第1034話 「頭撫」

 ――死ぬ。


 追い詰められたサンディッチの脳裏にはその二文字がチラチラと浮かんでは消える。

 そしてそれは攻撃を一度捌く度に確信となって胸の奥で大きくなっていく。

 命のやり取りをしている以上は敗北すれば死ぬ事は彼自身、よく理解していた。


 負ければ死ぬ。 それは彼の掲げる公平性とは矛盾しない。

 彼は自らの公平性を貫くというのなら死を受け入れなければならないだろう。

 

 ――死ぬ。


 彼は死と言う物に関してそこまで深く考える事はなかった。

 いや、考えないようにしていたのかもしれない。

 もしかしたら自分とは縁の遠いものと無意識に軽く考えていたのかもしれないと今更ながらに自覚した。

 

 自覚の後に来るのは恐怖だ。 死という不可逆的な未知への恐怖。

 死ねばどうなるのだろうか? 当然ながら分からない。 教団の言う通り死ねば霊知の導きで新世界に行けるのだろうか? 疑いたくはないが、極限状況になると素直に信じようという気にはなれなかった。


 ――何故ならそれは教えられただけで誰も本当にそうだと証明していないからだ。


 つまり、死んだ後の事は誰にも分からない未知となる。

 それは物事を理解し公平性を求めるサンディッチには心の底から恐ろしいものだった。


 結局の所、彼の根幹にあるのは未知への恐怖だ。 それを振り払う為に物事を自分で理解できる形に変換し、安心を得る。 ウィルラート・クリント・サンディッチの公平性はそこから来ており、その正体と言い替えても良いだろう。


 ――あぁ、なんて恐ろしい。


 恐ろしさを自覚してしまうともう駄目だった。 呼吸は乱れ、心臓の鼓動は不自然なリズムを刻む。

 カチカチと歯の根が合わなくなり、動きも自然と固くなる。

 トラストの一撃を折れた剣でどうにか受け止めるが、上手く捌けずに体勢が崩れた。


 急に動きが悪くなったサンディッチにハリシャはやや訝しみながらもこれで終わりかとやや白けた表情で刀を一閃。 そのまま首を刈り取ろうとしたが――


 「おや?」


 ハリシャは思わずそう声を漏らして首を傾げる。 トラストも態度にこそ出さなかったが、内心ではハリシャと同じ気持ちだった。

 彼女の一撃は完璧にサンディッチの首を落とせる軌道とタイミングだったが、意外な事に空を切る。

 何故かというサンディッチの背の羽が消失して落下したからだ。


 意識して消したのではなく、サンディッチの精神状態が権能を維持できるレベルを下回ったからだった。 ボロボロになった彼はそのまま地面に落下。

 流石に予想外だったのかハリシャもトラストも一瞬だが、追撃を躊躇った。 何かの罠なのではないのかと疑ったからだ。


 そしてサンディッチがその後に取った行動は更に予想外だった。

 彼は表情を大きく歪めると泣き出しそうな表情で剣を放り捨て、そのまま背を向けて逃げ出したのだ。

 

 「……何ですかあれ?」

 「……知らん」


 ハリシャは心底つまらないと言った表情でそう呟き、トラストも気勢を削がれたのか追いかける機を逸してしまった。

 見ている先でサンディッチはがむしゃらに走りながらひいひいと情けない声を上げて手近な建物に飛び込んで姿が消える。 トラストはハリシャの言葉に応えつつも何となくだが、サンディッチに起こった事に理解が追いつき始めていた。


 ――己に負けたか。


 サンディッチは戦いではなく戦いの果てに起こる結果に怯えて逃げ出したのだ。

 情けないと思わなくはないが、そういうこともあるだろうと特に何も感じなかった。

 

 「どうします? 追いかけますか?」

 「捨て置け。 あの様子ではもう使い物にならん。 それよりもメイヴィス殿から少し離れすぎた。 引き返して守護の任に戻る」


 演技には見えなかったので、もう再起不能だろう。 仮にそうでなかったのなら現れた時に斬ればいい。

 追いかける手間をかけるぐらいなら他の敵への対処に当たった方がいいと判断したからだ。


 「私も行った方が良いですか?」

 「敵の動きから集まって来てると見ていい。 今の男に比べれば大きく劣るが、数はおるだろう」

 「なるほど。 では私も行くとしましょう」


 駆け出したトラストを追ってハリシャもメイヴィス達の居る場所へと引き上げて行った。

 



 「――はぁ、はぁ……」


 ぜいぜいと荒い息を吐きながらサンディッチは民家を通り抜け、細い道を滅茶苦茶に走り回り、邪魔だと身に付けた装備の残骸を投げ捨てて身を軽くする。

 トラストの言う通り、サンディッチの心は折れるどころか砕け散ってしまい、戦う事を放棄。

 もう逃げ出す事しか考えていなかった。


 怖い怖い怖い怖い怖い怖い。

 死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない。

 サンディッチは情けない声を上げながら走って走り続け――足が動かなくなった所で蹲って小さくなる。 気が付けば彼は比較的ではあるが損傷の少ない民家の一室におり、洋服箪笥らしき家具の影で震えていた。


 平時で自らの姿を客観視すればその場で自害しそうなほどの醜態だが、今の彼の精神状態は平静さとはほど遠い。 少なくと今はこの恐怖の時間が一刻も早く過ぎ去ってくれと祈る事しかできなかった。

 部下も同僚の事も全て頭になく、ただただ自らの安寧を祈り続ける。


 聖騎士? 救世主? 御大層な肩書だったが、目の前で大きくなっていく死の恐怖の前には何の役にも立たない代物だった。

 同時に自分はなんて薄っぺらいものに縋っていたのだろうかと、今までの聖騎士としての自分を全否定するような事まで考えてしまっていたのだ。


 信念は尊いものだが一度、完全に折れてしまえば何と脆い事か。

 そして信念を失った者の無様さは何と滑稽か。 僅かに残った冷静さでサンディッチは僅かに自嘲する。

 だが、恐ろしいものはどうしようもない。 今の彼は子供のように震える事しかできなかった。


 ――誰か。 誰か、自分を助けて……助けて……。


 誰でもいい。 この恐怖と秒刻みで増していく心の絶望を止めてくれる存在が居るなら彼は聖騎士としてどころか人としてのプライドを投げ捨てて靴を舐めてでも縋るだろう。

 

 どれぐらいの時間が経っただろうか? 外では戦闘の音が継続している。

 だが、もう何も聞きたくないし見たくもなかった。 幸か不幸かサンディッチに近づく気配はない。

 付近は静かな――


 「――ひっ!?」


 不意に体に感じた感触に彼は悲鳴を上げる。

 いつの間にか体に触れられていたのだ。 ゴツゴツとした手の感触がサンディッチの頭に触れていた。

 恐る恐る振り返って顔を上げると大柄な男が居た。 鍛え込んだ肉体に額には小さな角。 その傍らには複数の尾をもつ獣。

 

 男は何故かサンディッチの頭を撫でている。 状況が理解できない彼は震える事しかできなかった。

 目が合うと男は厳つい見た目とは裏腹に歯を見せて子供のようににっこりと笑うと――

 

 「どうしたの? まいご?」


 ――そう言った。

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