39

 ――全く、俺は誰に対して心配なんてしていたのか。

 彼女はこの世界の大国、そしてエルフ族の本拠地だったエルダー神国の守り手として名を馳せた、エルダー騎士団副団長のリズレッド・ルナー。閉所での戦闘は不得手といえど、それに臆して狼狽するほど低い胆力などしているはずがない。


 気を取り直して忍び足で一歩ずつ前へ進む。どれくらい歩いただろうか。たとえ牛歩とはいえ、進めば相手との距離が縮まるのは当然で、それに比例して姿の見えない荒々しい息遣いも大きくなる。


「――――」


 ふいに後ろから背中を突かれた。振り返ればアミュレで、何か言おうとした俺を静止するように人差指を口の前で立てて、音を出さないように呼びかけられる。そしてそのまま前方――曲がったばかりの直線通路の、向こう側に見える十数メートル先の次なる曲がり角を指差したあと、再び俺の瞳を見た。幼い少女の瞳は最大の警戒心と少しばかりの恐怖心を孕んだ色をしており、否応無く彼女がなにを言おうとしているのかが伝わった。


 あの向こうに、います。


 入り組み、空気が反響し、気配が攪拌される地下迷宮のなかで、十数メートル先の直角の曲がり角の先から放たれる威圧を見抜く――それは、紛れもなくアミュレにスキルがなければできなかった芸当。


 息を呑みつつその警告に首肯を返したあと、全員にその意思が伝達されるように皆を見た。リズレッドは変わらず毅然とした様子でただ白剣に手を置いている。アミュレは再び後衛に移動し、そんな彼女の横で周囲への警戒と、不意の事態に備えて癒術をいつでも発動できるように杖を握る。そして鏡花は、いつも通りにただ何事もないかのように、前を見ているだけだった。


 鏡花より一歩分先行して前を進む。

 見据える曲がり角は緊張のなかで進む時間のなかで限りなく長く感じ、高鳴る心臓と纏わりつく粘着性の空気が、その嫌悪感を後押しする。

 そしてついに九十度の折れ曲がった石壁が眼前へと迫り、壁面に手をついた俺は、ひとつ呼吸を整えると――そろそろと、顔だけを向こう側へと覗かせる。


 全員の息が一瞬、同時に止まる。

 ここで気づかれれば、戦闘は免れない。いまも聞こえる呼吸の反響具合からいって、向こう側が小広い空間になっているのは全員が察知している。対してこちらの背には、長く続いた二人が通るのがやっとのほどの細い通路。どちらに立地的優位性があるのかは、一目瞭然だった。


 ――そして、視界の半分が壁面で埋めらるほど、辛うじて視野が確保できる程度に覗かせた瞳から見えたものは――ランプの灯に照らされて、小広間の壁に投影される巨大な影だった。部屋の天井まで届くそれは、折れ曲がって天井にまでその黒い巨影を写し――そして、ずっと聞こえていた荒々しい呼吸音に一致させて、両肩を激しく上下に揺らしていた。


 瞬間、察する。こいつは――その辺りにいる雑魚敵とは違う。

 のしのしと石床を踏みしめる影。やがて覗かせた視界に、ようやくその本体があらわとなり、


 ――ミノ、タウロス。


 胸中でそう呟いた。

 それはギリシア神話で聞く、半人半牛の化物。冒した罪を雪がれることもなく、改めることもないままラビュリントスへと追放された悪鬼。

 だがそれは、ゲームの世界ではありふれた存在だ。その特徴的な風貌から、多くの製作者が奴を題材としたキャラクターを作ってきた。だけど、あれは……あれは……。


『……殺してやる』


 ぞ、と背中が粟立った。

 それは腹の底から湧き上がる憎悪で、マグマのように煮えたぎった殺意で。そして――明確な『意思』を持っていた。


 牛頭から放たれる人語はあまりにも不釣り合いだった。俺は奴に気づかれないように息を最小限まで収めてその光景にただ釘付けになる。肺が空気を欲して脳に危険信号を送るが、それ以上の脅威が眼前にあるいま、それはあまりにかそけき警告だった。


『忌々しい……あの妖精族め……一体どこへ行った……』


 その言葉が出るなり、俺は無意識のうちにリズレッドへと視線を向けていた。エルフという単語が奴から出てくるとは思わなかったのだ。すると彼女もこちらを見やると、眉をひそめながら首を横に振った。リズレッドから姿を見えずとも、声からいままで出会った敵かどうかは判断できる。しかし結果はノーで、ではミノタウロスが言うエルフとは、一体――。


『……殺してやる。あの妖精族も、俺をこんなところに閉じ込めた人間たちも。全員、殺してやる』


 憎悪を吹き出すように鼻腔から噴出される鼻息が、迷宮の奥深くで不気味に響き渡る。


 ――なんだ、こいつは。


 なにかが違う。

 こいつはいままでに遭遇してきた魔物たちとは――なにかが違う。


 去来不明の焦燥感が胸を焼くなか、それでも自分の取るべき行動を策定させる。

 俺はそのとき、ふたつの選択を迫られていた。

 ここで奴と対峙するか、それともやり過ごすか。


 古代図書館の奥へと続く通路は、おそらくこの道一本だけ。そしてそこに擱座するのは、神話の怪物ミノタウロス。

 どうする。勝てるのか。この戦力で。この立地で。

 それにもし勝てたとしても、こちらに加わる被害は?

 俺や鏡花が死ぬならまだいい。だけどリズレッドやアミュレだけは、なんとしても生命線を確保しなければいけない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る