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 思い出しただけでも顔を覆いたくなる羞恥。あれはもう、正真正銘の獣だ。人間的な理性なんてなにもない。ただ相手を嬲るか、食すか。それだけを思考するただの獣だ。あのときほんのどこかの歯車が狂っていたら、俺は決死の覚悟で呼び止めてくれたアミュレすら手にかけていたかもしれない。


 ――結局、どんなに己の闇を制御しようと、外部からほんの少しつつかれただけで破裂してしまうような、紗幕な防護壁なのだ。

 そんなものを用いて勝ったとしても、俺ひとりの功績だとは到底言えない。


 語るうちに恐怖に顔を歪めていく俺を、リズレッドはただ真っ直ぐに見つめていた。

 あの時の彼女はメフィアスにほぼ自己を支配されていた。だがきっとおぼろげながら、昨夜の獣の姿を記憶に留めているのだろう。


 そうだ。その瞳に、その佇まいに、俺は月光に照らされら夜の旅人のように、道標を見いだすことだできたのだ。

 ――だからこれだけは、彼女のきちんと伝えなければいけない。

 息をのんだあと、意を決して俺は告げた。


「だから、あれは俺ひとりのスキルじゃない。――『ふたり』必要なんだ。俺と、そして俺を俺のまま留めてくれる、もうひとりが」

「……それは、つまり」


 リズレッドもこちらの言いたいことを理解したのか、神妙な顔つきで次の言葉を促してきた。


「……ああ、そうだ。トリガーは俺とリズレッド、ふたりがいないと成立しないスキルだ」

「私も……だが、私はあのときメフィアスに支配されて、君に加勢することなんてできなかった。一体あのとき私は、君にどういった助力をしたんだ?」

「それは……その…………」

「? どうした? 私は君の助けになるのなら、何だってする。だからその恐ろしいスキルを制御する方法を、きちんと教えてくれ」


 真髄な視線を投げながら彼女は言う。……ええい、ここまできて、なにを言いよどんでいるんだ。俺は少しだけ息を吸って呼吸を整えると、そのまま一気に告げた。


「口付けだ。俺がトリガーを完全に制御するには、リズレッドとの口付けが必要なんだ」


 言い切ったあと、天井を仰いで目を閉じた。

 ほどなくしてリズレッドから、


「…………ほぇ?」


 ……という、まるでいままの彼女からは想像もつかないような、どう形容していいかわからない声音の声が返ってきた。

 きつく閉じた目蓋を緩めて細く開き、横にいる彼女をちらりと覗く。そこにはさっきまで凛然としていた彼女とは打って変わり、頭の先まで染め上がってしまったのではないかと思えるほど赤面したリズレッドがいた。目を丸くし、口は混乱が簡単に見て取れるほどにわなないている。


「――き、君はこんなときに、そんな冗談を――ッ!」


 激昂が飛ぶ前に慌てて俺は上体を起こし、しどろもどろになりながらも弁護する。


「いや、本当なんだ! あのときトリガーの力で混濁してた意識が、それではっきりと晴れたんだ!」

「あ、あのときとはなんだ! あのときとは!?」


 彼女もそれに呼応するようにベッドから上体を起こし、悲鳴に近い声を上げる。


「覚えてないのか!? リズレッドがメフィアスに完全に支配されかかったとき、破魔を使うのと同時にキスしたのを!」

「――――――!!」


 まるでその一言がとどめになったかのように、リズレッドは身を硬直させたかと思うと、そのまま再びベッドへとへたり込んでしまった。――しまった。どうやらキスしたときのことは彼女の記憶からは飛んでいたらしい。だけどそれも無理はない。あのときのリズレッドは完全にメフィアスの眷属になる一歩手前だった。そしてそれだけ危険な状態だったということの証明で、目の前に『リズレッド』として彼女が在ってくれるのが奇跡のようなものなのだが――


「――ば、馬鹿ぁ! 初めてなのに! 初めてだったのにぃっ!!」


 手で顔を覆ってそう泣き叫ぶリズレッドに、そんな思考は簡単に吹き飛んだ。


「――――へ?」


 どう頭を整理していいかわからず、釣られて俺も素っ頓狂な声を上げる。

 リズレッドの外見は俺とほとんど変わらないし、精神的な年齢を言っても、こちらより少し上というくらいのものだろう。だがそれはあくまでも長い時のなかを生きる妖精族の成長の尺度が、それに比しているだけだ。実際はもう半世紀ばかりの時間を過ごしてきたと前に彼女から教えてもらったことがある。……それだけの人生を歩みながら、未だに、その……。


「リズ……ぐふっ!?」


 なんとか声をかけようとしたとき、盛大な勢いで顔に柔らかいものが当たった。

 ぽさ、と膝の上に落ちたそれは、彼女がさっきまで使っていた枕だった。


「ラビばっかりずるいぞ! そうやっていつもいつも……っ!」


 人指し指をびしりとこちらに突きつけながら、涙目のリズレッドが激しく抗議する。

 確かに意識が混濁しているなかで無理やり唇を奪ったのだから、それなりの批判はあるだろうと予想していたが、これは予想以上だった。

 あのいつも冷静で静謐な彼女が、いまはまるで駄々をこねる子供のように叫びを上げている。こちらの判断を謝れば、このまま号泣してしまってもおかしくないのではと思えてしまうほどの動揺っぷりだ。

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