後は、二人暮らしにしてはやけに広い部屋で朝食を取る運びとなった。


 テレビで垂れ流しになっていたニュースからは女性アナウンサーのこんな声が聞こえてくる。


『続いては株式会社桐谷科学の自動運転車についてです。昨日発表された完全自動運転車が市場の話題をさらっています。何兆回ものディープラーニングを行った人工知能が搭載された車両は、発売から早くも五〇万台を突破すると言われており……』


 桐谷科学。


 同姓の株式会社が存在する訳ではない。かつては父が取りまとめ、今は母がCEOを務める科学工業の企業である。一〇歳の娘でしかない桐谷佳恋が知る由もなかったが、テレビの向こうで映るビルは日本を支える立派な会社なのだった。


 味噌汁を飲み、日本の良き和食の朝を堪能する佳恋は、対面に座る母にこう告げた。


「時代は自動運転なのに、私は腕を痛めながら死にかけの車の整備だよ……」


「形見だから、天国のパパも喜んでるわよ」


「かもね」


 鮭の切り身を箸でほぐし、白米と一緒に口に運んでいると、魚の骨を取るのに苦労している母親の萌花からこんな風に問いかけられる。


「それより佳恋、あなた今日テストでしょ? 勉強した?」


「算数なんて目を瞑っててもできるよ。ほんとに目隠しして百マス計算をしたらマスがズレてて減点喰らったけれどね」


「あなた、今日は国語のテストって言ってたわよ?」

「………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………ごちそうさま」


「ダーメ、勉強はきちんとご飯を食べてからにしなさい」


「国語はやばい、あれは本当に意味が分からない‼」


「そういうトコもパパにそっくりねー。ママ今日は早く帰ってくるから、佳恋も寄り道せずに帰るのよ」


「した事ないでしょ」


「たまにホームセンター寄ってるの知ってるわよ?」


「うっ、なぜそれを⁉」


 さっさと食事を終わらせてから、必要な教科書とノートを赤いランドセルに突っ込んでから玄関を飛び出す佳恋。彼女は嫌いな勉強は学校でやるタチなのだ。


 と、外に飛び出した瞬間、真正面の家の扉がガチャリと音を立てて開いた。


「んっ、佳恋だ。おはよう」


「睦月、おはよう! 月曜日なのに遅刻しなかったんだね」


「ついに母さんが洗面器に氷水を突っ込んで僕のベッドに掛けるようになったんだ。信じられるか、春だっていうのにベッドが一瞬氷点下になるんだぞ」


「あはは、アグレッシブだねえ」


 楽しげに笑う佳恋を見て、幼馴染の安藤睦月の目が細くなる。


 彼が注目しているのは黄金比で整えられたその可愛らしい顔ではなく、茶色っぽいロングヘアの方である。


「佳恋、春休み中にまた髪の色が変わってないかな?」


「うーん、確かにもう金髪じゃなくなっちゃったね。目も昔は青だったのに今はグレーがかってるし。こういう変化って結構起こるらしいけど自分でもまだ慣れないや」


「佳恋のお父さんってどこの国の血を引いてるんだっけ?」


「分かんない。パパ自身が知らないみたいだったし、ママも知らないって」


 睦月と合流を果たすと、そのまま学校へ向かう。


 四月になったばかりで桜はまだ満開だった。川を挟んだ河川敷の向こう側では、大学生くらいだろうか、ピクニックやバーベキューを楽しむ人達がいた。


「はあ、ポカポカ陽気ね……」


「佳恋、そんなに気を抜けた顔してて良い訳? 今日二時間目にテストだよ」


「知らないわよう、漢字は得意だから問題によっては何とかなるんじゃない?」


「算数なら完璧なのにな」


「理科もドンと来いだよ。というか睦月は国語がすご過ぎる。なにあれ、日本語の神様なの?」


「代わりに他の成績は壊滅的だけどね?」


 何だか幼馴染の安藤睦月がどんよりし始めたところで、いつもの学校に到着。


 ようやく慣れ始めてきた新しい四年生の教室の扉を開けると、なんかとんでもない光景が飛び込んできた。


 机と椅子が半分以上ひっくり返っていた。


 そして桐谷佳恋の座席があるはずの教室の中央では、馬鹿な男子どもが相撲を取り合っていやがるし。


「……ふっ」


 こっちは国語のテスト勉強をしたいのに。


 車の整備も上手くできて、ご褒美みたいに美味しい和食が朝食に出てきたから今日は気分が良かったのに‼


「ふっふっふふふ」


「か、佳恋? 急に壊れるなよ」


「ちょっと男子ーっ‼ あなた達ね、やるなら外でやりなさい! 何がどうなったら朝一番に国技に励もうってなるのよ! 脳のシナプスの連結はどうなってる訳⁉」


「しなぷす?」


 睦月がキョトンとしていたが、知識量の違いで会話が通じないのは佳恋によってはよくある事だ。もう気にしない。目の前の光景の方がずっと問題なのだし。


 指を差してぶんぶん片手を振りながら、その場で地団駄を踏む茶髪の少女。


 佳恋の机の中身が全部ひっくり返っているし、リコーダーまで床に散乱してしまっている始末だった。あれは咥えて吹く楽器だというのがこの馬鹿男児どもは分からないのか。汚いだろうが。


 教室の中央には、小学四年生にして、やけにヤンチャに育ってしまったガキ大将がいた。


「出やがったな桐谷。つーかこういうのは学級委員長が止めにくるもんじゃねえのかよ」


「明らかに管轄外でしょうが、メガネで図書室の主な委員長に何を期待しているの。それに教室の中で暴れてるあなたが悪い」


「オラ次は誰だ⁉ 俺に勝てるヤツなんてこの教室にいない事を思い知らせてやる!」


「人の話を聞きなさい!」


 教室の端々からは、『先生呼んだ方が良いんじゃない……?』『春樹のヤツ、またやってるよ』『ああなると長いぞ』『つーか何であいつ今日は朝からあんなに荒んでいる訳?』『なんかこの間の体育の時間に駆けっこで負けたのが許せねえんだと』『馬鹿だろ』『馬鹿ね』『馬鹿過ぎる……』と色々な声が飛び交っている訳だが、当の本人が鎮火しない限りどうにもならない。佳恋としてはさっさと飛び蹴りをぶちかましてやっても何一つ良心は痛まないのだが、安藤睦月が先ほどから腕を摑んで放してくれない。


「ちょっと睦月、どうして私は二の腕を摑まれているの。えっち」


「えっちって……。佳恋が無茶しないようにってお前の母さんから頼まれてるんだよ。お前どうせ敵わないのに飛び掛かっちゃうだろ」


「う……」


 一〇歳ともなると、男女の筋肉量や運動神経は大きく差が開き始めている。


 現に昔は安藤睦月よりも腕っぷしが強かった桐谷佳恋は、今彼の手を振り解けないでいる。長い茶髪の少女が頬を可愛らしく膨らませると、なぜだか幼馴染の顔が赤くなった気がしたが今は散らばった机や椅子、そしてその中央で威張っている猿山の大将が目下最大の問題である。


 そんな中、ボソボソと困ったように言葉を交わすクラスメイトの中で、たった一人だけガキ大将に近づいていく少女がいた。


 佳恋ではない。


「は、春樹君!」


「あ? 何だよ委員長」


「その、みんな困ってるよ! だから喧嘩はやめ……‼」


「あーはいはいうるさいうるさい。女子は引っ込んでろよ」


 と、ガキ大将が半ば勢いで委員長を突き飛ばした。


 尻餅をついてしまう委員長を見て、クラスメイトの顔色が一気に変わった。困り果てていただけの色の中に明らかに侮蔑のカラーが混じる。


「流石に今のは駄目なんじゃねーの?」


「春樹サイテー」


「女子に暴力は絶対ダメだって母さんが言ってた!」


「最低」


「馬鹿」


「鬼畜」


「脳筋」


 数々の暴言によって集団の圧迫感に気圧される中、桐谷佳恋だけは尻餅をついた学級委員長の方に急いでいく。


 黒縁眼鏡を掛けた真面目な女の子は涙目になっていた。


「だいじょうぶ?」


「う、うん、ありがとう佳恋ちゃん……」


 力がある者とない者の正常な構図ではあるだろう。だけど、委員長はこんな風に暴力を振るわれる謂れはなかったはずだ。


 こういう時、カチンと来てしまうのがこの少女の特色だった。


 佳恋はキッとガキ大将を睨みつけて、怒りの声を出力する。


「ちょっと馬鹿、私の友達に何するのよ‼」


「い、いやだって……」


 ガキ大将が無駄な弁解を始める前に、ガラリと扉が開く音がした。


 担任教師だった。


 超怖いと校内では有名な。


「ようし春樹、一時間目の音楽が始まる前に先生と廊下でちょっと話そうか。済まないがみんなは机を並べ直してリコーダーを吹いていてくれ。教科書にある好きな曲で構わないぞ」


 首根っこを摑まれて凹んだボス猿が廊下に連れ出されて行った。


 先生の指示通り、みんなでテーブルを元通りにして散らばった教科書やリコーダーを回収する。まるで朝から掃除の時間がやってきたようだった。


「まったく……」


 クラスメイトから受け取ったリコーダーをケースから取り出して、なかなか出すのが難しい低いドの音を練習する事にする桐谷佳恋。


 そして何度か弾いて、笛を咥え直そうとした茶髪の少女は気付いた。


「あ」


「どうしたの佳恋」


 隣の席に座る幼馴染がそう問いかけてきたので、素直に答える事にした。


「これ睦月のリコーダーだ。睦月、あなたが弾いているの、私のリコーダーだわ」


 ぴゅるっぴゅう⁉ という狂った笛の音が教室いっぱいに炸裂した。


 ゴホゴホとむせる少年は、どういう訳か顔を真っ赤にしたまま、


「佳恋、お前は何でそんな平然としているんだよ……」


「え? だってお鍋を一緒に食べた事あるじゃん。今さら何言ってるの?」


 それとこれとは話が別じゃね⁉ とクラスメイト全員が思ったらしい。



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