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彼は立ち上がった。
この男は、なにを言わんとしているかが不思議と理解できた。
自分は神を愛していた。そして両親も。
それが過ちだったのだと気づいた。
せっかく与えられた天啓を阻む者を、なぜあのとき手に掛けることをためらったのか。
神と同列の存在などおらず、その神から与えられた物を奪う者など、配慮するにも値しない犯罪者だ。
まるで重たい足かせから解放されたような気持ちだった。
彼はコインの詰まった皮袋を握りしめると、そのまま立ち上がり、訊いた。
「あなたの名前は?」
「ジャス・メステイン。この都市で、神を最も愛する仕事をしている。改めて聞こう殺人者。お前の名は?」
「パイル。セカンドネームはないよ。今日、捨てるんだ」
晴れ晴れとした気持ちでそう告げた。
それが彼と男の邂逅で、始まりだった。
そんな、いつしかの雨の日を思い起こしながら、彼は目を開いた。
「へぇ、やるなあアミュレちゃん」
飛び込む光景は一面の白い煙幕。
パイルが視界ゼロの戦場のなかで、にやりと笑った。
こちらの魔堕ちはこの目くらましによって完全に統率を失い、闇雲に突進するだけの木偶と化していた。
通常の魔堕ちよりは知能を保っているとはいえ、こういう不測の事態に陥入れば、途端に元の木阿弥となる。
一体、また一体と打ち倒されていく自軍の気配を感知しながらも、パイルは相手側の少女を褒め称えていた。まるで親しい友人の活躍を目にしているかのように。
「この煙幕じゃ影を走ることもできないし、数的有利もほぼ機能しない。……でも僕にももう、時間がないんだ」
そう言ってパイルは自分の右腕を見た。
リズレッドに刻まれた傷は、もうすでに回復している。いや……それどころか、前にも増してその強靭さに磨きがかかっている。人の皮膚ではありえない、硬質なうろこを携えている。
「僕の意識がなくなるのが先か、お城の御姫様を取り返すのが先か、勝負だよ」
爬虫類のように変質した眼で闇を見据えつつ、狂った暗殺者は嗤った。
誰も到達したことのない領域に、いま自分は立っている。そのことに誇りを感じた。魔堕ちは神が用意した、人の立派な選択肢のひとつだ。それを長い間、禁忌として封印してきた愚者と、ようやく目に見える形で決別できた。
自分を封じ込めていた両親を、この手で殺したときのように。
今度は自分の手を殺してやったのだ。新たに生まれつつある手は、次なる道を示す
だがそれは、前回のように一方的な開放感だけを自分に与えてくれるものではなかった。
自分が自分でなくなっていく感覚が、次第に大きくなっていく。意識が消去され、魔物のような凶悪さだけが心のなかを満たそうとしている。
本来ならもうとっくに彼は魔堕ちとなっている予定だった。
枷を解いてくれたジャスと共に。
計画を遅らせることはできない。豊漁祭はもう目の前まで迫っている。
そのときに、新しく生まれ変わった誇るべき新たな自分の姿を、この都市の人間全員に見せつける必要があった。
両親と同じように、自分を受け入れなかった人間たちに、神を愛する人間とはどういう者かをわからせるために。
殺人者は嗤う。
理性をとりもつための少女を手にするために。
そして過去の己と同じように、枷を嵌めてもがき苦しむ、友人を解き放つために。
◇
攻防が始まってから数十分が経過していた。
敵は徐々に数を減らし、数の不利は解消されつつあった。
即席のパーティだが、アミュレの指示が三人の力を最大限に発揮させていた。
感知スキルから読み取れる気配は、パイルを含めて残り五体。魔堕ちはその行動自体が禁忌なのであって、力量は元となった人間のレベルに大きく依存する。おそらくここに集められたのは、数を埋めるための雑兵。でなければ流石に、こうも上手くに事は運ばない。
だがわずかに感じるパイルの気配が、微動だにしないことにアミュレは眉をひそめた。
なぜアイリスたちを追わない?
本来ならば、彼が動くと同時に彼女もそれに追随する予定だった。
相手が盗賊の上位職である殺人者なら、感知スキルはもちろん習得している。
ならば煙幕など彼にはなんの意味もないはずだ。いまもなお遠ざかる彼女たちを追わず、ここに止まる理由がない。
「アイリス以上に固執するなにかが、ここにある……?」
仮説を立てるが、それに思い当たる節はない。
オズロッドとパイルに直接の接点はない。この家に、アイリス以上に彼が重要視する物などないはずだ。では、なぜ――。
そのとき、気配が動いた。
恐るべき速さで、まっすぐにこちらへと向かってくる。
「ッ、パイルが来ます!」
すかさず指示を出した。
弔花とガイエンが、魔堕ちとの攻防で消耗していた集中力を一気に引き上げるのを感じた。
(これが狙いだった……? 魔堕ちを露払いさせて、こちらの体力を消耗させることが?)
戦略としては至極真っ当な作戦だ。
だが、そんなことをしているうちに目当てのアイリスはどんどん遠ざかっていく。こちらの時間稼ぎに、わざと付き合っているようなものだ。
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