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『これではもう、この儀式の書は使えないだろうな』
落胆気味に白爺が呟いたが、俺はなんだか、心のどこかでほっとしていた。
血の契約だとかなんとか、神との誓いっていうのは随分と物騒なもので、この本の一旦にリズレッドのものが混ざるというのが、どうにも我慢できなかった。
リズレッドは相変わらず沈黙を続けて、本を閉じると、少しだけ名残惜しそうに表紙を指でなぞってから、言った。
「私はとことん、勇者には向いてないらしいな」
まるでなにかと葛藤して、その結果、そう結論付けたような様子の声音だった。
「俺が来るまでの間に、なにかあったのか?」
「……帰ってから話すよ。きちんと。ラビには聞いて欲しいから」
「それだけじゃない」
「?」
「世界樹や、エルフの過去についてもだ。俺はまだまだ、リズレッドのことを知らなさすぎる」
「はは、急に質問攻めされてはまいってしまうな。……だが、わかった。それもいずれ話すよ」
消沈していたリズレッドの気配が、にわかに活力を取り戻すのがわかった。
なんだかわからないけど、彼女に元気が戻ってくれたのならなによりだ。
白爺はそんな俺たちを、心なしか羨ましそうに眺めていた。
『気持ちは固まったようだな。次の指針も。お前たちはそうやって、次々に前へ進んでいくというわけか』
「進まなくちゃ、追いつけない人がいるからな」
そう応えると、白爺は一回だけ小さく頷いたあと、
『では、我輩も前へ進むとするか』
ぶっきらぼうにそう言った。
その瞬間、音を立てて本が床に落ちた。
「おいおい白爺、一応神物なんだから、ちゃんと持ってないと……」
反射的に落ちた本に目をやったあと、冗談交じりにそう言ったが、次に彼へ視線を向けたとき、
「――え」
言葉が止まった。
白爺の体が溶けるように宙に溶け出していた。
ちりちりと欠片がほころんで、まるで世界全体に希釈していくような。
まるで討伐した魔物が、消えるときのように。
「そんな、HPはきちんと回復したはずです!」
アミュレが悲鳴じみた声を上げながら腕から飛び降りた。
再度癒術を唱えようとする彼女を、今度は白爺が制止した。
『よい。我輩はこの通り、ぴんぴんしておるわい』
「じゃあなんで!?」
『言ったろう。前へ進むと。二千年もずっと踏みとどまっておったが、お前たちのおかげで、ようやくまた歩き出す気になった』
そこではっとなり、床に落ちた本を手にとって白爺とそれを交互に見た。
「まさか……契約紋が塗りつぶされたから」
愕然としながら問いかけると、にやりと笑みが返ってきた。
『若気の至りで神に刃向かったおかげで、ずいぶん長い間しっぺ返しを食らっておったが、それも今日までだ。魂を縛る鎖は消えた。ならば天寿にのっとって消えるのが、この世の生物の摂理だ』
「そんな……せっかく役目を終えたのに、待っているのがこれだなんて、あんまりです!」
『そう言うな小娘。我輩は存外、満足しておる。なにせ人よりも魔物として生きた時間のほうが長いからな。いまさら上に戻ったところで、どう生きようかと考えあぐねいていたところだ。それに、曲がりなりにも神の代理人として、こうも長い間勤めを果たしたのだ。あの世の親父殿やお袋にも、これで胸を張って会いにいける。……もっとも、我輩が彼らと同じ場所に逝ければだけどな』
「そんな……そんな……」
アミュレは白爺の膝に体を寄せ、どうしようもない現実の前に、ただ涙を流していた。
気づけば上層から、吠えるようなトロールたちの声が聞こえてきた。
死に対する恐怖からくる叫びとは、どこか違う叫びを。
『はっはっは! あいつらも、心の隅ではまだ魔物に堕ちきっておらんかったか。久々に懐かしい同胞の声を聞いた気がするわい』
「……俺たちが、」
『うん?』
「俺たちが……ここに来たから。だから白爺たちは、こんなことに」
俺はレオナスだけではなく、仲間の白爺まで。
俯いて声を震わせた。
だが白爺は、一転した声音で告げた。
『驕るなよ、小僧』
さっきまでの調子とは違う、生きてきた時間の長さと経験を思わせる、渋みのある声だった。
『ドルイド族のつまはじき者として生き、儀式を受けて魔物となり、神の代理人として役目を果たし、そして消える。その全ては誰でもない、我輩が選んだ生き様だ。勝手に自分の功績と勘違いして、感銘を受けられては心外だ』
「……っ」
その返答に、いよいよ言葉が詰まった。
俺を気遣ってそう言ったのではなく、本気でそう告げているのが声からわかった。
二千年の時を生きた古代のドルイド族が、己が人生を全うしようとしている。
それを横からかすめ取るような真似はしてくれるなと、この白老は言うのだ。
「……今まで、ありがとうございました」
だからそれだけを返した。
謝罪ではなく礼を。
悠久の使命を果たして天上へと還らんとする戦士に、いくばくかの手向けとして。
隣にいるリズレッドが、泣きじゃくるアミュレの頭を優しく撫でながら諭した。
これが最後だ。だからそんな、涙を見せた別れにしてはいけないと。
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