第6話 旅立ち

季節が過ぎ、あたたかな春の陽射しが感じられるようになった頃。猛威をふるった林檎病も終わりを迎え、森には平穏な日常が戻ってきました。


白雪は、小ぶりな荷物を背負うと、心配そうな小人の兄弟に笑いかけました。

「じゃあ、そろそろ行くね」

「…本当に、一人で行くのかい」

真っ赤な目をしたお父さんが尋ねました。お祖父さん、お祖母さんも白雪を見つめています。

「もう決めたもの。見送りはいいわ。いつもみたいに、この家を出たいから」

お母さんが、力をこめて白雪を抱き締めました。

「ここがお前の家だよ。いつでも帰ってきていいんだからね」

「…今まで、本当にありがとう」

白雪はぎゅっと瞳を閉じると、想いを振りきるように扉を開けました。

「いってきます!広い世界を、見てくるわ」


ジョゼ婆さんの家で暮らし始めた母。療養所に通い、病者に向き合い続けた母。城にいた頃からは想像もつかなかった母の姿を見るうちに、白雪の心にある想いが湧き上がってきました。


…何のために産まれてきたのかと、思うこともあった。

けれど、人は何かを背負うために、産まれてきたのではない。誰かのために、生きるのではない。


母には母の、私には私の、生きる道がある。


私は私のために生きる。私がやりたいことを、探しに行くんだ。この広い世界に向かって。


ジョゼ婆さんの家を訪ねると、中にはジョゼ婆さんしかいませんでした。

「薬草を取りに行くと言ってね、早朝から出たきり戻らないんだよ。白雪の旅立ちの日だというのにね」

苦笑するジョゼ婆さんに、白雪も微笑み返します。

「ジョゼ婆さん、本当にありがとう。母のこと…。きちんとお礼もできないままだった」

「連れてきたのはお前だが、あとは私が勝手にやったことさ。礼なんて要らないよ。助手ができてありがたいのは、私の方だからね」

ジョゼ婆さんは薬草の包みを白雪に手渡しました。

「餞別だ。からだには、気をつけるんだよ」

白雪は、黙って頭を下げました。


晴れ渡った空の下、慣れ親しんだ森の中を歩いていると、これまでの思い出が次々と胸をよぎりました。


狩人に連れられてきた、森の暗さ。

小人の家族の笑顔。繋いだ手の温もり。

初めて知った、小川の冷たさ。木々の木漏れ日のあたたかさ。

いつも優しかったジョゼ婆さん。

丘の上から眺めた、紅い夕焼け。

月の光に浮かび上がった城。父との別れ。

狩人の告白。背負った母の、頼りない重み。

母の、痘痕あばたを残した、美しい横顔。


最後まで、再び言葉を交わすことは無かった母。

けれど、止まったままだった母と自分の時間は、確かに動き出したのだと白雪は思いました。

痛みを伴う記憶も、今は柔らかな繭に包まれて、自分の中に眠っているようです。

…これからそれが、どんな風になっていくのかは、わからないけれど。

全部ぜんぶ、この胸に抱えて、一緒に生きていくんだ。


隣国に繋がる街道目指して歩く途中に、いつかの野原がありました。森の守り神にもお礼を言おうと、白雪は振り返って丘を眺めました。


遠目に、けれどはっきりと、丘の上に立つ人影が見えました。

風になびく、黒檀こくたんの髪。


母でした。


白雪は息をのみ、それからゆっくりと腕をあげ、母に向かって大きく振りました。

人影はしばらく動きませんでしたが、やがてぎこちなく腕を上げ、振り返したのが見えました。


白雪の瞳に、あたたかな涙が溢れました。


「行って参ります、お母様…!」


叫んだ後、白雪は、目の前に広がる世界に向かって駆け出しました。

どこまでも、遥か彼方まで。


果てしなく続く青空。旅立つ娘と見守る母を、あたたかな太陽が照らし出していました。

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