第一章 異世界に来ました(一年前)

三、異世界へ

 今から約一年前のことだ。私、原田はらだうめは十五才の高校一年生だった。都内の高校に進学して初めての秋を迎えたある日のことだった。


  §


 学校帰り、夕焼けの空の下、少し肌寒くなったいつもの帰り道を幼馴染と歩いている。

 隣を歩く幼馴染の顔をちらりと見た。耳にかからないくらいの長さの、少し癖のある茶色がかった髪がフワリと揺れている。

 隣を歩く同級生の新宮にいみや海翔かいとは近所に住む物心ついたころからの幼馴染だ。今では私よりも頭一つ分くらい背が高くなって、顔立ちも随分男らしくなったと思う。

 茜色に染まった端正な顔は真っ直ぐに前を向いている。小学校三年生くらいまで繋いでいた手は、今はもう繋がれることはない。このお互いの手の距離がそのまま今の私たちの距離だ。

 私はというと、小柄な体格と童顔のせいで未だに中学生と間違われる。海翔はそんな私のことをよく黒猫みたいだと言っている。背中まで伸びた真っ黒な髪と、少し吊り上がった猫っぽい目のせいだろうか。

 海翔とは随分差がついてしまった。いつの間に海翔はこんなに大人っぽくなってしまったんだろう。一緒に歩いていても兄妹にしか見えないんじゃないだろうか。


「あー、腹減ったなー。ねえ、今日家に寄ってもいい?」

「いいよ。いつものでいいよね?」

「うん! ああ、楽しみだな」


 近所に住む海翔は毎日のように学校帰りにうちに立ち寄って、腹が減ったと言っては食べ物を要求してくる。私がおにぎりとキュウリのお新香を作ってあげると、それをいつも美味しそうに食べる。私はそんな海翔の美味しそうな顔を眺めるのが好きだ。

 中学校に入ったばかりのころ、バスケ部に入った海翔はすぐに女子の噂の的になった。背が高くて格好いいそうだ。私は幼いころからずっと一緒にいるので、海翔の外見については「そう言われてみればそうかもね」といった認識くらいしかない。

 私が所属する園芸部の活動が終わったあと、海翔のバスケ部が終わるのを少しだけ待って一緒に歩いて家路を辿る。そしていつものように公園へと下る階段の上に差しかかったところで、海翔が立ち止まって階段の手摺りに腰かけた。私も立ち止まって海翔の傍に立つ。


「なあ、梅。たくさんがいなくなってもう半年だっけ……」

「うん、そのくらいだね」

「警察からは何の連絡もないんだろ?」

「うん……」

「そっか……」


 海翔が言う拓さんっていうのは私の父さんだ。うちは五才のときに母さんが病気で亡くなって、それからずっと父子家庭だった。父さんは料理人で、街で小さな小料理屋を営んでいた。亡くなる前は母さんが店を手伝っていた。そして母さんが亡くなってからは私が店を手伝っていたんだ。

 私は幼いころから料理を作る父さんを見ているのが大好きだった。そんな私に父さんはときどき甘いおやつを作ってくれた。優しい甘さが母さんみたいで、私も海翔も父さんがおやつを作ってくれるのを楽しみにしていた。


『どうだ、美味いか?』

『おいひぃっ!』

『んまぁい!』

『ハハッ、そうかそうか』


 私と海翔が美味しそうに食べているのを見て、嬉しそうに笑っていた父さんの顔を思い出す。親子二人だけで頑張って続けていた小料理屋も、半年前父さんが山で遭難してからはずっと閉めたままだ。

 父さんは地元の山で遭難した観光客を捜索するために消防団に加わって、捜索中に行方が分からなくなってしまった。遭難したんだろうと言われている父さんの遺体は今も見つかっていない。行方不明のままだ。でも私は父さんがどこかで生きている気がするんだ。

 今は父さんが残してくれた貯金と国の援助で一人暮らしをしている。私は素直な性格じゃないから、親戚は皆、私を引き取るのを躊躇っていた。施設に入れられたくはなかったから、親戚に後見人としての名義だけ借りて今までの家に住み続けているんだ。料理は得意だし、母さんが亡くなってからは家事だって私がやってきた。だから一人で生活するのに特に不便を感じたことはない。海翔の家のおじさんとおばさんも、何かと声をかけてくれるしね。


(いつか父さんが帰ってくるかもしれない。私は父さんと母さんの思い出がいっぱい詰まったこの家を離れたりしない。絶対に!)


 一人になってからも海翔はしょっちゅううちに遊びに来ていた。海翔とつきあっているんじゃないかって近所で噂になったときは二人して笑ってしまった。海翔とはそんなんじゃないのに。


「あのさ、俺今悩んでて……」

「どしたの?」

「この間、うちのバスケ部のマネージャーの藤沢ふじさわ美奈みなって子に告白されてさ」

「マジ?」

「うん、マジ。つきあってって言われたんだけど、俺、つきあうっていうのがいまいちピンと来ないんだよね。でも友だちは皆彼女いるし、今つきあってる相手がいるわけでもないし」


 隣のクラスの藤沢さんは睫毛がクルンとして目が大きくて、茶色っぽいゆるふわロングヘアの美人だ。うちのクラスの男子が可愛いって噂していたのを思い出した。でも実は私は藤沢さんのことが苦手だ。廊下ですれ違うたびに理由もなく睨まれるからだ。このことを海翔に言ったことはないし、これからも言うつもりないけど。

 海翔の話を聞いたときに胸の奥がつきんと痛んだのはきっと気のせいだろう。海翔の恋愛話なんて初めて聞いたから、先を越されたっていうか、寂しくなったのかもしれない。海翔はそんな私をじっと見たあとに、ニカッと笑って言った。


「まあ、いっか。別に今のままでも十分楽しいし」

「そうなの?」

「うん、俺には梅がいるからな!」

「ふーん」


 そのとき突然後ろから誰かが声をかけてきた。


「海翔くん」

「藤沢。……なんでここにいんの?」

「二人が一緒に帰ってるのが見えたから追いかけてきたんだけど」


 藤沢さんの表情はとても穏やかと言えるものじゃなかった。藤沢さんは何かに怒っているかのように詰め寄ってきた。


「私の告白を保留にしておいて、なんで原田さんとは一緒に帰ってるの?」

「梅とは前からずっと一緒に帰ってるよ。なんで藤沢にそんなこと言われなきゃいけないの?」


 飄々と話していた海翔の表情も徐々に険しくなってくる。私が原因で喧嘩するとか止めてほしい。だけど横から口を出せる雰囲気でもなくて、私は一人でおろおろしてしまう。

 藤沢さんは海翔の言葉を聞いた途端に涙を浮かべた。うちのクラスの男子たちが言っていたけど、藤沢さんは男が放っとけない庇護欲をそそるタイプだそうだ。私は今の藤沢さんを見て『なるほど』と納得してしまった。こんなふうに冷静に観察してしまう私は冷たい人間なんだろうか。藤沢さんは涙を浮かべたまま上目遣いに見上げて海翔に迫った。


「じゃあ、今度から私と一緒に帰ってよ! 原田さんのことは何とも思ってないんでしょ!?」

「お前なぁ、梅は彼女とかじゃないけど大事な幼馴染なんだよ。俺が誰と帰ろうと俺の勝手だし、俺、藤沢とはつきあわない」

「っ……! そんなのやだっ! 何よ、こんな地味な子っ!」


 藤沢さんが私の制服の袖を掴んだ。私は驚いて体が竦んでしまう。私に向けられている藤沢さんの目が怖い。海翔がその手を叩くように払って私を背に庇った。


「梅に触んな!」


 表情は見えないけど、海翔の聞き慣れない威圧的な低い声に少しだけ恐怖を感じてしまう。本気で怒った海翔はあまり見たことがなかったからだ。

 藤沢さんが叩かれた手をもう片方の手で包んでわなわなと震えながら、憎悪の滲む眼差しで私を睨みつけてくる。


「酷い……。あんたのせいでっ!」

「やめろっ!」


 逆上した藤沢さんが再び海翔の後ろにいる私に手を伸ばそうとすると、海翔がその手を阻んだ。私は恐怖を感じて一歩後ろに下がった。だけど……。


「あ……」


 後ろに引いた右足の下にはあるはずの地面がなかった。バランスを崩して体が後ろに傾く。そしてそのまま背中側にある急な階段を落ちるように体が宙に浮いた。


「梅ぇっっ!!」


 目の前には私に向かって叫びながら手を伸ばしている海翔の姿が見える。海翔の手を掴むために手を伸ばそうとするけど届かない。その届かない距離が隣を歩くときと同じ距離だと思った。ほんの一瞬のはずなのに、周囲の景色がスローモーションのようにゆっくりと流れていく。


(私このまま死ぬんだ。父さんとも海翔とも会えなくなって、母さんの所へ行くんだ)


 そう思った瞬間、世界は真っ白に塗り潰された。そして気付いたら見たこともない森の中に投げ出されていた。

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