森の魔女

有木 としもと

森の魔女

 粗悪な獣脂のランプ。

 不愉快な匂いを放つそれが照らす室内は、影ばかりが目立っていた。

 街の外れ。市壁の外にあるうらぶれた宿屋。

 出て来た黒パンはまだ人の食べ物として認めてもいいが、一緒に出て来た野菜の煮込みは腐っているとしか思えない代物だった。


 これでは野宿の方がマシだ。そうは思うがこちらにも事情がある。

 私はすっかり冷めた薄い茶をすすりながらじっと待ち続けた。

 暗がりに潜む蜘蛛のように。


 私たちは多分、同時に相手を見つけた。

 どちらが獲物だったのかは分からない。


「ここ、いいかい?」

 大柄な女が私に声を掛けてきた。

 絞り上げたようなその身体が、服の下から透けて見える。

「どうぞ」

 私は女と、その同行者らしき人物を見上げた。

「おお、悪ぃな」

 男の身長は女よりも更に上だった。巨漢、と表現してもいい。

 優しそうな瞳で私を見下ろす。

「子どもがこんなとこに独りじゃ、危ないぜ」

 説明が面倒くさい。そう思った私は二人にメダルを掲げてみせた。


「魔女か」

「その呼び名は好きじゃ無いけど」

 私は苦笑を浮かべて見せる。

「そう呼びたいなら、好きにして」

 私たちの一族は野山で採取した薬草を売ることを生業にしている。

 森の魔女。そんな名で呼ばれることも多い。


 店主が二人の前に木製のジョッキを置いた。

 続いて出された皿の中身は、私の前に置かれたそれとは随分と中身が違う。

 きっと、まともな代金を払ったのだろう。

 羨ましいという本音は出さず、二人の食事風景を黙って眺めた。


「魔女なら、何か不思議な薬でも持っているのかい?」

 エールを飲んだ女が陽気な口調で聞いた。男の軽口がそれに続く。

「惚れ薬があれば欲しいな。こいつに飲ませたい」

 面白く無い冗談を聞き流し、私は腰のポーチから小さな陶器の瓶を取り出した。

「今はあんまり手持ちがないの。でも、これなんかはお勧めよ」

 慎重に封を開けて、中身を少し小皿に垂らした。二人の視線が注がれる。

「虫除けよ。試してみない?」


 私は使い方を説明する。

「寝る前にベッドの四隅と中央に一滴ずつ。それで十分よ」

 女は小皿に鼻を近づけた。

「すっとした匂いだ。気持ちいいね」

「効果は保証するわ」

 男がからかうような口調で言う。

「さぞかし高いんだろうな」

 私は澄ました顔でそれに応じる。

「一瓶で銀貨五枚ね」

 男が渋い顔をした。

「おいおい。銀貨一枚出せば、清潔なシーツの宿に豪勢な食事と酒が付くんだぜ」

「そうね。だけど旅の途中では、虫だらけのベッドしか選択肢がないこともあるわ。沼の近くで不快な野営をしなければならないことも」

 この街の先は沼沢地が広がっている。

 私の言葉にはそれなりの説得力があるはずだ。

「財布の中が空ならともかく、お金があるのに快適さを求めないのはおかしいわ。ちゃんとした休息を取れるかどうかは、生死にだって関わるのに」

 女性の瞳に興味の光が宿った。

「確かに、虫に悩まされない夜ってのは良いね」

 かかった。私は内心の笑みを出さないように努力する。

「この皿は無料よ。試してみて気に入ったら、明日の朝に声を掛けて」


 翌朝。

 昨夜に懲りて黒パンだけを頼んだ私に、店主は固く、酸っぱく、虫ですら食べるのを避けるような不思議な塊を持って来た。

 少しだけ齧ったそれを嫌々味わい、自身の経験と照らし合わせる。

 少なくとも毒ではない。

 私は薄い茶を口に含んで口の中でそれをふやかし、無理に呑み込んだ。


 口の中に残る嫌な感触がようやく消えた頃、昨夜の二人が姿を現した。

 女が大股の歩調で真っすぐこちらに近付いてくる。

「買ったわ」

 そう言って無造作に銀貨を投げ出した。

「大したもんだよ。あたしには全然虫が寄りつかなかった」

 後ろで男がぼりぼりと身体を掻いてみせる。

 効果を試すため、男は薬無しのベッドで寝かされたのだろう。災難なことだ。


「まるで魔法みたいだよ」

 興奮気味に語る女に、私は静かに応じた。

「その点は、あなたの判断に任せるわ」

 世界に様々な不思議はあるが、人が使える魔法などというものは見たことがない。

 おそらく、そんなものはこの世に存在しないのだろう。

 しかし。

 己が理解できない事柄は、魔法と変わらない。

 だからまあ、そう呼びたければ呼べばいい。売りつける品の値が上がるなら、私は一向に構わない。


 私は瓶を取り出した。

 蜜蝋の封がきちんとされていることを確認してから女に手渡す。

「効くのは飛び跳ねに服潜り、香にして焚けば、血吸翅も追い払えるわ。その時は、出来るだけ風が無い場所で使って」

「ああ。だけどちょっと待った」

 女は昨夜の小皿を取り出した。

 瓶の封を開けて少量を垂らし、匂いや色を慎重に比較する。

「偽物を渡したりはしないわよ。バレたら命に関わるもの」

 私と二人では体格からして違う。斬り合いにでもなったらひとたまりも無い。


 女は嫌みも悪意もなく、当たり前の表情で薬を調べ続ける。

「あたしもそう思ってるよ。だけど仕事柄、どうしてもね」

 私は軽く頷いた。

 用心深さは貴重な資質だ。彼女は生き残ることが出来るだろう。

 避けられない不運が、黒い翼を運ぶその日まで。


 確認を終えた女が蓋を蝋燭の炎に近づけて封をし直す。

「他にも無いの?」

「それと逆の薬なら」

「逆? 虫を呼ぶってこと」

「ええ、材料はほぼ一緒だから」

 女は呆れた表情になる。

「いらないわ、そんなもの」


 これはこれで便利なのに。

 材料はほぼ変わらないが、効果については寄せる側がずっと強い。だから、どこに虫が入り込んだか分からないような時にはおびき出して焼いた方が早いのだ。

 そうは思ったが、私も無理強いはしなかった。


 購入のお礼として、私は薬の注意点を伝えておいた。

「便利だけど、あまり使い過ぎないようにした方がいいわ」

「なぜだい?」

「慣れてしまうの」

 私は簡潔に言った。

「この薬は虫を殺す効果はないわ。追い払うだけ。それも忘れないで」


 尽きかけていた路銀が補充できたことにほっとしながら、私は宿を出た。

 とは言え、警戒は怠らない。

 迷惑なことに、あの二人は堂々と銀貨を見せた。あんな宿にたむろする者にとっては、十分以上の大金。

 彼等は腕力で身を守れるかも知れないが、私には無理だ。

 後を付けてくるような不心得者が居ないことを慎重に確認する。

 うら若く、か弱い女子が旅するには、色々と苦労が多いのだ。

 この先に広がる森で、旅の商人が殺されたという噂も聞いた。用心するに越したことはなかった。


 旅の算段は昨日のうちにつけていた。

 身元の確かな―――この街に長年顔を出しているという商人の一団。彼等との同行を承諾して貰っていたのだ。

 独りで駄目なら多数。生き残るための基本だ。

 ひょっとしたら、雇われ護衛の数人ぐらいはいるかもしれない。そうなれば、襲われる危険はぐっと下がる。

 そんなことを思いながら約束していた市場の外れで待っていると、商人達と一緒にどこかで見たような二人組がこちらに寄ってきた。

「おやおや、奇遇だねぇ」

 女は弓を携えていた。腰には大ぶりのナイフ。

 男は皮鎧のような物を身に着けていた。正確に言えば、胸や腹の部分に皮切れを継ぎ当てた服と、兜代わりの皮帽子だ。腰に帯びているのは、どこからか拾ったような古ぼけた長剣。なまくらそうではあるがこの身体だ。ただの棒でも侮れない。

 男がおどけた声で言う。

「こいつは運命だな。嬢ちゃんと俺達の間には何か結びつきががあるぜ、きっと」

 笑えない冗談に、私は顔を引きつらせた。


 商人の一団は六人だった。馬は無い。全員が重そうな荷を背負っている。

 私も身長の割には大きな背負い袋をつけているが、彼等にとっては荷のうちにも入らない量だろう。


 道のりは概ね順調に進んだ。

 あまり使われることのない旧道という話だったが、状態はそれほど悪くない。要所には石が並べられ、斜面もそう滑りやすくはない。

 男の笑えない冗談はなぜか商人達に受けが良く、私は甚だ不愉快になりはしたが、生じた問題と言えばその程度。一行は順調に歩みを進めた。


 昼が過ぎ、やがて太陽が右眉の角度よりも下になった頃。

 私は探していたものを見つけた。

「待って」

 街道から少し下った沼のほとり。そこに広がる黄色い花畑を指す。

「あの花の根を集めたいの」

 商人から一斉に戻る不満の声。しかし私はそれを無視した。

 ひょっとしたら、これが唯一のチャンスかも知れないのだ。

「じゃあここで別れましょう。あなたたちは先に進んで」

 私は返事を待たなかった。そのまま街道を外れて歩き出す。

 三歩ほど進んだところで背後から声が掛けられた。

「嬢ちゃん」

 振り返ると、女が面白そうな表情で私を見つめている。

「幸運を」

「ええ、あなたも。黒い翼に捕まらないように」


 私はごつごつした革手袋をしっかりとはめた。

 邪魔になる草や枝を除けながら、沼のほとりへと下っていく。

 花畑が見えてきた。

 もう少しかな。そんな風に気を取られてしまったのが失敗だった。


 ずるり。ブーツが滑り、身体が傾く。

「きゃあっ!」

 私は見事にすっころんだ。

「ん、もう!」

 ぶつぶつと毒づく。身体じゅうが泥まみれだ。

 不運を嘆きながら立ち上がろうと手を突いた時、ちょっと思い直す。

 いやいや、この程度で済んで良かったと思うべきなのだろう。

 ゆっくりと四つん這いで固い地面を探す。

 もう大丈夫だろうか。乾いた場所に移動してから、慎重に立ち上がった。

 小ぶりな鉈を荷物から出して、手近な樹に巻き付いていた蔓草を断ち切る。それをブーツに縛って結わえ付け、滑り止めにした。


 私は花畑に入り、良さそうな根を物色した。

 泥から丁寧に引き抜き、あまり太くなりすぎていない白いそれを集める。

 条件に合わないものは地面に戻した。

 路銀はまだまだ乏しい。次の街で売れる物が無ければ干からびてしまう。

 なんとか満足できる量を集め終えた時、日は傾きかけていた。

 野営の準備をした方が良さそうだ。


 火を焚きたいところだが、それは諦めた。

 ぼそぼそした古い堅焼きパンを水で流し込み腹を満たす。

 少し黴臭くはあったが、それでも今朝の食事よりはずっとマシだった。

 私は荷物から幅広の帽子を取り出した。

 つばの先から編み目の細かい布をぐるりと垂らした自作の品だ。


 マントを身体に巻き、肌の露出が無いことを慎重に確認する。

 沼の近くは血吸翅が多い。奴らは夜になると集団でねぐらの動物を襲う。

 厄介な場所だが、逆に言えば狼や熊にとっても近付きたいない場所だ。

 ある意味では安全とも言える。


 日が翳り始めた頃から、私を察した血吸翅が寄り集まってきた。

 頭部は帽子から垂れる布で、身体はマントできっかりと身を守る。

 雲霞のような虫の群れ。

 旨そうな獲物を前にお預けを食らい、怒りに身を震わせる。さすがにその不快な羽音を防ぐ手段はなかった。

 やれやれ。夜明けまで長そうだ。

 虫除けの薬、少しは残しておけばよかったな。そんなことを思いながら、私はなんとか休息を取ろうと目を閉じた。


 人間、あんな状況でも結構眠れるものだ。

 私は自分自身の図太さに感心しながら目を覚ます。

 日が昇ると、いつの間にか虫たちは姿を消していた。


 私は直ぐに街道に戻りはしなかった。

 周辺を散策し、使えそうな薬草を探して時間を潰す。

 太陽が中天に昇ったころ、そろそろいいかなと思って街道へ向かった。


 彼等と別れてから、一日近くが経過している。

 だから多分大丈夫。そんな私の甘い予測は見事に覆された。


 昨日の場所から、街道を三千歩ほど進んだ辺り。

 そこに無残に殺された商人達の死体が転がっていた。

 荷物には物色の跡。


 悪い予感が当たった。

 彼等に忠告しておくべきだったのだろうか。

 しかし証拠は何も無かった。私の言葉を信じて貰えたかも分からない。

 下手をすれば、その場で私も斬られていた可能性だってある。

 私は頭を振って湧き上がる思考を追い出した。

 今更そんなことを考えても意味は無い。

 黒い翼が彼等に触れた。そう思うしか無い。


 それより急ぐべきだった。

 我に返って踵を返そうとした瞬間、木陰から大柄な男が姿を現した。

 優しそうな笑顔を私に向ける。

「よう嬢ちゃん。遅かったな、心配したぜ」

 私は冷たく応じる。

「何も見なかったことにするから、そのまま通してくれないかしら」

 男はにこやかな声のままに両手を広げる。

「おいおい、まるで俺達がやったみたいな言い方じゃないか」

 私は男の言葉を無視した。

 いい加減、出来の悪い冗談を聞かされるのに疲れていたのだ。

 男は仕方ないな、という表情になって頭を振る。


「悪いが駄目だ。随分と勘が良さそうだからな。後々面倒になるかも知れん」

 世間話でもするような明るい声。

「ところで嬢ちゃん、最初から俺達を疑っていただろ。なんでだ?」

 私は次の動作に備えて身構える。

「あなたが言っていたんじゃない。銀貨があるならもっとマシな宿に泊まれるって」

 緊張でこわばりそうな顔に、なんとか余裕の笑みを貼り付けて見せる。

「逆に聞きたいわ。何か真っ当な宿に泊まれない理由でもあったのかしら?」


 男が動く。

 私は迷わず背負っていた荷を捨てた。

 上手く行けばそちらに気を取られてくれるかも。だがそんな期待は甘かった。

 私の荷など、商人のそれに比較すればガラクタでしかない。

 男は一顧にもせずに私に迫る。


 私もまた必死に走る。

 元々の脚力は男の方が上だろう。しかし剣や鎧は重い。瞬間的な身軽さならばこちらに分がある。総合的には互角のはずだ。

「痛くしねぇよ! そんなに怯えんな!!」

 ふざけるな。

 あいつはおそらく、最悪の変態だ。捕まったら何をされるか分からない。


 男が呼び子を吹いた。

 私はその意味を理解する。彼等は二手に分かれたのだ。街道に戻らぬ私を不審に思い、女は道を遡ったのだろう。

 だとすれば、二人が合流するまでしばらくの時間がある筈だ。


 男の視界から外れた一瞬を狙い、私は街道を外れて森の中に入り込む。

 しかし距離を稼げていないため、男はあっさりと私の動きに気づく。撒くことが出来ない。

 まずいことに息が切れてきた。持久力は明らかに向こうが上だ。

「おーい、待ってくれよ」

 男もそれを察しているのだろう。愉しむような声で私に呼びかける。

 私は走る。黄色い花畑に向けて。幸運とブーツに縛った蔓草を信じて。

 互いの距離が詰まる。足下の泥が跳ねた。

 

「うわっ!」

 驚きの声と共に男が身を崩した。

 転倒する身体を支えようとして、反射的に左手を突く。

 ずぶり。

 その腕が一気に、肘より上の部分まで地面にめり込んだ。


 軟弱な泥が広がる沼のほとり。小柄な私ですら危険なほどの。

 なのに男はその巨体の重量を一点に集めてしまった。

 男は寝転んだ態勢のまま、腕を引き抜こうと必死にもがく。

 しかし、絡みついた泥は想像よりも遥かに重い。そして腕を引き抜くには、それと同じだけの力を地面に加えなければならないのだ。

 無理な体制で踏ん張った脚があっという間に踝まで埋まり、直ぐに脛、そして膝へと進む。


 男は自分が罠に掛かったことを悟った。怒りに燃えた瞳で私を睨む。

「おいっ! 助けろ!!」

 それは理不尽極まる要求というものだ。

 そもそも、あの巨体を私が引っ張りだせるとでも思っているのか。

 沈まぬように板でも渡しながら、大の男が二、三人掛かりでやっとだろう。

 私は男から視線を逸らさないまま距離を取った。背後から剣でも投げられたらたまらない。

 もう十分。そう判断したところで身を翻し、脱兎のように駆け出す。

 喚き続ける男を無視して、私は街道へと急いだ。


 道に戻った私は、まず自分の荷を回収する。

 背後から甲高い笛の音が聞こえていた。男が助けを求める悲痛な響き。


 どうする。街道を外れて森を進むか。

 いや、駄目だ。危険すぎる。

 この森は人よりも恐ろしい。

 女は元来た道を戻ったはずだ。だとすれば先に進むしかない。

 しかし歩みは女の方が早いだろう。普通に進んでも追いつかれる。

 女は狩りを生業としているようだった。森の中で獲物を追い詰める技量に不足は無い。このままではどこかで不意を打たれ、あっけなく殺されるだろう。


 ああもう。

 森の魔女などと呼ばれてはいるが、私はこんなところで命懸けの追いかけっこをした経験は無い。それを楽しむような趣味も持ち合わせていない。


 私はともかく道を進むことにした。

 脚を止めれば追いつかれる。動かなくては。

 少しでも自分が有利になる場所を探すしかない。


―――――


 夜のとばり。

 私は女の存在を感じとった。

 雲は厚く、月は見えない。

 漆黒の中を、しなやかな動きで音も無く忍び寄ってくる。

 女は木陰に潜む人影を認めて素早く矢を番え、無造作にそれを放った。


 驚嘆すべき腕前だった。

 この暗闇の中、矢は見事に標的を射貫いたのだ。


 女は喜びに身を震わせ、そして一瞬の後に戸惑う。

 苦痛の呻きも、死にゆく肉体の痙攣も無い。

 まるで、藁の人形を射たような手応えの無さ。

 張り詰めていた集中力が切れ、心に疑念と迷いが走る。

 私はその隙を見逃さなかった。

 隠れていた茂みを飛び出して女の背後を取る。互いの位置関係が入れ替わった。

 私が風上、彼女が風下に。

 

 少しでもハッタリが利くよう、出来るだけ声を低くした。

 願わくば少しでも翼の使者めいて聞こえますように。


「いきなり射かけるなんて物騒じゃない」

 そう言いながら、大きく右手を振り払う。

 女と私は同時に飛びすさった。

 私なら五歩の距離。女なら、たぶん三歩で私に手が届く。


 暗闇で顔は見えない。しかし流石に動揺ぐらいはしているだろう。

 接近を察知され、マントで作った偽の人影に誘導され。

 止めとばかりに無防備な背後から突然声を掛けられた。

 自分が信じた絶対的優位を覆されたのだ。

 その動揺につけ込まなければならない。


「魔女は黒い翼を操れるのよ。知らないの?」

 女は沈黙のまま答えない。

 私は少しでも時間を稼ごうと、話を続けた。

 問答無用で射かけられたら、それで全ては終わりだ。


「直ぐに引き返して助けを呼べば、あの男は助かったかも知れないのに」

 自分がしたことに反省は無いが、結末を考えるとあまり気持ち良くはなれない。

「沼にゆっくり沈んで息が止まるか、乾いて死ぬか。森の生き物の餌食になるか」

 どれも私としては願い下げの最期だ。あまり想像もしたくない。

 しかし女から次の動揺を引き出さなければならなかった。


 私は見下したような冷たい声で言う。

「見捨てたのね」


 だが、私の語りは逆効果だったようだ。女の声が余裕を取り戻す。

「はん。そんなことをしている間に嬢ちゃんが次の街に着いたら、あたしらはお尋ね者だ。どうせ縛り首になるなら、同じじゃないか」

 全く以て冷静かつ慎重なことだと私は感心する。

 あの男などより遙かに手強い。

「あんたの口を塞いだ後、まだ生きていたら助ける手段を考えるよ」

「出来るのかしら。あなたに」

 あからさまな挑発をしてみせる。

「さっきやってみせたでしょう。私には、あなたがどこに居るか分かるのよ」


 女が身構える。私を、私の未知の力を警戒して。

「怪しげな魔法を・・・・・・そんなものでっ!」

「魔法じゃないわ」

 予想外の一言に女の動きが止まった。

 話の種はこれで最後だ。

 だが女の興味を引くためには、全てのカードを晒すしか無い。

 もう少し。きっともう少しだ。


「言ったでしょう。使いすぎてはいけないと」

「何の話だっ!」

「虫除けの薬よ」

 私は冷静に言った。

「あなた、これまで香油を使ったことが無いでしょう」

 そうに違いなかった。女は明らかに貧しい狩人だ。

 最近になって突然に大金を得たような。


「始めて使う人がよく犯す間違いなの。続けざまに使って匂いが感じ取れなくなり、どんどん量を増やしてしまう。今のあなたは、森中に匂いを撒き散らしているのと同じよ」

 女はゆっくりと頷いた。

「なるほどね。だから、あたしが来たことに気づいたのか」

「森の獣もきっと匂いを感じとるわ。仕事に差し支えそうだから忠告したのだけど、他人の話を聞かないのね」

 とは言っても、私の嗅覚は森の獣ほど鋭くは無い。

 風上からでしか近づけない場所を選んでじっと待ち、かろうじて先手を取れたというのが本当のところだ。


 女が哄笑する。

「それはそれは、ご親切だったねぇ」

 理解と安堵。秘密は解けた。女はもう、私を恐れていない。

「嬢ちゃんの作った薬は実に快適で気に入ったけど、あたしの仕事には合わないようだ。残念だけど、馴染み客にはなれないようだね」

 女はゆっくりと弓に二の矢を番えようとする。

 この距離で女が外すことはあり得ないだろう。


 死の恐怖を前にしながら、私は嘲笑うように声を高めた。

「やっぱり忠告を聞かないのね。魔女に刃を向けてはいけないのに」

 少しでも魔女らしく聞こえるように、自信に満ちた不敵な口調を装って。

「あなたの腕を見なさい。自分が今、どうなっているかを!」

 女は自分を包む黒い霧に気づいた。

 いつの間にか両腕に纏わり付いた蠢く黒い影。


「何だっ? 何だこれはっ!!」

 慌ててそれを振り払おうとする。

 鉄の匂い。

 彼女の血をたっぷりと吸った虫たちが、まとめて潰されたのだ。


 女は半狂乱になって群がる血吸翅を追い払おうとする。

 だが無駄だ。

 奴らは自分の生死など気にしない。

 獲物を見つければただ接近し、食らい付く。

 手も、脚も、顔も。露出している全ての場所に。

 暗がりの中、女は呪われたダンスを踊る。


「魔女めっ! 魔女がぁ!!」

 恐怖と嫌悪感に包まれて、女は倒れ伏した。

 ああなってしまったら助からない。

 血を吸われ続け、身体に注ぎ込まれる微量の毒がやがて全身に回り、死に至る。

 悲惨な最期ではあるが、同情している暇は無い。

 私は巻き添えを食らわぬよう、全速力でその場を逃れた。

 近くにいたら、私自身が同じ運命を辿りかねないのだ。


 女は気づいていただろうか。

 背後に立たれたあの瞬間。

 私が持っていたもう一つの薬。虫を呼ぶ薬をその身に浴びたことを。


 もっとも、そんな事実は死にゆく者にとってどうでも良い事なのだろう。

 かけられたのが魔法であろうがなかろうが。

 その結末は何も変わらないのだから。


 雲の合間から月が覗いた。

 私は最後に一度だけ振り返る。

 彼女に覆い被さる虫の群れ。

 それはまるで、黒い翼のように見えた。

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