雪原の幻影 その2

 私は素早く袋に水を満たすと小屋に走った。

「急いで。誰か来るわ」

 二人の顔が青ざめる。

「心当たりがあるようね。小屋の影から見つからないように出ましょう」


 私は暖炉の火に灰を被せた。

 ふと思いつき、棚の毛皮を数枚拝借する。

 急いで荷に詰めてから二人を先導した。


 木々の間から、追っ手の姿が見える。

「あんなところに」

 少女が立ち止まってそれを眺めてしまった。

「見ないで、気づかれる!」

 だが遅かった。相手は私達に気づいたようだ。動きが速くなる。


「そんな……どうすれば」

 反省は後だ。今は歩いてもらわなければならない。

 私は安心させるよう、明るい声で言った。

「大丈夫。まだ距離はあるわ。それに、雪の上を歩くのは時間が掛かる」

 まだ冬は浅く、雪はそれほど深くない。私の足首と脛の間ぐらい。

 とは言え、走って追うことなどできまい。すぐさま追いつかれるようなことはないはずだ。だが同時にそれは、こちらの歩みも酷く遅いことを意味する。


「私の指示通りに動いて。雪が積もると地面が見えなくなる。思うより雪が深いところもあるわ」

 私は雪の浅い場所を選んで進んだ。

 この先、川沿いは行き止まりだ。

 北の浅瀬に向かうには森を抜けなければならない。

 おおざっぱに言って道は二つ。西側を行けば山を突っ切ることになる。険しいが距離は短い。東側ならば山裾を回れる。勾配はきつくないが遠回りだ。


 私は振り返り、二人の様子を見た。直ぐに決断する。

 山を越えるのは無理だ。遠回りの道を行くしかない。

 雪を踏みしめ、彼等のための道を作った。

「フードを目深に被って、眼を細めて。雪目になるわ」

 私は二人に注意を与えた。

「なに? それは」

 雪原を歩いた経験が無いのか、少女は私の言葉を理解できない。

「陽に当たった雪を見続けると、眩しくて眼が開けられなくなるの」

 幾らかの諦めと共に付け加える。

「直ぐに分かるわ」


 再び木々が切れた時、追っ手の姿が見えた。

 互いを隔てる距離は、以前の半分ほどに縮んでいる。

「どんどん追いつかれている」

 男が悲鳴のような声を上げる。

 当たり前だと私は思った。こちらは山に慣れない女の脚だ。その上、手助けする男まで頼りにならないときている。

 このままでは確実に捕まる。何かが必要だ。


 山の斜面にある細い獣道にさしかかったところで、私は一度脚を止めた。

「少し休んで」

「でも」

「休まなければどのみち歩けなくなるわ。考えがあるの。そこにいて」


 私は良くしなる木を見つけ、太い枝をロープで曲げた。

 ロープの先端を輪にして、切り株に浅く掛ける。

 曲げた枝の先端に石をくくりつけてから、目立たぬようロープを雪で隠した。

 誰かがロープを引っかければ輪が外れ、石の付いた枝が勢いよく振られるはずだ。


「罠ですか」

「ええ」

「あんなもので効果があるのですか?」

「当たり所によっては怪我をするわ。道から転げ落ちるかも知れない」

 それに、と私は思う。罠があること自体が重要なのだと。


「行きましょう」

 私は道を進みながら、意味も無く雪を崩した。

 また少し進み、細いロープを木の間に張る。

「一体、何をしているんです?」

「おまじないよ」


 やがて、森に大きな音が響いた。

「当たった?」

 男の期待に満ちた声。

「いいえ、外れたわ」

 人に当たったのだとすれば、あれだけ音は響かない。

 空振りして、傍らにあった木の幹に当たったのだろう。


 私は気にする様子も見せず、先を急いだ。

 狭く、視界の悪い道を選んで歩を進める。

 二人は追っ手が気になって仕方ないのか、何度も後ろを振り返る。

「無駄に疲れるだけよ。この先で少し視界が開けるから、そこまで進むことに集中して」


 やがて尾根に辿りついた。高い位置から下を見下ろす格好になる。森の中に、ちらりと動く人の姿が見えた。男が驚きの声をあげる。

「距離が、広がっている」

 違う。距離は確実に縮んでいる。大きく詰められなくなっただけだ。

「なぜだ。どうして?」

 不思議な術でも使ったかのような眼でこちらを見る。

 私は至極あっさりと答えた。

「罠を警戒して、歩みが遅くなっただけのことよ」


 大事なのは、相手が罠の存在を知ったことだ。

 彼等はもう、馬鹿正直に私達の踏み固めた後を進むわけに行かない。それでは格好の餌食になってしまう。

 するとどうなるか。

 私達は一番雪の浅い場所を進めるが、彼等はそこを外れて歩くことになる。

 そして、怪しげなものがあれば立ち止まって調べざるを得ない。


 私は腰の革紐を緩め、ズボンを広げた。中に溜まった湿気を払う。

 さて、どうするかしら。

 おそらく追っ手は気づいている。

 私が時間稼ぎを目的に、偽物の罠を置いているだけだと。


 だが同時に考えるだろう。もし逆の立場なら、と。

 そうやってハッタリを繰り返して油断を誘って、どこかでまた致命的な罠を仕掛ける。それが何時なのか分からない以上、彼等は半ば徒労と知りつつ警戒して進まざるを得ない。


 無意味で不毛な行為の連続は、人の心と身体を酷く消耗させる。

 何より、彼等は黒い翼の影を見た。

 自分達が追っているのは無力なウサギなどではない。

 もしかしたら。もしかしたら訪れる死への恐怖。

 追われる私達だけが感じていた焦燥と不安を、これからは彼等も抱く事になる。


 私はその後も、手間の掛からない嫌がらせを続けた。

 枯れた草を縛って輪にし、雪を崩して細い道を塞ぐ。

 彼等は、このまま単純に後を追うべきか疑念を抱くだろう。


 私は空を見上げる。西の山に、小さな黒い雲が見えていた。

 白い雪の道を踏み越え、脚を前に進ませる繰り返し。

 時折互いの姿が見えつつ行う、動きの鈍い追いかけっこ。

 そんな単調な行為に、私達の命が懸かっていた。


 奴らはしつこく私達を追い続ける。

『お嬢様』は私が懸念してたよりも遙かに頑健だったが、それでも限界が近い。

 男が水袋を振った。

「水が、もうありません」

 私は自分の水袋を取り、一口自分の喉を潤してから男に渡す。

「これで最後よ。大事に使って」


 私自身、疲労を感じてきた頃。相手に動きが見えた。

「人数が減っているわ」

 追っ手の正確な人数は分からないが、おそらく全部で六人か七人。

 しかし先ほどから見える限り、背後にいるのは四人程になっている。

「どうしてですか」

「二手に分かれて、浅瀬に先回りすることにした。そんなところかしら」

 何人かが道を戻り、険しくても距離の短い道を進むことにしたのだろう。

 それは強行軍になる。最も頑健な、山に慣れた男達が選ばれたはずだ。


 そしてどうやら、後ろに残る連中はむしろ歩みを緩めているようだった。

 別動隊が先回りをするならば、むしろ私たちを追い立て過ぎず、ゆっくりと進ませた方が良いのだから。


 これは機会だった。

『追いつけなくてもよい』という意識が芽生えた彼等の注意力は落ちている。

 私は道を変えることにした。

「少し険しくなるけど、我慢して」

 斜面を上に向かう。


 二人の動きは鈍かった。

 彼我の距離が一気に詰まり、追っ手の会話すら聞こえてくるようになる。

「こんな近くまで」

「静かにして」

 安心させるように付け加える。

「奴らだって上に登るのは手間よ。大丈夫。まだ猶予はあるわ」


 私は目指す場所まで来ると相手を待った。声を低くする。

「合図をしたら、一緒にこの木を押して」

 相手の気配がどんどん大きくなる。

「今よっ!」

 男と二人で一緒に木を揺すった。

 枝の上の雪が盛大に落ちる。

 その勢いのままに下の雪を巻き込み、崩れて流れた。


 罵りの声。

 雪崩というほどの量では無い。

 雪に巻かれ、半身が埋まる程度。表面的には子供の悪戯も同然だ。

 しかしここは雪山の中。

 抜け出すために体力を失い、服の内側に雪の粉が入って水になる。それは笑って済ませられるような話では無い。


 混乱する男達を後目に、私達は逃走を再開する。

 稜線を回って、なだらかに雪が広がる斜面に出た。

 ここは風を受ける。夏の時期、短い草しか生えていなかった場所だ。

「滑り降りるわ。これを使って」

 私は荷から毛皮を取り出した。ちょうど座れるぐらいの大きさだ。

「尻に敷いて前を掴むの。橇の要領よ。下は雪だから大丈夫。怖がらずに一気に降りて」


 毛皮を持つとき逆毛にしない向きを教えてから、私は二人を先に送りだした。

 途中何度か転げる彼等を手助けしつつ、下まで降りる。

「身体についた雪を払って。直ぐに!」

 私は、二人の身体に払い残しの雪が無いかを調べた。

「上出来よ。随分引き離せた」

 男が視線を上に向ける。

「ですが、奴らも同じように滑り降りてくるのでは」

「都合良く敷いて滑るものを持っているとは限らないわ。それに、あいつらは私が罠を仕掛けることを知っている」

 ついさっきしてやられた直後だ。こんな広い場所に罠など仕掛けようが無いと知りつつ、足は止まる。

 危険を冒して一気に滑り降りるような気力は残っていないだろう。


 これで少し余裕が出来た。

 私はそう思ってほっとする。だがその考えは甘かった。

 歩みを再開しようとした直後に、少女が足を滑らせて雪の中に倒れる。

 男が慌てて助け起こす。


 気付けば、彼女は目からぼろぼろと涙をこぼしていた。

「ごめんなさい。さっきから目がよく見えないの」 

 雪目だ。視界がぼやけ、地面の凹凸が分からなくなる。

「ど、どうしたら」

 男が動揺した声で言う。

「あなたが支えなさいっ! 倒れて怪我をしたら、確実に追いつかれるわ」

 当たり前の話では無いか。まさか私に彼女を支えろとでも言うのか。

「しかし、私も視界がかすんでいるんです」


 私は歯噛みしそうになる。きっぱりと言い渡した。

「それでもよ。私では無理」

 男と視線を合わせる。

「あなたがやるしかないわ」

 涙の滲む、どこかぼやけた目。しかしやがて男は少女の手を取って頷いた。

「分かりました。やってみます」

 私は二人に背を向けた。

「ゆっくり歩くわ。私の直ぐ後ろについて、足跡を外れないようにして」


 私達の歩みは一気に遅くなる。

 相手が二手に分かれてくれたのは幸運だった。あのまま山に慣れた者を先頭に強引に追跡されていたら、どこかで追いつかれていただろう。

 二人は何度か転び、助け起こす度に時間と体力が失われていく。

 だんだんと私の目も怪しくなってくる中、ふと陽が陰った。

 見上げると、西の山にあった雲がいつのまにか大きく広がっている。

「天気が崩れるわ。急がないと」


 間もなく雲が空を覆い、ちらちらと雪が降り始めた。

「こっちよ」

 陽が姿を消したことで目の痛みが少しマシになる。

 男が疑問を口にした。

「方向が戻っていませんか」

 へえ、と私は感心する。

「あら、分かるのね」


 男は馬鹿にするなと言う顔をする。

「さっき川が見えました。最初は上流に向かっていたのに、いつの間にか川の流れに沿って歩いている」

 疑いというよりも、確認の口調で言う。

「北の浅瀬に向かうのではないのですか」

 私は首を横に振る。


「あいつらの中で一番の健脚が先回りしているのよ。間に合うとは思えない」

 それに、と続ける。

「運良く浅瀬を渡れたとしても、どのみちその先で追いつかれるわ。意味が無い」

「だから戻る。分かりました。しかしその先は」

「直ぐに分かるわ」


 木立を抜けた。見覚えのある景色が広がる。

「見て、小屋が」

 視力が戻ったらしき少女が右手側を指す。

 私達は森をぐるりと周り、最初の場所に戻っていた。


 私は真っ直ぐ小屋へと向かう。

「誰か待ち伏せているんじゃないかしら」

 少女が心配そうに言う。

「大丈夫。あの時、奴らは真っ直ぐ私達を追ってきた。小屋に人を残す必要は無かったはずよ」


 新たな足跡が無いことを確認する。

 私は扉を開けて中に入った。

 暖炉の灰を取り除き、熾火を探す。細かく砕いた木炭をのせて息を吹いた。赤々とした炎が燃え上がる。


 安心したのか、少女が床に崩れ落ちた。やはり消耗が激しい。

「暖まれるうちに暖まりなさい」

 私は少女を火の傍に置くと、男に指示を出した。

「水袋はあるわね」

「ええ」

「川から汲んできて。木の板の上には氷が張るわ。落ちたら死ぬわよ、注意して」


 男が川に向かう。

 本人は駆けているつもりなのだろうが、その動きは幼児のように遅い。

 その間に私は棚から残った毛皮やボロ布を全てかっさらった。

 残っていた僅かな食料も根こそぎ集める。

 それが終わると私は扉を開け、暖炉に木炭をくべ始めた。

 手当たり次第に投げ込んで行く。


「水です」

 戻った男が少女に手渡す。

 こくこくとそれを飲んだ少女は、少しだけ生気を戻した。

 男が燃えさかる暖炉を見て、不思議そうな顔をする。

「暖かいのは有り難いですが、火が大きすぎませんか? こんなに燃やして、どうするんでしょうか」


「どうするか、ですって?」

 私は暖炉の脇に置かれた火かき棒を取る。

「こうするのよ!」

 私は火かき棒を暖炉に突っ込むと、中身を盛大に引き出した。


「な、何を」

 真っ赤に焼けた炭が小屋中に散らばった。

 私はブーツでそれを蹴飛ばし、壁際に寄せる。

 そこかしこで煙がくすぶり始めた。

「狂ったのですか?!」


「いいからそこの荷を持ちなさい。出るわよ」

「無理です。彼女はもう歩けない」

「あとほんの少しよ。引きずってでも連れてきなさい」

 私の言葉に反論しようとした男を少女が止めた。

「大丈夫。歩くわ」

 きっぱりとした意思を込めて告げる。


 私達は煙を上げる小屋を後にした。

 降る雪は勢いを増している。

 私は南の方角に向かった。

 追っ手の足跡の上を歩き、藪で視界が切れるところで方角を変える。


 そこからほんの僅か進むと、朽ちかけた木の壁が見えてきた。

 私はその一角の雪を掘る。小さな扉が姿を現した。

「中に入って。早く」

 二人に続いて戸を潜る。中はひどく暗い。


「ここは?」

「炭焼き窯の中よ」

 土壁に囲われたここは、一種の洞窟だ。

 入り口は小さく、外の冷気は入ってこない。床には大量の木炭が転がっていた。

「残念だけど火は起こせないわ。自分自身が炭になりたいなら別だけど」

 男が少女の傍らにしゃがみ込む。

「ここに隠れるのですか」

「ええ、そうよ」

「良く分かりません。なぜ小屋を焼いたのでしょう」


 私は順番に説明をした。

「追っ手の連中は決して素人じゃないわ」

「それは、そうでしょうけれど」

「あいつらだって、遠からず天気が崩れることぐらい分かっていたはずよ。ここから町までは遠い。もし吹雪にでもなれば自分の身が危うくなる。なのにあいつらは平然として私達を追い続けた。どうしてだと思う?」


 返答は無かった。

 私は自分が導き出した答えを言う。

「いざとなれば、あの小屋に戻れると踏んだからよ」

 理由はそれ以外考えられない。

 でなければ、あの黒い雲が見えた時点で追跡を打ち切っていたはずだ。

 一刻も早く安全な野営場所を見つけなければならないのだから。


「だけど小屋は焼かれてしまった。あいつらはさぞかし狼狽しているでしょうね」

 私の言葉を聞いて、男は考え込む。

「しかし、連中はもう小屋まで辿り着いているでしょう。ここまでの距離は僅かです。安全な場所が欲しいならば、直ぐにでも来てこの窯を奪おうとするのでは」


「そうね。ほんの少し追跡を続ければ奴らは私達を見つけ、安全な場所を手に入れることが出来る」

 そう、ほんの少しだけ足跡を追えば。

「だけど考えてみて。私達が自暴自棄で雪の中を進んだのか、それとも安全な場所に向かったのか。あいつらには知りようがないわ」

 少しだけ開けた戸から、風の音が聞こえた。

「吹雪が近付く中、ねぐらも確保せずに追跡を続けて。視界がまだあるうちに私達を見つけることが出来て。私達が安全な隠れ家を持っていて。それを奪い取れることに賭ける。あまりにも不確かな、自分にとって都合の良すぎる仮定よ」

 私は自信を込めて語った。

「雪の森を知る者なら、そんな夢想に自分の命を預けたりはしないわ」


 実のところ、そう上手く話が進むかは分からない。

 追っ手の中に以前からあの炭焼き小屋のことを知っている者がいたら、直ぐに窯の存在を思い出す。

 いや、聡い者なら自力で私の狙いに気づくことだって出来るだろう。


 そうなったらもう手立てはない。

 黒い翼があくまで私達を追うのならば、それから逃れる術など無いのだ。

 だから私は何も言わなかった。二人を不安にさせるだけだ。


「あとは雪が止むのを待つしか無いわ。止むのが早すぎれば奴らに見つかる。遅すぎれば餓死か凍死ね。そこは運次第」

 私はかき集めた毛皮を出した。

「寒さは地面からくるわ。木炭を敷き詰めてから毛皮を乗せて」

 できるだけ平らになるよう寝床を作る。

「ブーツと同じよ。地面と身体の間に何かを置けば、それだけマシになる」


 私は残る食べ物を一つの袋に入れた。

「あるのはこれだけよ。この雪は数日止まない。少しずつ食べて」

 袋を無造作に置く。

「分配はしないのですか? 公平に」

「却って争いの種になるだけよ」

 身体が大きいから、小さいから。働いたから、そうでないから。

 公平などというものは、人によって内容が異なる。やるだけ無駄だ。


 私は着られるだけのものを着て横になった。

「眠れるなら眠りなさい。それが一番体力を温存できるわ」

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