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「――にしても、血っつってもな。生憎こっちにはそんなもん流れてねェし」


 そう言いつつも、彼は自分のやるべきことをすでに理解していた。

 数々の血痕のなかに紛れた雄牛の紋が、それを立証してくれていた。


 彼は自分の所持していたナイフをバッグから取り出すと、それを躊躇いなく自分の手の平にあてて、ゆっくりと横へ刃を滑らせた。

 ナイフがまるでタブレットペンシルのように自身の手のひらに赤い軌跡を描いていく。召喚者特有の傷を現すダメージエフェクトだ。痛みもなく、ゆえに躊躇いもない。血の代わりの赤い光が十分に自身の手を横断したことを満足げに眺めた彼は、神書を乱雑にめくり、最後の白紙のページへと辿り着くと、契約の押印のように手を強引に押し付けた。


 儀式の間にくるまでに、ミノタウロスたちの経緯は簡単にだが説明されていた。

 勇者にしか許されない試練を、当時の反抗精神逞しいドルイドたちと共に受けて、見事魔物へと堕ちたということを。


 雄牛の紋章は当時のミノタウロスが残した血痕で、後に続くのはドルイドたちのものだろうということは想像するに容易かった。


 自分も彼らのようになるかもしれない。

 そんな想像は、レオナスのなかにはなかった。

 というよりも、別にあちらの世界に戻れなくなったとしても、もはやどうでも良かった。


 神の恩恵を受けた召喚者の体は、他人を支配して生きたという彼の願いをこの上なく叶えてくれていた。

 一年間こちらの世界を生きた彼は、すでにこちらとあちらのどちらが本当の自分なのかを考えるのを止めていた。


「ほらよ、お前のご所望の血だ。さァこれで契約成立だな。とっとと力を寄こしな――もっとも、オレは勇者なんかになる気はねえがな」


 その言葉が合図となったかのように、神書が淡い光を帯びたかと思うと、瞬く間にそれは激しい発光となって周囲を包んだ。

 自らで傷つけた手のひらをページからどけると、横一閃に走ったダメージエフェクトの通り赤い血痕が転写されており、それが徐々に形を変えてなにかの幾何学模様を整形しようとしていた。


 本の神性を浸食するかのように、ツタのようにページを這うレオナスの血。

 にわかに、真っ白だった光の波動に濁りが混じり始める。


《全く、また外界の者が行使者か》


 血のように赤い波動を生みながら閃光がさらに強まるなか、レオナスの意識に何者かの声が響いた。

 驚いて周囲を確認するが、鏡花とリズレッドは遥か眼下で戦いを繰り広げており、ミノタウロスもあとを追ってきた形成はない。


「……誰だ、人の頭のなかで勝手に喋る奴は」

《先ほどお前が言った通りの存在だ》

「……まさか」

《その通りだ。人々が神と呼ぶ、この世界を管理する者だ。もっとも私は、ネイティブの神だがな》

「……オレにもミノタウロスのように、制約っつーヤツを押し付けにきたってわけか」

《黎明の時代ならまだしも、外界との接触がここまで大きくなったいま、召喚者にそれを課すのは得策ではない。それに――どのみち、この世界の行く末を決めるには、もう行動の束縛をしている場合ではない。……魔王はすでに動き出しているのだから》

「はぁ? おい、なに勝手にわけのわかんねえことを……」

《アスタリアめ……こういうことになるから、召喚者などゲームに加えるべきではないと言ったのだ》

「おい、人の話を……!」

《……人? ここのどこに人がいる? ここに居るのは傲慢な、無限の生を与えてやった無尽蔵な暴食家だけだ。言っただろう、私はネイティブの神オーゼン。外界からの召喚者など、救うべき対象である『人』などではない》


 気分を害したといった風な口調で語られる声に、レオナスはただしかめっ面で応える。

 彼にしてみれば自分の頭の中で突然話し出した相手が、わけのわからない理由で苦言を呈してきたようなものだった。


 だがその声音もすぐに平坦なものへと戻り、オーゼンは再び抑揚のない声で告げた。


《……だが、契約は契約だ。お前は自分の血を本に記した。お前の存在をこの世界に刻み込んだ。ならば与えよう……大いなる力と、それに伴う痛みを。あの召喚者と同じようにな》


 それが合図となり、世界が突然白黒へと変わった。薄暗いながらも光石のおかげで薄っすらと知覚できた色が消え、闇の黒色が大多数を支配する白黒の世界となった。


「……! な、が、ァ……!?」


 突然自分の体に熱いものが流れ込んできた感覚を受け、レオナスが呻きを漏らす。


《ようこそレオナス君。君はようやくこの世界に本当の意味で生まれた。あらゆる神経系が向こうの世界と調整なしに繋がれていく感覚に最初は戸惑うかもしれないが、慣れればいつもと変わらなくなる。だが――》


 膝を打って悶えるレオナスを尻目にするように語られる言葉が、ただ淡々と紡がれていく。


《ーだが、君の意識が、果たして慣れるまで負荷に耐えられるかは別問題だが》

「なん……だと……!?」

《前に同じ力を与えた召喚者は、その不可をふたりで耐える術を編み出した。肥大化する力と欲を制御するためには、自分だけの自制心ではとても足りないと無意識に判断したのだろう。その相手が、まさか私が用意した勇者だとは思いもしなかったがね》

「くそ、さっきからごちゃごちゃと……うるせェぞクソ野郎が……!」

《君には自分の心を預けることができる相手などいない。……さあ見せてくれ、召喚者よ。遥か昔に私たちさえ生み出した、可能性の力を》

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