第135話 創作にまつわる検証のあれこれ(2)
ある時、白武は気づきました。
――人生の中で、一度も馬に乗ったことがないことに。
ファンタジー小説における乗り物の代名詞と言えば、やっぱり馬。
馬の家畜化はヤギ、ブタ、ヒツジに比べてずっと遅く、牛よりもさらに後期の紀元前4000年ごろ。当初は重たいものを引っ張る牽引用の動物として利用していましたが、車輪の開発によって馬車の機動力が爆発的に高まったことで移動や物資の運搬で大活躍するようになり、人々の生活にはなくてはならない特別な家畜となりました。
人を乗せ、馬車を引き、田畑を耕し、時には戦争でも活躍する役畜の代表格。
世の中、ドラゴンやグリフィンなどの幻想生物に跨る人々もたくさんおりますが、その特殊性は馬という絶対的な比較対象が存在してこそ。いやしくもファンタジー小説を書く者の一人として、馬に乗った経験が一切ないというのはよろしくないのではないか。
まあ、馬に関わらず、ヤギに乗ったことも牛に乗ったこともないのですがね。牛車はありますけれど。家庭の事情でペットを飼うことができなかったせいか、どうも哺乳類との接点が薄いんですよ。昆虫は山ほど捕まえてきたのですが。
そんなわけで、人生初の乗馬にチャレンジすることになりました。
年度末で仕事に追われてはいる身の上ではありますが、思い立ったが吉日。溜まった仕事は明日の自分がきっとやってくれると信じ、遠路、熊本県の阿蘇の山麓にある乗馬クラブへ赴きます。
ところが、その日の阿蘇山麓はちょうど野焼きの真っ最中で、目的の乗馬クラブは利用不可のお知らせが。事前に確認しておけよ、というツッコミはなしでお願いします。本当に思い立ったが吉日だったのです。
余談ではありますが、この阿蘇山麓の野焼きは1000年以上昔から行われている伝統行事だそうです。
阿蘇という土地は昔から降水量が多く、冬以外は温暖湿潤な気候のため、何もせずに放っておくとあっという間に『森』になってしまうそうな。
森になってしまうと地面まで太陽の光が十分に届かなくなり、家畜の餌となる草が育ちません。馬や牛などの放牧するためには阿蘇の大地を『草原』の状態に保つ必要があり、そのために野焼きが行われているのだとか。
また、野焼きによって家畜に有害なダニなどの虫を駆除できるので、安全に放牧できる側面もあるようです。
なるほどなぁ……と人と緑の関係に感心している場合ではない。
風に乗って黒い灰が舞い散ってくる情景も、平地育ちの私には新鮮なものではありますが、本題はこれではありません。今回の検証の肝は乗馬です。私はスマホで別の乗馬クラブを探し、そちらへ向かうことにしました。
その乗馬クラブは野焼きポイントから30分ほど降りた場所にあったのですが、風に乗って来たのか、それとも車が運んだのか、野焼きの灰がそこまで降り注いでいました。このあたりの人々には日常的な光景なのでしょうが、見慣れない人間からするとさながら異世界の風情です。
さて。
先述した通り、乗馬クラブへは予約なしの飛び入りでしたが、私が来訪した時、ちょうど一件予約がキャンセルされたところだったそうで、穴埋めとしてすぐに乗ることが可能とのこと。ラッキー。
手続きをパパっと済ませ、クラブで飼っているダルメシアンと戯れながら待つこと五分。インストラクターさんが馬を連れてやってきました。
私にあてがわれたのは、牝馬のバスクちゃん(10歳)。
人間で言えば30代後半くらいでしょうか。性格は食いしん坊とのこと。品種に関しては、生まれて初めてまじまじと見る馬の巨体に圧倒されて質問する余裕がありませんでした。それくらい馬の質量感が凄まじかった。これほど巨大な動物、身近には存在しないので私からしたらちょっとしたモンスターです。
「どうぞー」
と、インストラクターさんに補助台へ促され、そのまま鞍に跨り、
その後、インストラクターさんのレクチャーを受けます。
手綱を手前に引いたら停止。お腹を左右の足で同時に蹴ると発進。左右に引っ張ると進行方向を左右へ変更。
――以上。
私が言われた通りに手綱を操作すると、バスクちゃん(10歳)はその通りに動いてくれました。しっかりと調教されているのが窺えます。
次いで、インストラクターさんも乗馬。
「はい。では、後ろから着いてきてください」
「え」
そう言って、先にスタートするインストラクターさん。
正直、びっくりした。
横について一緒に並走してくれるとかじゃないんだ……いきなり手綱を任されるんだ……。
ややあって、バスクちゃん(10歳)も出発。
あと視線が高い。高さ2mくらいかな。座っているのに宙に浮いている感じがして、それくらいいつもと視野が違う。
かっぽかっぽと軽やかに馬蹄の音を響かせながらクラブ前のアスファルトをしばらく歩くと、そのまま森林コースへ向かいます。
――森林コース!?
牧場の中をゆっくり歩くとかではなく!?
想定が甘かった。しっかり、コースの確認をしておけばよかった。まさか、一発目から外に出るとは思わなんだ。
しかし、森の中を馬で進むという、作品への採用率が実に高そうな体験である。物怖じしてなるものか。覚悟を決めて森へ侵入します。
森林ルートに入ってすぐ、あちこちに伸びている笹が気になるのか、ちらちらと頭を向けるバスクちゃん(10歳)。体を預けている私からすると、馬が別のところに視線を向けているだけでもちょっと怖い。
「そのままだと笹を食べちゃいますよ」
と、インストラクターさん。
まるでその言葉に呼応したかのように、バスクちゃん(10歳)がばくっ!と笹に食らいつく。
「ほぁぁぁぁ!?」
首が伸びた反動でぐりんと揺れる体。情けない悲鳴が出た。
確かに食いしん坊とは聞いていたけれども、こちとら手綱を握るので精いっぱいの初心者。予想外過ぎて思考が真っ白になります。
そんな私など意に介さず、もっちゃもっちゃと笹を食むバスクちゃん(10歳)。
くっ、これが道草を食うと言うことか……!
「笹を食べそうになったら、逆方向に引っ張ってくださいねー」
そ、そうか。進路変更はさっき教わったな。私は笹とは逆方向に手綱を引っ張ると、バスクちゃん(10歳)は笹を諦め、歩みを再開してくれました。ほっ……。
安心したのも束の間、その後も道すがらには笹が自生しており、バスクちゃん(10歳)への誘惑は続く。手綱の反応がわずかにでも遅れると、乗り手の気持ちなどお構いなしにばくっと笹の葉に食らいつく。その呼吸を覚えるまでの間、都合3回、バスクちゃん(10歳)は道草を食いました。
いやはや、まさに生き物に乗っている、という感じ。
当たり前ではありますが、彼ら/彼女らは生きた動物。人間が操縦するように作られた機械と違って、一個の生き物として明確な意思がある。
操ろう、というのがすでに心得違い。彼ら/彼女は物ではない。一個の生命として敬意を払い、お互いの意思を尊重し、信頼し、心を通じ会わせなければなりません。
そうして互いの思考、意思、呼吸が一つになった時にはじめて、人と馬の肉体の垣根を超えて一個の生き物のように動けるのでしょう。人馬一体。決して浅はかな覚悟で臨める境地ではない。
しかしながら、だからこそ、馬という生き物は永らく人々を虜にしてきたのでしょう。
そのようなことを考えながら、あっという間に40分が過ぎ、私はクラブ敷地に戻ってきました。
私が背から降りると、バスクちゃん(10歳)は、ぶるるとわななき、口からは白い息が立ち上ります。重かった、でも頑張った、と言わんばかりに。
次に乗る時はもうちょい痩せておこうと心に決めた私。貴重な体験をありがとう。いつか作品で活かしてみせるね。
ちなみに道中で食べた馬肉の串焼きは絶品でした。
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