第846話 「諦流」
アリョーナ。
基本的にエルフは姓を持たないので彼女の持つ名前はこれのみだ。
ユトナナリボの族長の娘として生を受けた彼女は次代の族長の妻となると生まれた時から定められていた。
彼女はそれを理解しており、受け入れてもいたのだ。
その為、どんな男であろうとも愛する努力をしようと心に決めて今まで生きて来た。
結果、夫となったのはブロスダンという他所の大陸から流れて来た同族を率いて来た者。
最初の印象は何処か陰があるものの、人を引っ張っていく牽引力を感じる青年だった。
実際、彼がユトナナリボに住み着いてからこの都市の生活は大きく変化する事となる。
衣食住、全ての要素が劇的に向上し、彼の考案した物は悉くこの都市に大きな恵みを齎した。
その行動と発想に住民達は熱を上げ、ハイ・エルフは何と素晴らしいのだと熱を上げた物だ。
アリョーナも最初は他と同様に彼の偉業とも呼べる成果に喜びの声を上げていた一人だった。
恐らく自分はこの男と結婚する事になるのだろうとぼんやりとだが予感を感じていたのだ。
そしてその予感は早い段階で現実のものとなる。
先代の族長の引退と同時にユトナナリボの各所でブロスダンを次代の族長にと推す声が上がり始めたからだ。
恐らくだが、それは住民の大半が予想していた未来だったと言えるだろう。
それだけの事をブロスダンは行ったのだから。
成果に見合った地位と名声を得るのは世の常だろうとアリョーナは考える。
物事は順当に進み、ブロスダンはユトナナリボの代表となり皆を牽引する存在となった。
そしてアリョーナは妻として彼を支える。
彼女はそう決意して嫁入りしたのだが――夫婦となって彼女はようやくブロスダンを偶像ではなく個人として見られるようになった。 だが――
――彼女が知ったのは無情な現実だった。
夫婦となった以上はお互いに踏み込んだ関係になるべきだとも思っていたが、ブロスダンはそうでもなかったようだ。
彼は常に民を平等に扱い、皆の信頼を勝ち取ってきた。
だが、それは慈しんでいる事と同義ではない。 平等というのは関心がない故にとも取れるからだ。
残念ながらブロスダンは後者だ。 アリョーナの夫は自分を含めて全ての民の事がどうでも良いのだろうと察するまで時間はそうかからなかった。
彼が最初に行ったのはグリゴリという得体の知れない存在への信仰。
つまりは布教だ。 彼曰く、ハイ・エルフという高みに至らしめ、数々の知識を授けてくれたのは彼等だという。 そのグリゴリを信仰する事で皆も同様に自分と同じ高みに至れると言い始めたのだ。
それまでに積み上げた功績のお陰で異を唱える者はほぼ皆無。
こうしてユトナナリボはグリゴリの支配下に置かれる事となった。
正直な話、アリョーナはグリゴリの事をそこまで信用していない。 いきなり現れた得体の知れない存在を早々に受け入れろというのは難しい話だろう。
民に受け入れられたのはブロスダンの言葉だからだ。 つまり、エルフ達はブロスダンという指導者を通してグリゴリを信仰するに至っただけの話なのだ。
だが、切っ掛けとしてはそれで充分だった。 グリゴリは一部のエルフをハイ・エルフへと変貌させ、絶対的な支配者としての地位を瞬く間に確立させる。
ハイ・エルフ化の対象に真っ先に挙がったのは妻であるアリョーナだった。
本音を言えば拒みたかったが立場上嫌とは言えず、彼女は不本意ながらもグリゴリの支配を受け入れる事となる。
ハイ・エルフとなったアリョーナは自分に起こった変化を敏感に感じ取る。
周りは名誉な事だ素晴らしいと持て囃すが、実際に経験して良く分かった。
これは進化などではない。 確かに身体能力や魔力等の能力は向上したのだろう。
だが、生き物として――自身を構成する上で最も大切な物を抜き取られた事をはっきりと感じたアリョーナは確信する。
これは首輪だと。 彼等に従う事を強要し、裏切を絶対に許さない使役の首輪。
――もう自分達は戻れない。
どちらにせよブロスダン達を受け入れた時点で後戻りはもはや不可能だ。
アリョーナ自身、それは理解できていたので今更になって異論を挟むような真似はしない。
このままグリゴリの言いなりにエルフ達を率いて何かを行うのだろう。
その何かにも彼女は気が付きつつあった。
というよりは彼等の行動により察しがついたと言い替えてもいい。
ブロスダンの主導で、必要な贄を捧げる事により現れたアザゼルとシェムハザ。
その圧倒的な力を用いて森の外へと侵攻し、ヒストリアと呼ばれる者達を襲撃。
彼等の同胞を捕らえ、更なる巨大な天使の召喚。
はっきり言ってアリョーナにはこの行いの意味が分からなかった。
ヒストリアに属していた『稀人』と呼ばれる異形の者達は、彼等に何の害も及ぼしていない。
それを一方的に襲撃して捕え、命を奪う。 本来、エルフは森の恵みを食んで生きる種族の筈だった。
――にもかかわらずそれを逸脱し他へと攻め入る行為、これでは蛮族ではないか。
元々、エルフは人間に森の奥地へと追いやられた経緯がある。
それ以降は侵さず侵させずを貫いて来たというのにその禁を自ら破り、自分達を迫害した人間と取引まで行う。 本来ならアリョーナは妻として苦言を呈する場面なのだろうが、二重の意味でそれは不可能だった。
第一に生殺与奪を握られている事。 その為、実行に移す――それ以前にグリゴリに反抗的な態度を取れば死ぬ事となるだろう。 これは聖剣による加護があるアリョーナは防げる物だったが、他はそうではないと彼女はよく理解していた。
第二に決定権を持つブロスダンにその気が欠片もないからだ。 つまり言っても無駄に終わる可能性が非常に高い。 それほどまでに彼の心は固く閉ざされていた。
この流れを変える事はもはや誰にもできないだろう。
アリョーナはそれを理解していたからこそ、もう自分にできる事は夫であるブロスダンを全力で支え、彼にとって都合のいい妻である事だけだった。
彼女は恋を知らない。 何故ならその感情を理解する前に嫁入りしたからだ。
彼女は愛を知らない。 人並みの愛情は理解しているが真に他者を愛すると言う事はまだ分からない。
それでも彼女は自らの立場を全うする為に夫を――ブロスダンを愛する努力をし続けるだろう。
良き妻として、良き女として、彼女は今日もブロスダンにとって都合のいい女で在り続ける。
――自らに課したそれはもはや呪いに近いかもしれない――
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