お題「最後の三分間」

最後のレース

厳かなファンファーレが京都競馬場に響く。


場内に観戦に来ているファン達が、音に合わせて手拍子をする。


GⅠレース特有の緊張感が高まっていく。



勝見は緊張をほぐすために、ヒカリのたてがみを二度、ゆっくりと撫でた。


「いよいよ、最後のレースが始まるな、ヒカリ」


勝見が跨っているその馬は、ほぼ白馬と言っていいような毛色をしていた。


競走馬の中では「芦毛あしげ」という色に分類される。


芦毛あしげの馬は、若い頃は灰色気味なのだが、年を取るにつれてどんどん色素が薄くなり白に近くなる。


つまりそれは、勝見の相棒であるヒカリが若くないことを意味している。



競走馬のピークはそれほど長くはない。


馬齢2歳から走り出したとして、6歳あたりで引退する馬が多い。


特に中央競馬と呼ばれるJRAでは、8歳か9歳まで走れば大ベテランの域だ。


そして、「ヒカリノサキヘ」と名付けられたこの馬は、8歳であった。



一頭、また一頭と発走ゲートへ収まっていく。


ヒカリもスタッフに手綱を引かれ、ゲートへと向かう。


馬番は一枠二番。


ヒカリのような逃げ馬にとっては絶好のポジションであった。


狭いゲートに収まり発走の時を待つ。


――お前は、最後まで「いい子」だな。


勝見は狭いゲートの中で少しだけ笑みを零す。


ゲートの中で暴れ出す馬も多くいる中、この馬はデビュー当時から大人しくゲートに収まっている。


それは同時に、この馬が闘争本能に欠けているということでもあった。



そのうち、最後の一頭がゲートに収まる。


スタッフがゲートから離れると、すぐさまレースが開始されるはずだ。


――さぁ、いくぞヒカリ。


勝見がつま先に力を込めると同時に、ゲートが一斉に開かれた。


――GⅠの中でも歴史と伝統を誇る【天皇賞・春】が、今スタートした。



勝見はスタートと同時に一心不乱にヒカリの首を押す。


逃げを狙う他の馬達も、スタートから足を使いヒカリに追いすがる。激しい先頭争いだ。


他馬を抑え、先頭に立つと、そこでようやく少しだけ手綱を引いた。


勝見は安堵した。ヒカリは真面目な馬ではあるが、優しい気性のせいか馬群に飲まれるとすぐに走る気を失ってしまう馬でもあった。だからいつも「逃げ」の戦略をうつのだ。



成績的にはパッとしたところがあまりない馬ではあるが、一度だけ脚光を浴びたことがある。


とあるGⅡのレースにおいて、当時のダービー馬であるストロングマーチを抑え逃げ切り勝ちを収めたのだ。


近代競馬の最高傑作と呼ばれたストロングマーチ相手に逃げ切ったことにより、ヒカリにはコアなファンがついた。


それが、8歳になった今でもレースに出る理由にもなっていた。


しかし、最近は成績もあまり良くなく、今回のレースで引退を決めたのだ。



――とにかく、無事に。


勝見は心で呟く。無事にレースを終え、オーナーの元にヒカリを返す。それが今日の勝見の仕事であった。



コーナーを二度曲がると、観客席のあるホームストレッチ側に出る。


大観衆の歓声が、ビリビリと勝見の身体を襲う。


勝見は、ヒカリが歓声に動揺していないかを確認する。


――大丈夫そうだ。


ヒカリはいつも通りのリズムで、一生懸命走っている。



先頭を維持したまま、コーナーを曲がり、バックストレッチの直線へ。


このあたりから、後続の馬の動きが激しくなってくる。


抜きつ抜かれつする後続馬を尻目に、ヒカリも最期の力を振り絞る。



最終コーナーを回り、残り400m。ヒカリはまだ先頭を走っていた。


この時点で勝見は淡い期待を抱いていた。


――このまま行けば。もしかして。


しかし、後方からは他馬の足音がドンドン近づいてくる。



勝見はムチを振りかぶり、ヒカリに気合を入れる。


――あと200mだ。がんばれ!


手綱を握る腕を前後に動かし、ヒカリと気持ちを合わせる。


この時点で、勝見の頭の中は「無事にレースを終える」という文字が消え「勝たせてやりたい」という気持ちに塗り替えられていた。


――最後の最後くらい、夢見たっていいよな、ヒカリ。


正直、ヒカリの足はもう限界であった。


それでも、勝見の気持ちが伝わったかのようにヒカリも懸命に足を動かしている。



ゴール板が目の前に迫る。


――あと少し! あと少し!


勝見が祈るような気持ちで手綱を動かすが、無常にも勝見の横を一頭の馬が抜き去っていく。


――あぁ。……ダメだったか。


勝見はうなだれたままゴール板を駆け抜けた。


結果は、二着。


これまでの成績を考えれば、素晴らしい大駆けと言っていい結果であった。



少しずつペースを落とし、勝見はヒカリの首を撫でた。


「良くやったな。頑張ったよ、お前」


そう言って相棒を労う勝見の耳に、かすかに「ヒカリー!」と叫ぶ声が聞こえた。


声のする方向を見ると、馬券を振りながらこちらを見る男性がいた。


遠くて馬券の文字は見えなかったが、おそらくヒカリに関する馬券なのだろう。


優勝馬の名前が連呼される中で、男性だけが声の限りにヒカリの名前を叫んでいた。



「良かったな。ヒカリ。ここまで走ってきて、良かったな」


いつのまにか、勝見の目には涙が浮かんでいた。


白いたてがみを撫でられているヒカリは、わかっているのかいないのか、つぶらな瞳を勝見に向け、ヒヒンと一度だけ声を上げた。

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