雪原の幻影
雪原の幻影 その1
「お前は・・・・・・魔女か?」
雪の降りしきる山の中。
見知らぬ者に対し暖炉に火が灯る小屋の扉を開けるという格別の好意を示した私に向けて、そいつは開口一番失礼極まりないことを言った。
「その呼び名は好きじゃ無いけれど」
私は不機嫌な表情を隠しもせずに答える。
「そうね、あなたがそう呼びたいなら好きにして」
男と、男が背負った少女に交互に視線を投げかけた。
「それで、どうするの?」
皮肉な笑みを浮かべてみせる。
「お望みならこの場で扉を閉めて、あなたたちに雪と氷の魔法を掛けてみせるけど」
―――――
森の冬は厳しい。
幸いなことに今年は去年より多少マシな感じではあるのだが、それでも私が春まで生き延びられる保証は無い。
誰にも知られぬまま、黒い翼に巻かれて消える。そんな終わりが来るかも知れないと、いつも心の片隅で思い続けている。
戸を閉めた私は、扉の隙間に粘土を埋めた。
ガタガタとした揺れが収まり、部屋に冷気が吹き込まなくなる。
暖炉の火は最小限に絞っていた。
小屋の中は暗く、影ばかりが広がっている。
「何です? この臭いは」
男は鼻を蠢かした。籠もった異臭がお気に召さないらしい。
「直ぐに慣れるわ。気になるなら外に出てもらっても結構よ」
私の言い方にむっとした様子をみせたが、賢明にも男は反論を思いとどまった。
生真面目だが融通の利かなさそうな顔。背は高く、痩せた身体。
そして、私を見るその目に気になる光があった。
男は暖炉の前に少女を置き、脇に置かれた木炭を継ぎ足そうとする。
「やめなさい」
私は男に警告した。
「凍えかけているんです!」
「勢いよく火を燃せば息が詰まるわ。閉じた部屋で火を使ってはいけないってこと、知らないかしら」
ここはレンガ造りの頑丈な家などでは無い。木で組んだ古い小屋だ。
だから少々の火を燃やしたぐらいなら、隙間風がそれを補ってくれる。
しかし、勢いよく火を燃やすとなれば話は違ってくる。
男ははっとして手の動きを止めた。
春になれば必ず見つかるその手の死体を見たことがあるのだろう。
「その子の様子を診させて」
返事を待たず、私は少女の傍らにしゃがみ込んだ。
年の頃は私と大差ない。少し上だろうか。
着ている服は上物だ。買えばさぞかし高いだろう。だが。
「よくこんな服装で森に入ろうと思ったわね」
館の中、そして暖炉のある部屋で過ごすならばこの服は暖かいだろう。しかし雪の降る森を歩くのには向かない。用途が全く違う。
「濡れた服は脱がすわよ」
汗か、溶けた雪か。水を吸った服を剥いで広げる。
少女は消耗しきっていた。
ぐったりとして私のされるがままに横たわっている。
私は火かき棒を使い、暖炉の灰に沈めておいた石を幾つか取り出した。
手持ちのボロ布で巻いて、男に渡す。
「凍傷になりかけているわ。この子の足先に当てて」
本当はたっぷりの湯を使いたいところだが、そこまでする余裕が無い。
「いきなり熱くしようとしてはダメよ。位置を変えながら軽く当てて、少しずつ暖かさを与えていく感じで」
同じように布で巻いた石を臍の位置に一つ置いて、少女の身体を毛布でくるむ。
背を壁にもたれか掛けさせ、膝をくの字に折った。
「胴体は大丈夫そうね。まずは手足の指を優先しましょう」
私は自分の服をはだけた。少女の右手を取って脇の下に突っ込む。
「人の体温を使うのが一番確実よ。あなたも身体が温まったら、同じようにして」
男は一瞬躊躇ったが、意を決したように上着の前を開ける。
その胸元に、ちらりと光るものが見えた。
男が左手と足を暖め、私は反対側から右手を暖める格好になる。
そのままの姿勢で私は荷から小さな袋を出した。
脂と薬草を混ぜた薬を少女の鼻や耳に塗る。
横顔が炎に照らされる。
整った、美しい顔立ちだった。
やがて少女の息が穏やかさを増す。
寒さで衰弱していただけで、それ以外の問題はなさそうだ。
もう大丈夫だろう。
「後は任せるわ」
私は食事を用意することにした。
水甕を傾けて鍋に注ぎ、塩と豆を加える。
やがて湯が沸いた頃、燻した魚をほぐして入れた。
私はまず自分の椀にそれをよそった。
一口味を見てから男にもう一つの椀を差し出す。
「食べなさい。身体が温まるわ」
「いや、しかし」
男は少女の様子を覗う。
「あなたが先に体力を戻さないと、彼女を助けることも出来なくなるわよ」
そう言って強引に渡してから、自分の分を腹に収めた。
「目が覚めたら彼女にも食べさせてあげて。棚に毛皮の切れ端があるから、下に敷くといいわ。少しは寒さが和らぐわよ」
私は二人から少し離れて床に横たわった。。
もう日は暮れているはずだ。とりあえずは朝を待つしかない。
体力を保つため、とにかく横になる。
毛布が無くなった分寒いはずだったが、なぜかそれほど厳しくは感じない。
どうしてだろうと考えた私は、やがて理解する。
他の人がいると、ごく自然に部屋は暖まるのだ。
無意識に胸のメダルを弄ぶ。
私たちは、野山で採取した薬草を売ることを生業にしている一族だ。
森の魔女。そんな風に呼ばれることも多い。
今年は偶然にも結構なねぐらを見つけ、なんとか春まで飢えを凌ごうと考えていたのだが。どうにもすんなりとは行きそうにない気配になってきた。
「お嬢様、気がつきましたか」
囁くような声が聞こえた。
「ここは・・・・・・?」
「大丈夫、ここは安全です」
二人は気分たっぷりに会話を始める。誠に申し訳ないが、内容は丸聞こえだ。
「ごめんない。わたしのせいで」
「貴方が悪いのではありません」
えーと。
聞こえてくる内容から察するに、この少女はどこかの若い妾か何かで。二人は駆け落ちをして森に逃げてきた。どうやらそういう話らしい。
甘い睦言が繰り返され。
やがて二人が動き始めた。衣擦れの音が部屋に響く。
うわぁ、おっぱじめやがった。
いや、私だってそういう知識が全くないわけじゃない。
薬の効能を教わるために、母からそちら方面のあれこれを聞いている。
私が泊まれるような安宿や飯盛り場では酔った勢いでそういうことを始める人間に事欠かなかったし、私自身、無理矢理引っ張り込まれそうなったこともある。
それからは見知らぬ他人と同室するときは必ず刃物を忍ばせるようになった。
それはともかく。
私がこれまで見てきた行為の数々は、率直に言って動物的な欲求を満たしているだけにしか思えなかった。
しかし今、私のすぐ隣で行われているそれは。
言葉と仕草に相手への愛情やら気遣いやら何やらが破裂しそうなほどに込められていることが伝わってくる。
それがどうにも気恥ずかしく、私を妙な気分にさせる。
薄目を開けて覗いていると、少女の白い裸身が見えた。
怪しくくねるその身体。
そして一瞬だけ、彼女と私の視線が合った。
まあいい。
私は観念して目を閉じる。
不安はあったが、どうしようもない。
素直に眠ることにする。
―――――
私は浅い眠りから覚めた。
幸いにも、黒い翼に捉えられることの無いままに。
空は綺麗に晴れていた。
だが遠からず、また雪は降る。
外界と閉ざされる本格的な冬が始まろうとしていた。
私は木炭を暖炉に少し足すと、小屋の外に出た。
小屋の西側には冬でも凍らぬ広い川が流れている。
川縁に貼られた木の板の上を、滑らないように注意して歩いた。
傍らには盛り上がった雪の小山。
仕掛けを上げると、幸運にも大きな鯰が釣れていた。
手早く捌き、頭と鰭を針に引っかけて川に戻す。
小屋に戻ると、二人は既に起きていた。きちんと服を着て。
「ありがとう。あなたが助けてくれたのね」
少女が私に頭を下げた。
うーむ。私が言うのもなんだが、女というのは恐ろしい生き物である。
男はともかく、女の側は絶対に私が起きていたことに気づいていたはずだ。
しかしそんなことはおくびにも出さず。
朝の光の下、彼女は清楚な雰囲気を身に纏って座っていた。
「わたしは―――」
言いかけた少女を男が止める。
「お嬢様」
少女は口をつぐみ、そして申し訳なさそうに言い添えた。
「ごめんなさい。名前は言えないの」
「構わないわ。気にしないで」
「あなたは?」
問われた私は、胸元からメダルを出し、男をちらりと見た。
「森の魔女と呼ばれる者です」
「まあ」
少女の驚きには僅かな忌避と、興味が入り混じっていた。
「黒い翼を操るという?」
「買い被りよ。私達にそんな力は無いわ」
命は全て、黒い翼に飲まれて終わる。その結末は決して変わらない。
私達に出来るのは、知識と薬の力を借りて翼を僅かに逸らすことぐらいだ。
しかし、とも思う。
それぐらいのことならば、誰にでも出来るはずではないのかと。
人を殺すこと。救うこと。
それは凡人の営みの中にあり、特別な者にだけ許された行為などではない。
「食事にしましょう。夕べよりはマシなものが食べられそうよ」
私は思いきって食材をふんだんに入れた。
ハーブで鯰の臭みを消し、潰した麦を加える。
それでも口に合うかは分からなかったが、二人は黙ってそれを食べた。
「さて、大事な話をするわ」
食事が終わった後、私はそう切り出した。
「あなた達はこれからどうする気?」
少女が不安そうな視線を男に向ける。
「訳ありよね。主人から金とメダルを盗んで逃げた、そんなところかしら」
男が驚きと警戒の眼で私を見た。
「あなたが持っている商人のメダルは立派過ぎるわ。あなた自身の物とは思えない」
私はあえて少女のことについては触れなかった。
男は黙って私の言葉を肯定する。
「最初に一番の問題を言うわ。直ぐにでもここを出る必要があるの」
「どうして?」
「夕べと今朝で食べた食料は、私の十日分よ」
二人は驚いて空になった鍋を見た。
彼等にしてみれば、ひどく乏しく、粗末な食事だったろう。
「三人でここにいたら、春になる前に全員死ぬわ」
私は燃え残りの炭を取った。床に直接黒い線を描く。
「私たちがいるのはここ」
線を川に見立て、東側に印をつける。
「隣町はこの辺りかしら」
川の西側に丸を一つ。
「行くには川を渡る必要があるわ。冷たい冬の川を」
川は広く、中央付近は人の背よりも深い。
船が無ければとても渡れるものではない。
「下流に向かえば橋があるわ。だけどそこには橋番が居る」
探るように二人の顔を見る。
「見張られていたから橋は渡れなかった」
反応を確かめながら、床の線を上に伸ばした。
「だから川沿いに山と森を抜けて、上流の浅瀬を渡ろうと考えた。そんなところじゃないかしら」
私の言い方が癇に障ったのか、男が挑戦的な声で言った。
「だとしたら、なんだと言うのです」
「確実に死ぬわよ」
冷静な一言で男を黙らせる。
「昨日がどんな風だったか思い出してみなさい。そんな恰好で、森の事を何も知らずに。明日の朝を迎えられるかだって怪しいものだわ」
口惜し気な顔をしたまま何も言い返せない。
さすがに自覚はあるのだろう。このままでは生きて森から出られないと。
「そこで相談よ。私ならあなた達を案内できるわ。冬の森の歩き方を教えてあげる」
少女が顔を上げた。
「助けてくれるの?」
「ええ。隣町が見えるところまで送ってあげる。その代わり、タダという訳にはいかないけれど」
「カネ、ですか」
不愉快そうに男が言った。
「当たり前じゃない。結構なねぐらを見つけて冬を越せると思ったのに、貯めていた食料を食べ尽くされたのよ。私だって春を迎えたいの。それが何かおかしいかしら」
少女が口を開きかけた男を止めた。
「わたしが払います。これでどうかしら」
少女は服の内側を探り、見事なブローチを私に差し出した。
素晴らしい細工だった。飾られた宝石。それを映えさせる白い土台。
だがその細工が象る花の形に気付いた瞬間、私は冷たい水を浴びた気分になる。
「これでは駄目よ」
「どうして?」
「私には宝石の価値が分からないわ」
「偽物だとでも言うのですか!」
いちいち突っかかる男を私は軽くいなした。
「売っても買い叩かれるだけ。そう言っているの」
それ以上口を開くなという警告を込めて付け加える。
「第一、私がそんな高価なものを持っていたら怪しいじゃない。いきなり役人を呼ばれても文句は言えないわ」
男は私が言わんとするところを察した。会話の打ち切りを宣言するかのように、懐から袋を取り出す。
「銀なら、良いんですね」
「ええ。私が持っていてもおかしくないのは、それが限度ね」
私は男が差し出した銀を受け取った。悪くない重さだ。
「それじゃ、まず服装からね」
私は小屋に入ると、片隅の衣装棚から古いブーツと毛皮の上着を引っ張り出した。えらく年季が入っているが、まだ十分使える。
渡されたそれを男がしげしげと眺めた。
「随分と大きいですね」
「この小屋の持ち主が使っていたものでしょうね」
「持ち主?」
私の言葉に抱いた疑問を少女が口にする。
「ここは、あなたの家ではないの?」
私は首を横に振った。
「ここは炭焼き小屋として使われていたみたいね。運良く見つけたから使わせて貰っていただけよ。・・・・・・死体は裏に埋めたわ」
「で、では。あの臭いは」
男は何かに気付いたようだった。
中途半端な勘の良さは不幸しか呼ばないことが多いのだが。
「死んだのは秋ぐらいじゃないかしら。腐りきってはいなかったから」
私は黒ずんだ床を指さした。
「あの染みがそうよ」
こわばる二人を面白そうに見てから、私は話を続ける。
「さて。冬の森で怖いのは、水よ。服に雪が張り付いただけなら、払い落とせばいい。だけと溶けて水になったら、もうそれを取り除くことはできないわ」
私は二人の服を見た。
乾いていれば暖かい、しかし水を吸いやすそうな服と、足に合わせて誂えた見栄えの良いブーツ。
「雪が体温で溶けて服に染みこみ、それが氷になったらあっという間に凍傷になってしまうわ。汗にも注意が必要よ」
私はいくつかの注意を与えてから、荷から別の革袋を出した。
「まずは身体に脂を塗るの。これだけで大分違う」
袋から発せられているのは異臭と呼んでいい。
「お嬢様にそんなものを」
「命の方が大事よ」
私の言葉に、少女は頷いた。
「分かりました。言うとおりにします。やり方を教えて」
私はブーツを交換させた。男には小屋に残されていたそれを。少女には男が履いていたそれを使うように言う。
「ぶかぶかになった分だけ、ボロ布を詰めて。特につま先には多めに」
私は自分のブーツで実演しながらやり方を教えた。
「冷えたブーツが身体に直接ふれると、身体もどんどん冷えていく。でも、間に丸めた布を挟めば、寒さはそんなに伝わってこないの」
戸惑う少女に手助けをする。
服を着る順番と水を吸わせないコツを教える。
その後、少しでも歩きやすいようにブーツの中を整えた。
「あなたは良い魔女なのね」
明るい笑顔で、少女はそんなことを言い出す。
「さて、どうなのかしら」
私の答えに彼女は笑った。
私は二人にできるだけの準備をさせると、自分の服装を整えた。
明らかにサイズが大きい男物の革ズボンを取り出す。
腰を越えて腹まで届き、脚の部分もだぼだばだ。
私はその部分に布を詰め込む。
最後に、足首の裾をブーツにしっかりと革紐で結わえた。
「水袋はある?」
「いいえ。雪を食べれば良いと思って」
「あなた、鍋に山盛りの雪を食べることができるかしら?」
男は空になった鍋を見る。
「無理ですね。多すぎる」
「だけど溶かせば椀に一杯程度でしかないわ。雪では喉の渇きを癒やせないの。冷たさで体力を失うだけよ」
やれやれ、手間の掛かることだ。私は水袋を抱えて川に向かった。
ふと異常を感じて視線を動かす。
川沿いは視界が良く通る。
下流に何かが見えた。芥子粒よりも小さいが、間違いなくあれは人影だ。
彼等はこちらに向かっていた。こんな季節に、こんな場所で。
私は直感する。追っ手だ。予想はしていたが考えてたより遙かに早い。
雪の積もった道のりだ。南の町からここまで、普通ならば優に一日かかる。
なのに日が中天に達する前に、彼等はあの位置まで達していた。
私は考えを巡らせた。
どうする。予定の案で行くか。
いや、それでは賭けになる。間に合うかどうか分からない。
そしてふと、脳裏にもう一つの解決策が閃いた。
単純な話だ。あの二人を見捨ててしまえばいい。
このまま一人で森に入ってしまえば、それで話は済む。
奴らにとって、私など何の価値も無いのだから。
連中は小屋であの二人を捕まえ、満足して引き返す。
それが一番確実な方法だった。
でも。
くそっ。
まだだ。見捨てるにしても、もう少し先でいい。
この森ならば私に分がある。
受け取った銀に値するぐらいは面倒を見てやろう。
迂闊にも私は、そんなことを考えてしまっていた。
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