98

 そう教えられて育った世界が悪魔に燃やされて、ひとり森へと落ち延びたあの夜の日。

 幼少の頃に帰ってしまったかのように弱り切った自分を、助けてくれた人がいた。


 その人はとても弱くて、悪魔の相手など到底できるとは思えなかった。

 それでも果敢に立ち上がり、助けてくれた。


 弱い自分を、初めて認めてくれたような気持ちだった。

 そうだ。思い出した。その人の名は――


「……だから、私はここでアミュレを犠牲にしなくてはいけないんだ。勇者の力を得られない弱い自分のままでは、いつかきっとラビも私に落胆してしまう」


 そうだ。思い出した。

 自分がなぜここに来て、こうやって戦っているのか。


 落ちた祖国のためでもあるし、尊敬する騎士団長に近くためでもある。

 だけど今はそれよりも、自分を追って懸命に走ってくる彼に胸を張れるだけの強さが必要だった。


「だれかが嫌なおもいをしないと、つよくなれないの?」

「……もう、消えてくれ。この世界は残酷なんだ。綺麗事だけで生きていけるほど私は才能に恵まれていないし、それを許す相手でもない」

「せかいはざんこくだから……だから、わたしもざんこくになるの?」


 幼い頃のリズレッドが、残虐な英雄スカーレッド・ルナーへと矢継ぎ早に質問をした。


 そうだ。とは、何故か即答できなかった。

 理由はわかっていた。

 この幼い自分が言う通り、彼がそんなことを望んでいないのはわかっていたからだ。

 

 手が震えて、次いで唇も震わせながら英雄は言った。


「……嫌われたくないんだ。失望されたくないんだ。もう、あの君の頃に戻りたくないんだ。あんな目で彼に見られたら、私はきっと耐えられない。孤独の中で戦うなんて、もう私には……」


 弱い自分を擁護してくれた同期も、結局最後は周りと同じように侮蔑の目を向けるか、あからさまに避けるようになった。

 彼がもしそうなってしまったらと想像すると、全身の体温が一気に奪われ、恐ろしさで心がすり潰されるような思いだった。


「あの人を、しんじてあげないの?」

「信じるも何も……私は、強さだけを追い求めてきた女だ。それだけを自分が生きる証としてきたエルフだ。一体そんな私が、どうやって弱い自分に価値を見いだせると……」

「……ずるいよ」

「何?」

「外のおねえちゃんも言ってるよ、ずるいって。しんじてくれる人がいて、ほんとうはわかってるのに、怖いから言い訳ばかりして」

「っ! 魔物の命を奪う恐怖から逃げてばかりだった頃の私に、何がわかる! 私は逃げることを止めたんだ。だからこうして副団長の座に就くことができたし、そして――」

「――そして、自分が傷つくのが怖くなっちゃったんだよね?」

「……っ」

「魔物を倒すことで自分がまもれることがわかって、それを繰り返していくうちに……誰かを傷つければ自分が傷つかないことがわかって、こわくなっちゃったんだよね」

「私は……恐怖を克服したんだ」

「じゃあなんで、おびえてるの?」


 幼い日の自分が、こちらを真っ直ぐと見た。

 強くあるために感情を殺すことに慣れきった大人のリズレッドには宿っていない、迷いなければ疑いもない、見られた瞬間にはっと息を呑むような瞳だった。

 その双眸に心の中でなにかが根を上げて、漏れ出るように言葉を紡いだ。


「……じゃあ、どうしたらいいんだ。私だって信じたい。彼を、私を。……だけど過去の……誰からも必要とされなかった頃の恐怖が、それを許してくれない」

「本当に、だれからもひつようとされてないの?」

「……そうだな。たしかに、あの頃でも一人だけ、私に暖かな感情を向けてくれる人がいた。団長だけが……エド団長だけが、私を認めてくれていた。だから私は、ここまで頑張ってこれたんだ」

「……」


 少女の自分はただ黙ってその言葉を訊きながら、ゆっくりと左腕を前へ掲げた。

 なにかを見せつけるように、手のひらを開いている。


「たたかいかたを、おにいちゃんは教えてくれた。でもその代わり、わたしはずっとここで、ひとりぼっちになっちゃってた」

「え……?」

「でもね、このきれいな指輪をくれたひとがあらわれてから、ときどきまた、そとにでれるようになったんだ。ほんとうに、ときどきだけど」


 そう言ってとても大切なものを見る眼差しを向けるのは、左手の薬指にはめられた銀色のリングだった。バディとなるために、彼と契りを結んだ証が暗闇のなかで一際きらきらと輝いた。

 それは少女の自分だけでなく、大人の自分の左手でも確かに輝きを示していた。

 優しく弱い自分と、強く残虐な自分のどちらにも、銀色の指輪が嵌められていて――それを認識したとき、機械のように感情を灯していなかった瞳から涙が零れた。何故だかはわからないが、とても暖かなものに触れて、冷え切った心が溶けてゆくような感覚だった。


「……私は、どうすればいいんだ。どちらを信じればいいんだ」


 いままで絶対零度で保っていたものがふいに外気に触れて、氷に閉ざされていた中身が零れでるように彼女は訊いた。

 しかしそれを問われた幼い日の彼女もまた、同じように道にでも迷ったような顔で告げる。


「……わからない。わたしもおにいちゃんは好きだし、ラビも好き。だからどっちをしんじればいいのか。どっちもしんじていいのか、わからない」

「……」

「だけど……おなじ好きでも……なにかちがう気がする。だからそれを、これから確かめていきたい。わたしたちふたりで」

「これから……か」


 それは答えでも何でもなかった。

 曖昧に解答を回避したただの現実逃避かもしれなかった。

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