40
様々な錯綜を脳裏で巡らせていると、ミノタウロスはふいに背を向けると、巨体を揺らしながら迷宮の深部へと引き返していく。
殺す。殺してやる。と、何度も呟きながら――まるでそれが、奴にプログラムされた唯一の感情でもあるかのように。
やがて静寂が訪れ、俺はおそらく現実世界でも同じように吹き出しているであろう大量の汗を、額をぬぐって地に払った。
「――なんなんだ、あいつは」
いままで散々、強敵と呼ばれる奴らと戦ってきた。アモンデルトやメフィアスなど、六典原罪と呼ばれる魔王の幹部とも対峙してきた。
その二人と戦った俺の、浅い知見から言えば――ミノタウロスはおそらく、数段レベルは下だ。
だというのに心が奴と戦うことを拒否する。憎しみしかインプットされていないかのように妖精族と人間に殺意を燃やすあの化物を――俺は、本気で怖いと感じていた。
「――あれは」
そのとき、鏡花がなにかを呟こうとして、そして黙った。
顔を向けると、そこには、
「うわっ、鏡花、大丈夫か!?」
俺も相当だが、彼女はそれにも勝るほどの汗を流し、瞠目した瞳は誰もいなくなった小広間に釘付けになっていた。
声に反応して我に返った強化が、はっと数度瞬きをしたあと、自身を落ち着かせるように息を吐いた。
「――あれは、『悪意』ですわ。間違いなく」
リズレッドとアミュレが、納得しきれないように聞き返す。
「それは――そうだろう。あれほどの恨みの篭った声を発するなんて、ただの魔物ではなさそうだが――それにしたって、君の狼狽具合は異常だ。一体どうしたんだ?」
「私も、いままで戦ってきた魔物と同様の悪意は感じましたが……突出して恐怖を感じたというほどでは……」
それを聞いて、今度は俺が聞き返した。
「ふたりとも、あいつを見てなにも感じなかったのか?」
「私たちはラビの後ろで待機していたからな。そもそも姿を確認できていないんだ。……そんなに、禍々しい姿だったのか?」
それを聞いて納得した。
そうか、ふたりともあいつを見ていないから――この威圧を受けずに済んだのか。
確かに声だけであれば、俺もこれほどの恐怖を抱くことはなかったかもしれない。どうしたって俺たちは創作物に触れる機会がいままでに何度となくあって、『ミノタウロス』の姿を見ると、無意識に出会ってはいけない化物、という固定観念が湧いてしまうのだろう。
そう思い至り、折っていた膝を立ち上げた。
いまは無人となった小広間の先に進むため、続々と皆もそれに続く。
「……鏡花?」
だがそのなかで、鏡花だけはまるでその場に縛り付けられているかのように身動き一つせず、何事かを黙考するように地面へと視線を落としていた。
「どうやらひどく疲れているようだな。だが安心しろ、ここには皆がいる。確かに閉所での戦いは得意とするところではないが、私とてそう安安とやられはしない」
リズレッドが鏡花の肩に手を置き、気遣うようにそう告げた。
人斬りの鏡花をパーティに加入させるのに反対していたリズレッドだが、さりとてこの状況で無碍にもできないところに、このエルフの騎士の優しさがあった。
「……おそらく、あなたたちでは直接視ても……あの牛人の本質には気づかないでしょう」
「それは、どういう……」
独白のように呟く鏡花に疑問を投げるアミュレだが、彼女はそれを無視するように立ち上がると、
「進みましょう。この迷宮、思ったよりも楽しめそうですわ」
そこに居るのは、いつもの冷然とした血濡れの姉妹の姉、鏡花だった。
「全く、ひとりでなにか悩んでいるかと思えば勝手に立ち直って。向こうの世界の人はこういう人が多いんですか、ラビさん?」
「いや……あれは鏡花が特別というか、それにしたって今回はあいつにしてもおかしかったというか」
「だが彼女の言うことももっともだ。このまま通路で立ち止まっていても、どうしようもない。私たちのクエストはこの迷宮の最深部までの完全な地図化だ。ラビと鏡花がなにをそんなに怯えていたのかはわからないが……この白剣にかけて、決して無残な結果になど終わらせはしない」
「……だな」
流れた汗が地下の冷気で熱を失い、微弱に体温を奪っていたためか――ふたりの空気に随分と助けられた。
俺ひとりだったら、あの空気に飲まれて地下に独りという状況に耐えられず、大声で喚いていたかもしれない。
――だから、
「きゃっ!?」
鏡花の悲鳴が上がる。
俺が先行する彼女の手を掴み、強引に引き戻したためだ。
「な、なにを――ッ」
抗議のため振り返る彼女に向けて、俺はずい、と一歩前に出て言った。
「リーダーは俺だろ? やる気になってくれたのは嬉しいけど、ひとりで先に行こうとするな。――ひとりで、困難に立ち向かおうとするな」
正直、こいつがミノタウロスを目撃して、何故そこまで狼狽しているのかは検討もつかない。
だけどもう、独りでそれを乗り越えようとなんてしなくていいんだ。ここには強張った心も、凍てつく感情も共有できる仲間が揃ってるんだから。
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