第5話 鏡の真実

月は真上に上り、しらじらと辺りを照らしています。月光に浮かび上がる城は静まり返っていました。

白雪は息を潜めて見張りの兵をやり過ごしながら、母の部屋を目指しました。生まれ育った懐かしい城。今がいつなのか分からなくなりそうで、白雪は目を閉じ、息を整えました。


お妃様の部屋では、医師が診察を終えたところでした。

「…どうだ」

低く尋ねた王様に、医師は淡々と答えました。

「高熱が続き、衰弱が激しいようです。できるだけのことはしましたが…このままでは、いずれ」

「…御苦労だった、少し休め。何かあれば、人を遣る」

医師は一礼して退室し、部屋には王様だけが取り残されました。


王様はお妃様の傍らに立ちました。美しかったお妃様の頬は醜くただれ、やせ衰えた体は熱に火照ほてっています。荒い息遣いのまま、今は眠っているようでした。

長年連れ添ったにもかかわらず、分かり合うことはできなかった妻。

「遂に私に心を開かぬまま、逝くのだな」

王様が呟いた時、背後でドアが細く開きました。静かに足音が近づきます。医師が戻ったものと振り向かない王様の耳に、震える声が届きました。

「お父様…」


白雪は、目の前の父を信じられない思いで見つめました。

「白雪姫…?お前は、白雪姫なのか?」

父は恐る恐る尋ね、白雪が頷くと、しっかりと抱き締めました。

「よかった…生きていたのだな」

白雪は涙をこらえ、懐かしい父の匂いを胸に吸い込みました。父の目にも涙があふれていましたが、その顔は歪んでいました。

「では、やはり私は妃にたばかられたのか。妃は、お前が誤って古井戸に落ちたのを見たと…。井戸をさらったが、お前の服だけしか見つからなかった。あれは、妃が仕組んだのか。実の娘を…!」

父は、白雪の頬をそっと撫でました。

「今まで、苦労をかけた…私は、不甲斐ない父だ」

白雪は頭を振りました。

「いいえ、大好きなお父様。私は城を出た後も、幸せに暮らしていたのです。ここへきたのは…」

白雪は母を見やり、父も視線を重ねました。

「長くはないだろう。お前を責める者は、もういないよ。…白雪、お前を思わぬ日は無かった。城へ、私の元へ帰っておいで。もう、お前に辛い思いはさせない。これからは、一人にはしないから」

白雪は、懸命に話す父の瞳をまっすぐ見つめました。

「ごめんなさい、私はここには戻らない。私は、お母様を迎えに来たの。助けてくれるかもしれない人の元へ、お連れします」

「白雪…何故…」

父は呆気にとられたように黙りました。

「私は城を出て、王女ではなく一人の人間として、人生を歩み始めた。お父様とお母様の娘として産まれたけれど、もう道が交わることは無いでしょう。でも…お母様をこのままにはしておけない。このままでは、私は先に進めないの。お父様の元を去り、お母様を連れてゆく私を、許してくれとは言いません。けれど…分かって頂きたいのです。今の私の、嘘偽り無い気持ちだから」

白雪が呟くと、父は白雪の決意が固いのを見てとったのか、やがて深く頷きました。

「わかった。お前に託そう。明朝、馬車を手配する。今夜はもう休みなさい」

「駄目よ、一刻を争うもの。すぐ発ちます」

「しかし、お前一人では運べまい」

「でも…お母様を誰の元へ連れていくのか、人に知られてはいけないの」

父はしばらく考え、言いました

「では、信頼できる部下を付き添わせよう。口が固い者だ、心配ない。私も、お前達の行先を詮索はしない。信じてくれるか」

「…分かった。信じるわ、お父様」

父は頷き、「少し待ちなさい。その者を連れてくる」と部屋を出ました。


白雪は母の部屋を見渡しました。黒檀の窓辺に、あの日見た鏡がありました。

白雪は鏡に近づき、ゆっくりと布をめくりました。鏡は妖しく光り、ささやきました。あの時のまま。

「世界で一番美しいのはあなたです、


ジョゼ婆さんは言いました。

「ありもしないことを、現実にできる魔法は無い」

世界一の美女を見分ける鏡は存在しない。

鏡は、映した相手が誰であろうと同じ台詞を話すよう、魔法をかけられていたのでした。


「こんなものにすがって…」

白雪は、傍にあった燭台を手にとると、鏡に向かって思い切り振り下ろしました。鈍い音を立て、鏡の表面に無数の亀裂が走ったかと思うと、光は消え去りました。

鏡には、歪んで切り刻まれた自分自身が映っています。

…鏡の秘密を暴いたから、私を追放したの?


振り返ると、破壊音で目覚めたのか、母がぼんやりと瞳を開き、割れた鏡と白雪を見つめていました。乾いた唇が、しらゆき、と動いたようでした。白雪は、鏡を元通り布で覆い隠し、母に向き合いました。

「私は、あなたを許せない」

白雪は、ゆっくりと呟きました。

「でも、こんなところで死ぬのは、もっと許せない。私と一緒にいきましょう。城を出るの」

母は言葉を反芻はんすうするように動きませんでしたが、やがて腕を上げ、ベッドの脇に置かれた小箱を指差しました。かすれた母のささやきが聞こえました。

「一緒に、これを…」

白雪が小箱を開けると、そこには祖母がいつも身に付けていた首飾りと、古びた布が畳まれていました。かつては純白だったのであろう、レースで飾られたそれを、白雪はゆっくりと広げました。

それは、手縫いの小さな産着でした。

想いは言葉にならず、白雪は首飾りと産着を握りしめました。


「待たせたな」

振り返るとドアが開き、父が入ってくるところでした。

「では、頼んだぞ」

白雪は父の後に続く人影を見て、叫び声をあげそうになるのをこらえました。

いわおのような男。

狩人でした。










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