第12話 郷子さん
「いらっしゃいませ、3人とも久しぶりね」
明るい笑顔で厨房から出てきた、きれいな女性、レイクのオーナー郷子さんだ。
「愛日ちゃん今日もきれいね、おばさん嫉妬しちゃうわなんて」
郷子さんの冗談に、僕もお姉ちゃんも笑う。栗だけは笑ってなかったが。
確かに郷子さんはおばさんじゃないし、はっきり言ってお姉ちゃんよりもはるかに美人だけど、そこは愛想笑いの一つもしなさいよ。
栗は昔から郷子さんのことがあまり好きじゃないみたいだ。郷子さんには散々お世話になったし、年は離れてるけどお姉さんみたいな人じゃないか。
いったいどこに嫌いになれる要素があるのだろうか。
「栗ちゃんも久しぶりね。少し背が伸びたんじゃないの?」
「別に伸びてません。以前お会いした時から1 mmも」
「あらそうなの。なら私の勘違いね、とっても大人っぽくなったから」
「お世辞の言葉ありがとうございます」
「あらやだ、お世辞なんかじゃないわよ。ほんとに大人っぽく美人さんになったわ」
おい栗、いくら寛容な僕でもあんまり郷子さんに失礼な態度をとると許さないぞ。郷子さんのお店で大きな声を出すわけにはいかないから、今日は帰ったらお説教だ。
僕が不機嫌な顔の栗を不機嫌そうに見ていると
「近江君、どうしたの機嫌悪そうな顔して、なんか嫌なことでもあったの」
「なんにもないよ郷子さん」
郷子さんに話しかけられて、栗の態度が悪いなんて言うことは一瞬でどうでもよくなった。さっきまでの不機嫌な顔から一転、一瞬で笑顔になった。
栗の顔が、より不機嫌な顔になった。でも視界には入るがもはやそれはノイズだ。僕の焦点は今、郷子さんに合っているのだ。栗やお姉ちゃんの姿はピンボケしている。
「近江君、家事は大変じゃない?近江君はもう充分大きいし、私があなたたちの家のことでまで心配するのは出過ぎたことかもしれないけど、困ったことがあったらいつでも相談してね」
「はいありがとうございます!でも困ったことなんか何もありません。郷子さんが料理や家事を教えてくれたから何も心配いりません」
「ならよかった。あとそれといつも豊の勉強を見てくれてありがとう。私も豊もとっても感謝してるわ。豊も家では近江君のことばっかり話すのよ」
「そうですか。いつでも勉強会を開きますので言ってください」
「でもここのところ忙しいのでしょう。近江君は私の頼み事何でも聞いてくれちゃうから、無理してないか心配なの」
「ほんとに無理なんかしてません。豊さんとの勉強会も楽しいですし、何より僕自身の勉強にもなります」
「ありがとう。じゃあ今日はお礼にごちそうしちゃうわ。3人とも、遠慮せずに好きなものを頼んでね。あ、ちなみに当店のおすすめはオムライスです」
「わーい。じゃあ私クリームシチューとパンで」
おい栗!なに郷子さんのおすすめを無視してるんだ。まったく、まだ僕が我を通して郷子さんのお店に来たこと拗ねてるのか。
だいたい君だって郷子さんのところに来ることに反対してなかったじゃないか。
僕とお姉ちゃんはオムライスを注文した。栗を注意しようとも思ったが、食事の前に嫌な気分にさせるのはどうだろうかと思い、つばを飲み込む。
きっと郷子さんの料理を食べれば機嫌も直るだろう。ホームシッターをしてくれていた当時でさえ料理の腕は抜群だったのだ。
修業した今では、かつてよりずっと腕も上がっているのだろう。
しばらく待っていると、豊が料理を運んできてくれた。
「お待たせしました。クリームシチューとパンのセット、オムライス2つです」
「豊ちゃんありがとう」
「ありがとう豊」
「・・・ども」
どの料理もすごくいい匂いだ。
いただきます。オムライスを一口くちに運ぶ。
幸せが広がった。幸せに味があるとするならこんな味なんだろう。なんだろう、涙がこみあげてくる。
郷子さんと暮らしていた時の思い出がよみがえる。前にオムライスを作ってくれた時は、上にかかっていたのはケチャップだった。今はデミグラスソースで、味も洗練されていている。
それなのに郷愁を感じさせる不思議な味だ。僕は実に機嫌よく栗に
「栗、やっぱり郷子さんのお店に来て正解だっただろう?」
と問う。
「別に郷子さんのお店に行きたくないなんて言ってないじゃん。おいしいよ。昔から郷子さんの料理はおいしいのは知ってるし」
え、それだけ?おいしいのは間違いないが、昔と今では味のニュアンスが違うだろう。
お姉ちゃんも「おいしいおいしい」としか言ってない。
この2人こんなに味音痴だったのだろうか。
帰り際、お姉ちゃんと栗が「おいしかったです」と郷子さんに言った。
郷子さんは
「ありがとう。また来てね」
とにこりと笑った。
僕は郷子さんに今日の味の感想を事細かに伝えた。5分も感想を述べただろうか、まだまだ伝えたいことはいっぱいあったが、お姉ちゃんと栗に強引に店から連れ出された。
郷子さんはにこりとした笑顔を一切崩さず僕の話を聞いてくれた。まったく表情の変化がなかったが、ずっとにこりと聞いてくれたのはそれだけ感想が欲しかったのだろう。
やれやれ、どうやらこんな名店に味のわかる客は僕以外来ていないらしい。
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