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だがそれこそがいまの彼女にとって、一番の最適解だということが、何故だか理解できた。
自分に騎士として、英雄として生きる道を教えてくれた兄と、きっと弱くても自分を受け入れてくれるラビ。そのどちらもいまは切り捨てることなどできなかった。
「……ふ」
迷いは晴れたわけでもなく、指針が決まったわけでもない。
だが先ほどの、光のない暗闇をあてもなく彷徨うような心許なさは、不思議とどこかへと消えていた。
弱い自分と残虐な自分。少なくともその両方に、暗闇のなかでもわかる、きらめく光を与えてくれる指輪が、確かに輝いていたから。
左手にこの暖かさが宿っている限り、いくらでも迷ってやろうという気持ちが湧いた。
答えを見つけられるまで、いくらでも歩き続けてやろうという強い気持ちが。
それまでは、弱い自分と残虐な自分、どちらもこの世界でともに歩んでいこうと思えた。
気づけば少女の自分はどこかへと消えて、水底から見上げるようだった現実の景色は、確かな像を結んでいた。
ずるい、ずるいと子供の駄々のように叫ぶ鏡花の声が続いて蘇り、思わず笑みが零れた。
「――ああ、そうだな。私は――」
その言葉を最後に、彼女は自分の内なる世界から足を踏み出した。
辛い戦いのときに自身の心を守るため、いつも隠れていた暗い世界から。
『どうした勇者よ。それ以上抵抗するというのなら、この人形の命はないぞ』
響くのは怒気にまみれた牛頭人体の怪物の声。
反撃こそしないものの鏡花の攻撃を弾き続ける彼女に、ついに痺れを切らせた怪物は、片手に持つ少女の首筋へと一層深く爪を突き立てた。
そこが境界線だった。それ以上の進行は、アミュレの気道に大きなダメージを与える。リズレッドにそれを見せつけて、もう防御すら許しはしないということを示す。
鏡花はなおも取り乱したようにがむしゃらに剣を振るい続けていた。
剣筋もなにもない、でたらめな攻撃だ。だからこそほぼ無意識のリズレッドでも防御し続けることができていた。
意識がはっきりと戻ったリズレッドは、己に黙って死ねと命令する化物と、それに囚われた仲間のアミュレ。そして――対峙する鏡花を一瞬のうちに一瞥すると――
「鏡花、あとは頼んだ」
戦場には似つかわしくない微笑みを浮かべて、そう告げた。
「……え?」
茫然としていたかと思ったら、まるで子供のような笑顔でそう言ってきた彼女に、鏡花は遅れて困惑の反応を返した。
しかし意識とは裏腹に、攻撃し続けることを止めなかった手がそのままリズレッドへと刃を向けて、
次の瞬間、肉を切り裂くときの独特な感触が彼女の手に感覚された。
いままで散々自分の攻撃を弾き続けていた騎士がふいにその防御を解き、振るった剣を深々と受けたのだ。
鮮血が飛び、鏡花の顔に跳ねた。
「なん、で」
頬に受けた血が熱く感覚された。先ほどの灼炎とは違う、人の心を映したかのような暖かな血の熱だった。
レベル差のある鏡花の攻撃では、まともに受けても本来ならば大したダメージにはならない。
事実、彼女の剣を無抵抗で受けたにも関わらず傷は骨にまで至ってはいなかった。
だがそれとは裏腹に、リズレッドの表情は全てを出し切ったかのように疲弊しており、そしてどこか穏やかだった。
まるで人生の最大の選択肢に打ち勝ったかのような。そのせいで大きく精神を消耗したかのような感じだった。
「いま私が動けば、アミュレが殺されてしまう。そして私はそうはしたくないし……君を斬りたくもない」
「……その結果、自分が傷つくことになってもですか」
「はは、自分でも何が何やらだ。……けれど後悔はしていないよ。私は曲がりなりにも上層で君を守ると誓った。同じ仲間として。だから――きっと、これで良かったんだ」
「――」
大粒の汗を流しながら、苦笑しながらそう告げられたとき――鏡花は全身が震えるのを感じた。
それはいままで感じことのない感情が湧いたことによる、心の震えだった。
思えば誰かから奪ってばかりの人生で、誰かから無償で与えられることなどなかった。
だが目の前の金色の騎士は、己の身を犠牲にして、ミノタウロスの手の内にある少女を守ろうとしただけでなく、自分に斬られてもなお仲間だと告げた。
殺そうと思えば簡単に殺せる相手へ、剣ではなく信頼をもって答えていた。
それがなによりも強く見えて、鏡花は自分の心を伝う熱が、やがて一粒の涙となって頬を伝うのを感じた。
子供のころから傷つかないために丹念に整形してきた氷の壁が融かされていく感覚。
――ああ、本当に。彼も彼女も――本当に、甘いですわ。
己を信じて傷ついた騎士は今や地に伏して自分を見上げるのみだった。
あとを頼むと告げて。
であれば、やるべきことは決まっていた。
『――っ!?』
ミノタウロスの視界からふいに彼女の姿が消えた。
リズレッドと同じく高レベルに属する魔物である彼は、万全の状態であれば視界から見逃すことなどなかっただろう。
だが彼は油断していた。彼女は自分と同じ生き物だと。
他人の持つあらゆるものを略奪して、自分の人生を充実させることに何の抵抗もなく、むしろそれが楽しくて仕方ない生物だと。背後の頭上で孵化を待つあの金髪の男のように。
右腕に鋭い痛みが走った。
咄嗟に目を向けると、そこには先ほどまでリズレッドに向けられていた剣が、鋭利に自分の腕を切り裂いていた。
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