105

「気をしっかり保て! 気力を失った瞬間に死ぬぞ!」

「……ッツ」


 地上から放たれる激がノートンの意識を戦場へと引き戻した。

 そのままくるりと一回転し、足から地面に着地した。永遠にも思えるほどの空中落下を終え、中央十字路に降り立ったとき、彼は全身から吹き上がった汗でびっしょりになっていた。


 しかし爆炎のなかから悠々と生還してきたメフィアスが、そんな彼を気遣うことなどもちろんせず、炎の尾を引ひながら歩み寄った。


「あら、よく見たらあなた、見覚えがあるわ。確か……グラヒエロの飼い犬だったかしら? あまりお痛をしちゃ駄目よ。主人と私は協力関係にあるの。私に歯向かうことは、主人に歯向かうことと同義よ」


 メフィアスはあくまでもしつけのなっていない犬に言い聞かせるように、優しく言葉を放った。

 奇襲で負ったプライドの傷を埋めるように、男をただの畜生と同価値に扱い、彼我の差をわからせるような口調だった。

 そして事実、ノートンはその迫力に圧倒されていた。凄まじい圧力がこの場を支配していた。それを放つ張本人である悪魔を見るだけで、湧き上がる汗が止まらなくなり、それだけで干からびてしまうのではないかと思えた。


 リズレッドは、こんな化物と対峙していたのか。


 遠目からではわからなかった愕然たる差だった。目の前の悪魔にだけではない。このエルフの騎士にすら自分は遠く及ばない。

 

「――ふふ、己の立場をわきまえない駄犬は、私が処分してあげるわ。あなたの血は……ううん、考えるまでもないわね」


 悪魔がくすりと笑った。

 明らかに場違いな役者が舞台の上に上がってきたのを、一生に伏すように。

 彼は権威あるオペラ会場の演目の舞台に、遊戯会のふりつけをやっと覚えた程度の子供が立つような羞恥に襲われた。

 世界が違いすぎる。自分は確かにレベルは40台だが、リズレッドとてそう違いがあるとも思えない。だというのにこうも違う――なぜだ、なぜ彼女はこんな化物を相手にして、二本の足で立つことができる。


 消え去りたくなるほどの圧力に屈し、膝を折って地面にうずくまってしまいそうになったとき、一つの視線を感じた。

 それはここにいる二人からではなく、もっと遠くから――自分が駆けてきた場所から向けられているのを察したとき、さらなる羞恥が襲った。


 それは間違いなくアミュレからの視線だった。

 どうやっているのかはわからないが、あの少女はこの距離にあって自分を正確に感覚している。いや、そんなものはもうわかりきっていることだった。そうでなければあの屋根の上からヒールライトを当てることなどできるわけがないのだ。まるで将来有望な盗賊か、もしくはその上位職である暗殺者のような計り知れない索敵能力だった。彼がかぶりを振った。膝を何度も叩き、折れた心をなんとか駆動させるため、己に活を入れる。あの少女が見ているのだ。遥か遠方から、この戦いを感覚している。だというのにこの体たらくはなんだ? 自分はなんのためにここに来た?


 ロックイーターのかするような攻撃に瀕死の重傷を負い、無様に敗走したあの日を思い出した。

 そうだ、自分はあれを払拭するためにここに来たのだ。たとえそれが――ロックイーターなどとは比べ物にならない悪魔が相手だったとしても、あの少女の前で無様をさらすのは、死ぬよりもプライドを傷つけることだった。


「っエルフの騎士! 少しだけ時間を稼げ――!」


 渾身の力を込めて立ち上がったノートンは、そのまま一目散に走った。

 メフィアスは抗えぬ現実を知り敗走したのだと勘ぐり、追撃の手を伸ばした。だが一手早く援護に回っていたリズレッドが、八つ裂きにせんと襲いかかる爪に対し、白い剣でそれを弾いた。身体中がびりびりと痺れた。


「待て! どこへ……!」

「お前の欲しているものを、ここに持ってきてやる!」


 問いただすよりも前に叫びがきた。

 リズレッドは彼の言わんとしていることを察せなかったが、なにかを行おうとしていることだけはわかった。それも、彼女のためを思っての行動を。

 つい先日までは憎しみを込めて自分たちと敵対していた相手が、いまは共に死地に飛び込み、力を貸してくれている。

 それは長い彼女の人生のなかでも稀有な出来事だった。外界から離れ、自らの国のためのみ命を張ってきた彼女にとっては、人間と共闘するというだけでも奇妙なのだ。ましてや敵対していた者とこんな短期間で手を組むとは、とても信じられない状況だった。


「――くっ……!」


 リズレッドは即座に彼を守るように両者の間に立ち、叫んだ。

 この人間とエルフの邂逅を果たせたのは、自分の力ではなく、自分を変えてくれた『彼』のおかげだと思った。だから再び会うまでは、どんな強敵であろうと屈するわけにはいかない。捜索の拠点となる城塞都市を、陥落させるわけにはいかない。

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