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 リズレッドたちは用意された二階の寝室に入ると、一日の汚れを浴場で洗い落とした。服のなかにまで入り込んだ砂塵を沸かした湯で洗い、備え付けられていて石鹸で体をこする。一般に広く流通している木灰と油を混ぜたものと違い、臭みはなく、心地より香りすら漂ってくる。湯が緊張をほぐし、石鹸がそれを後押しする。湯船は設けられていなかったが、それでも十分に気持ちは癒えた。


 その後は、すぐにベッドへ倒れ込んだ。マナの言っていた通り、朝からリムルガンドで活動を続けていたおかげで、気づかぬうちに疲労が溜まっていたらしい。まるで寝具に意識を吸い取られるように急速に睡魔が頭を支配していき、否応なく目蓋が閉じられていく。


 リズレッドは沈みこむ意識の海底のなかで、はるか頭上の水面が慌ただしく波打つのを感じた。階下がなにか騒がしい。おそらく、なにかがあったのだ。

 確認しようとも思ったが、疲労と肌触りの良い布の感触から、鉛のように重くなった体はどんどん海底へと引き落とされ、彼女は識閾を浮上させることなく、最下へと消えた。


 ――明朝、事態は悪化していた。

 目を開いたとき、彼女を起こしたのは耳触りの良いモーニングコールのドアノックではなく、窓の外から衝撃とともに伝わる、耳をつんざく複数の炸裂音だった。

 次いで、昨夜ここに案内してくれたメイドの声が、戸の向こう側から響いた。うろたえて、困惑した様子が顔を見なくてもわかる。


「リズレッド様、失礼いたします! ご起床していらっしゃいますか!」


 街から届いた怒号によりベッドから飛び起きていたリズレッドは、その叫びに間髪なくドアを開けて応えた。


「どうした、なにがあった?」


 廊下に立つメイドは、思った通りに顔を真っ青をしていた。相手は震える声で、たどたどしく告げる。


「主様が、下でお待ちです」

「フランキスカ殿が? わかった。ではアミュレとマナも連れて、すぐに向かおう」


 どう見ても緊急の用事であるのは明らかだった。彼女は両隣の部屋で待機する二人と合流すると、すぐに彼が待つ一階へ降りた。

 昨夜とは打って代わり、中央領の廊下には怪我人が多数、群となって赤い絨毯の上に横たわっていた。怪我は軽傷の者から重症の者までおり、それに付き添うように、まばらに使用人の服を着た人間が、彼らに翠の光を放射していた。どうやら重度の高い怪我人から、ヒールによって回復が施されているようだった。

 訝しげな表情を浮かべるリズレッドたち三人に、先導するメイドが説明を加える。


「リズレッド様方がご就寝されてから、街の暴動が一層激しくなりまして、癒術院に入りきらない分をこちらに回しているんです。ここには、専属の僧侶が複数控えておりますので」


 通路で苦しげに呻きを上げる人々の列は、十分に幅を取って設計された中央領廊下の両端を埋め尽くし、真ん中にできた少しばかりの空白を、なんとか歩くので精一杯といった有様にしていた。そしてメイドの言葉とは裏腹に、放置されている者の数は、治療を受けている者よりも遥かに多い。というよりも、治癒の光など、壁に設置された洋燈よりも少ないぐらいだった。癒術院から漏れた人間を収容しているだけだというのにこれとは。


 リズレッドはそのような規模の暴動が起きていたにも関わらず、安寧と上品質なベッドで寝ていた自分に苛立ちを覚えた。

 だがそれも仕方のないことだった。中央領は防衛の要のため、魔法による攻撃も想定して耐久性を考えられている。外からの音など、分厚い石壁がすべて反射してしまうのだ。


 それこそ今朝発生した、過大な炸裂音でもなければ聞こえないのだ。それに加えて広く設けられた庭園が影響し、余計に街の喧騒が届かない。一日の疲労が蓄積された彼女では、瞑目から覚めないのは当たり前のことだった。


 隣を歩くアミュレはその状況を目の当たりにし、小さな体を震わせるた。下唇を噛み、血が滲む包帯で巻かれて廊下に伏せる人々を、苦悶の表情が見つめる。そして意を決したように「リズレッドさん」と声を放つと、返事を返されるのを待つことなく頭を下げた。


「すみません、私、ここにいる人たちを助けたいです。フランキスア様との話は、お任せしても良いでしょうか」


 リズレッドは顔を増える少女の拳が、悔しさで強く握られているのを見やると、微笑みながら告げた。


「ああ、そうしてやってくれ。いまこの中央領には君のような癒し手が、少しでも多く必要だ」


 その言葉を皮切りに少女は頭を上げて、「ありがとうございます!」という礼を言うや、すぐに近くの患者へのヒールを開始した。


「私も僧侶が神託されれば役に立てたんだけどなあ」


 マナがぽつりと呟くと、リズレッドは慰めるように「君にも活躍できる場面が、必ず訪れるさ」と言った。

 後ろで手を組みながら、混雑した廊下を歩くマナは「だといいけど」と、いつもの気楽な様子で告げる。

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