第5話 もう一つの物語

夕暮れ、ジョゼ婆さんはまだ戻らず、家の中は静寂に包まれています。

お妃様はふらつく体を支えながら寝床を出ると、鏡に向き合いました。

薄暗い部屋の中でも、陶器のような肌に残る痘痕あばたがはっきりと見えます。お妃様は痘痕あばたを指でなぞり、虚ろな瞳で鏡を見つめていました。その心中に、甦る記憶がありました。


15歳で迎えた、成人の儀。王族だけに許された深い青のドレスを身にまとうと、侍女達は「なんとお美しい」とささやきました。固い表情のまま、母である女王の元にぎこちなく歩み寄ったのを覚えています。

自分が頼りなく淡い光を放つ月だとすれば、母は太陽でした。その強い輝きの前で、月の光は消えてしまう。

けれどもその日、母は自分を一瞥いちべつし、小さく呟きました。

「…いつの間にか、美しい娘になったものだ」

美しい。

滅多に人を褒めなかった母の一言が、胸に響きました。

いつまでも。


「起き上がって大丈夫かい。まだ顔色が悪いよ」

ジョゼ婆さんは声をかけ、体を支えながら寝床に戻しました。

「私はジョゼ。薬草売りだよ。白雪があなたをここへ連れてきた。あなたの名は?」

「…煌月こうづき

ジョゼ婆さんは優しく微笑みました。

煌月こうづき。もうしばらく養生すれば体力も戻る。それまで、ゆっくりしていきなさい」

「…もう、私の生きる場所はありません。あのまま、死んでしまえばよかったものを」

絞り出すように言った煌月こうづきに、ジョゼ婆さんはさらりと返しました。

「じゃあ、一回死んで生き返ったと思って、私の助手になっておくれ。街には林檎病が溢れてる。薬も、人手も足りない。煌月こうづきはもう林檎病に感染うつらないし、助手に打ってつけだ」

黙ったままの煌月こうづきに、ジョゼ婆さんはそっと布団をかけました。

「早く元気になるんだよ」


煌月こうづきが動けるようになると、ジョゼ婆さんは少しずつ家事を教えました。一緒に薬草を取りに行き、薬の煎じ方も伝えました。

白雪がふらりと立ち寄り、ジョゼ婆さんと何やら話していることもありました。けれど、煌月こうづきは白雪の視線を感じながらも、そちらを見ることができませんでした。


ある日、ジョゼ婆さんは煌月こうづきを街へ連れていきました。煌月こうづきは抵抗しましたが、「お前の顔を知ってるような者はいないよ。人手が無いんだから」と説得され、頭巾を目深に被って出掛けたのでした。

医者にかかるお金の無い林檎病の患者達は、療養所に集められていました。中に入ると、悪臭が漂っています。熱に喘ぐ患者達の唸り声が満ち、煌月こうづきは怯えたように立ちすくみました。

「向こう一列は、まだ軽症だ。煌月こうづきに頼むよ。薬を塗っておくれ」

ジョゼ婆さんに薬を渡され、煌月こうづきは首を降りました。

「無理です…」

ジョゼ婆さんは、低い声で言いました。

「皆、生きるために必死で戦っている。お前にできることを、やるんだ」

ジョゼ婆さんが患者の元へ去った後も、煌月こうづきは立ち尽くしていました。

ふと、煌月こうづきは、その中に幼い男の子がいることに気付きました。まだあどけない顔は痛々しくただれ、熱でぐったりとしています。付き添いもなく、一人で横たわるその子に煌月こうづきは近づきました。震える手で薬を塗り込むと、その子のかすれた呟きが聞こえました。

「かぁちゃん…」

煌月こうづきは思わず、その小さな手を握り返しました。


その日から、煌月こうづきはジョゼ婆さんについて、療養所に通うようになりました。

白雪は、連れ立っていく二人を遠くから眺めていました。


療養所で出会った盲目の老婆は、黙ったまま薬を塗り続ける煌月こうづきの手をとり、言いました。

「あんたは、美しいねぇ…。ありがとうよ…」


満月の夜。ジョゼ婆さんは薬草を煎じ、煌月こうづきは縫い物をしていました。

煌月こうづきは器用だね。仕事が丁寧だ」

「そんなことを言われたのは、初めてです」

目を伏せた煌月こうづきに、ジョゼ婆さんは笑いました。

「もし魔法が使えたら、何をしたい?」

「唐突ですね」

「聞いてみたくなっただけさ。…その顔を、元通りにしたいかい」

答える煌月こうづきの表情は陰っていました。

「…この顔は、烙印のようなもの。神が与えた私への罰、私が背負うべき業です。元通りになったところで、それは消えない。それよりも…」

煌月こうづきは言いかけましたが、口をつぐみました。

「言っても仕方ないこと。過去は変えられません」

ジョゼ婆さんは立ち上がり、二人分のお茶を淹れて戻ってきました。湯気のたつお茶を飲み、煌月は「ありがとう」と呟きました。

「気になってたんだが、白雪が持ってきたあの箱は何だい?」

「…母の形見が入っています。亡くなる前に、御守りにしろと渡されました」

「身に付けてこその御守りだろうに」

「そんな気持ちにはなれませんでした」

頑なな煌月こうづきに、ジョゼ婆さんは笑いかけました。

「見せてもらってもいいかい?」

躊躇ためらいがちに、煌月こうづきは小箱から首飾りを取りだし、ジョゼ婆さんに手渡しました。

それは細い金の鎖に繋がれた水晶でした。ランプの灯りに照らされ輝いていましたが、装飾も無く、王族が身に付けるには粗末なものに見えました。ジョゼ婆さんは手にとってしげしげと眺め、微笑みました。

「これは、月守石つきのまもりいしだ」

月守石つきのまもりいし?」

「ご覧、水晶の中に結晶があるだろう。光に透かせば、よく見える」

煌月こうづきがランプの光を浴びた水晶を覗きこむと、その内に細い三日月のような、白い結晶がきらめいているのが見えました。

「永い時をかけて水晶ができる際、内部でひび割れてしまうことがある。大抵はそのまま割れてしまうが、中にはこんな風に、傷が結晶化するものがあるんだよ。その身の内に、月を抱えた石。宝石としての価値は下がるが、月守石つきのまもりいしと呼ばれ、身に付けた者を守ると言われている」

「知りませんでした。母は、一言も言わなかった」

「肝心なことほど言えない。不器用な人だったんだね」

「いいえ。母は、自分にも他人にも、厳しい人でした。常に理想を掲げ、そこから外れることを許さなかった。不器用だなんて」

ジョゼ婆さんは、口調が強くなった煌月こうづきを見やりました。

「先の女王陛下が即位したのは、皇帝陛下が亡くなったからだったね。普通は、新しい王となる夫を迎えるか、他の王族が王となるんだろうけど」

「私が物心ついた時には、母は女王でした。詳しい事情は知りません。思うように国を動かしたいという、野心があったのではないですか。母は誰かの下につくような人ではなかったから」

「…煌月こうづきを守るために女王になったんじゃないのかい」

煌月こうづきは、目を見張りました。

「まさか、馬鹿なことを…」

「突然の王の崩御。国は混乱した。この国は、幾度も内乱が起きている。一度揺らげば、王族とて引きずり下ろされる。その中で、王の忘れ形見がわざわいとなったことも、かつてはあった。…自分と娘を守るために、誰よりも強く、賢く在ろうとしたんだ。娘にもそれを求めた。自分の身を守れるように」

ジョゼ婆さんは、一口お茶をすすりました。

「親の勝手な願いだよ。娘は、打てば響くような賢さとは違ったかもしれないけど、一つずつじっくり取り組んで身に付けていく、粘り強さを持っていた。手先が器用な、優しい女の子だった。親が求めた姿とは違っても、その子は、そのままで良かったのさ。誰が悪いのでもない。ただ、母と娘は違う人間だったというだけ」

返事をしない煌月こうづきに、ジョゼ婆さんは語りかけました。

「私の勝手な推測だよ。気を悪くしたならすまないね。けれど、物事にはいろんな見方がある。過去は変えられないけれど、私達は過去を振り返って、自分の中の物語をつむぐことができる。どんな物語がつむがれるかで、今が変わり、未来が変わっていく。語り手は、自分自身だからね。…月守石つきのまもりいしは、身に付けてあげればいい。箱のもうひとつの中身も、そうだよ。しっかりその身に抱えて、生きていくんだ」

黙りこんだままの煌月こうづきを残し、ジョゼ婆さんは「いい月夜だ、散歩してくるよ」と、静かに家を出ました。

空には、月が淡く輝いています。ジョゼ婆さんは、空を見上げて言いました。

「不器用な親子だったんだね。…私にできるのはここまでですよ、女王陛下」

ジョゼ婆さんは、形見の水晶から、魔法で記憶を辿たどったのでした。

「あとは、あの子達がどう生きるかだ」

家の中からせきを切ったような嗚咽が洩れて、柔らかな夜に包まれていきました。

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