第776話 「提示」
「馬鹿な!」
ザンダー・トーニ・ザマル・ユルシュル――ユルシュル王は驚愕に表情を歪ませていた。
全ての兵に魔導書を行き渡らせ、万全の布陣で臨んだこの戦。
不確定要素こそいくつかあったが、充分に勝てる筈だったのだ。
だが結果は彼の確信に近い予想を悉く裏切った。
王国方面に侵攻させた者達は聖剣使い一人にほぼ壊滅させられ、オラトリアム方面に侵攻させた者達に至っては丸ごと消息を絶ってどうなったのかすら分からない。
連絡も不通。 文字通り煙のように掻き消えて生死の判断すら不可能だ。
何をしたのだとオラトリアムへ連絡を入れたが、鼻で笑われた後に話す事はないと言われてしまった。
ユルシュルに残った戦力の大半を注ぎ込んだ背水の陣とも呼べる物だったのだが――
「何なのだこの結果は!?」
王国軍はもうこの街の傍まで迫ってきている。
事ここに至っては何をやっても王国軍は引く事はないだろう。
ほぼ単騎で魔導書使いの軍勢を滅ぼした聖剣使いが要る以上、ユルシュルに勝ち目はない。
つまりもうユルシュルは詰んでいるのだ。
何故こんな事になったのかユルシュル王にはさっぱり分からなかった。
歴史とは勝者が作る物だ。 そして勝者とは強者。
ユルシュルはウルスラグナの中で多くの騎士を排出して来た紛れもない強者の筈だ。
実際、独立前までは強い発言権もあり、ユルシュルの意見ならばと納得する領主も少なくなかった。
ユルシュル王自身は気が付いていなかったが、それは単に近隣領主が同調しないと武力で圧力をかけてきそうだからなだけであって、彼の人望では決してなかったと言う背景がある事に気が付いていない。
――仮に気が付いたとしても彼は認めなかっただろうが……。
その為、ユルシュル王にはさっぱり理解できなかったのだ。
自分が何故ここまで追い詰められているのかが。
王国の混乱に乗じて独立した所までは彼の思い描いた通りとなっていた。
彼の論に基づくのならユルシュル王はこの国で、五指に入る巨大な領の長で確かに強者ではあったのだ。
ただ、彼は勝者ではなかった。 それだけの話だったのだが、彼には理解――否、認める事が出来なかったのだ。
「……困った事になりましたね」
王者たる振る舞いをと表面上は強がって玉座に座っていたユルシュル王だったが、内心では頭を抱えていた所に声が聞こえた。
ベレンガリアだ。 彼女はいつもの男を惑わす妖艶な笑みを浮かべ、優雅に玉座の間へと足を踏み入れる。
「……貴様か。 お前は魔導書があれば勝てると言ったが結果はこのザマだ。 どうしてくれる?」
それを聞いてベレンガリアは残念と言った表情で肩を落とす。
「申し訳ありません。 我々が開発した魔導書とユルシュルの強兵が揃えば勝てると確信していたのですが、敵の強さは予想以上だったようです」
そう言いながらもベレンガリアも内心では動揺していた。
聖剣使いがいる王都方面へ侵攻した者達はまず負けるだろうと悟ってはいたが、聖剣より脅威度は下と見ていたオラトリアム方面へ送った軍も全滅したのは予想外だったからだ。
魔導書はその辺にある魔法道具と比べても一線を画す性能であり、使用すれば一騎当千とは行かないが単騎で数十人は軽く屠れる力を与えてくれる。
敵地なので苦戦はするが敗走するにしても最低限、オラトリアムの情報――戦力構成ぐらいは掴めるかとも思ったがそれすら叶わずに全滅するのは流石に想像もしていなかった。
ベレンガリアがユルシュル王へ語った言葉に嘘はない。
魔導書はそれだけの力を秘めており、小さな国なら落とせる戦力の筈だったのだ。
彼女自身も目論見が外れて不愉快ではあるが、表には出さずユルシュル王のご機嫌取りを行う。
ベレンガリアにとってユルシュル王は扱いやすい男ではあったが、正直言って嫌いなタイプの人間だった。
小心者の癖に肥大した自意識と他所から持って来た無駄な自信を身に纏った愚物。
長姉を連想させるその愚かさは会話していて非常に不快だった。
何度か寝ただけで女を支配した気になっている所も鬱陶しい。
体力だけはあったのでそれなりに満足はしたが独りよがりな所が多かったので、総合的には下手糞という評価になる。
謝罪の言葉を並べつつのらりくらりと責任は追及されないように言葉に気を付けつつ、どう持って行くかと思案を巡らせていた。
本来ならユルシュルを傀儡にこの国に食い込み、組織としての地盤を築くつもりだったのだ。
自分で自由になる戦力や土地は多いに越した事はない。
そう考えてこの国に手を出すつもりだったのだが、そうも言ってられない事情が出来た。
母親の死亡と同時にホルトゥナ――ラエティティア家の跡取りを決める為に内部分裂を起こしたからだ。 そうなったと同時に彼女はグノーシスに取り入る事を決めた。
彼女は末の妹と言うだけあって家での立場が低かったのだ。
その為、他者の顔色を窺う事に長けていた。 この技術は姉達と過ごす内に自然と身に付いた物だ。
相手の顔色を読む事によって何を考えているか読み取る。 そうしている内にやり易い相手の傾向を掴み、一歩踏み込んで操る為の技術も身に着けて行った。
特に男は彼女にとって非常にやり易い相手で、何度か寝てやれば勝手に気を許してくれる。
それはユルシュル王も例外ではなかった。 この点に関しては彼女に備わっていた才覚なのかもしれない。 寝れば操れる男とそうでないかの違いを見極められると言った観察眼。
それこそが彼女を今の地位に押し上げたと言って良いかもしれない。
お陰で首尾よくグノーシス教団に取り入り、姉達を蹴落としてホルトゥナのトップに君臨する事が出来た。
このまま権力に寄生し続ければ自分の人生は安泰――そう考えていたのだが、問題が発生したのだ。
原因はリブリアム大陸中央部――ヴェンヴァローカで起った事件。
フシャクシャスラで起った辺獄の氾濫だ。 彼女は早い段階であの一件は利用できると踏んでいたので、情報を集め姉達の動向にも注意を払った。
次女のジャスミナの勢力は表向き大きかったが、実態は彼女の傀儡だったので規模としては最も小さいと言えるだろう。 問題は長女のマルキアだ。
彼女はジャスミナ以上に人望がなかったので切り崩しは容易だったが、側近である転生者の二人だけは何があっても首を縦に振らなかった。
その為、行動を操る事が出来なかったのだ。
だが、それでも問題はない。 ジャスミナは実によく踊ってくれた。
命を賭けてウルスラグナまで転移魔石を運び、聖剣使いをヴェンヴァローカにまで誘い出してくれたのだから。
手の平の上で踊る姉の行動に嘲笑を浮かべつつ感謝していたが、笑っていられたのはそこまでだった。
予定では聖剣使い二人とグノーシス教団の圧倒的な武力で辺獄種――在りし日の英雄を叩き潰し、魔剣を回収した後、聖剣を奪い、そのまま北方のモーザンティニボワールへと侵攻する算段だったのだが――そうはならなかった。
在りし日の英雄の力が予想を遥かに越えていたらしく、送り込んだグノーシス教団の戦力の大半が戦死。 最悪な事に回収予定の聖剣と魔剣は消滅。 生き残った聖剣使いも逃走し、戦力が大幅に削られた結果、モーザンティニボワールへの侵攻計画も頓挫。 とどめに送り込んだ増援も全滅と目標を何一つ達成できないままヴェンヴァローカでの戦いは幕を閉じた。
情報を集め、舞台を整えたのが彼女だったので責任を問おうと言う声も上がっている。
篭絡した教団の有力者達も庇うのは難しいとその表情が雄弁に語っていたので、彼女は自力で活路を切り開かねばならなくなった。
その為にウルスラグナへの食い込みは本腰を入れて行っていたのだ。
最初は魔剣を手土産にご機嫌を取ろうかとも思ったがそれも失敗した以上、もう手があまり残されていない。
だからこそ貴重な魔導書も惜しみなく提供したし、有力そうな勢力には片端から声をかけた。
王国はアイオーン教団と関係が根強く割り込むのが不可能なので除外。
オラトリアムは送り込んだ人員が全員消えたので、交渉以前の問題だった。
恐らく皆殺しにされたと見ていい。 明確な敵対行動を取っていないにもかかわらず、このような過敏な反応をされた事を考えると接触は危険と判断せざるを得ない。
結局、取り入る事に成功したのはユルシュルのみだった。
本命のオラトリアム、次点の王国に比べると勢力としては見劣りするが、これから大きくすればいいと気にしなかったのは失敗だったようだ。
王国は聖剣使いさえどうにかできればまだ勝ちの目もあるが、オラトリアムだけはどうすれば良いのか彼女にも皆目見当が付かなかった。
情報がなさすぎるので対策の立てようがないのだ。
保有戦力どころかどのような戦力構成なのかすら不明。
分かっている事と言えば尋常じゃない資金力と数多の商会を傘下に納めている販売力と高すぎる商品の品質によるブランド力のみだ。
勢力として凄い事しか分からないので、何とか情報を集めたいと考えていたのだがオラトリアムはベレンガリアの目論見を悉く外れた行動を取る。
その為、どうしたらいいのかが分からないのだ。 少しでも情報を得たいのに相手は尻尾すら出さない。
追撃してくるかとも期待したがそれすらなし。 徹底して情報を与えないつもりなのは明白だ。
――私はこんなに頑張っているのに、無能共は結果だけを見て都合が悪くなれば責任転嫁。
いい加減にうんざりだと思いつつ。
怒りに表情を歪ませているユルシュル王に彼女はある提案をした。
最悪の事態に備えて手は打ってある。
姉から引き剥がした獣人部隊も全員こちらに入れているし、最近手に入れた拾い物も役には立つ。
後は切り札を切れれば聖剣使い相手でも食い下がるぐらいはできる筈だ。
非常に難しい状況ではあるが、可能であれば何とかしたい。
そんな祈るような気持ちでベレンガリアはユルシュル王に撃退する為の手段を提示した。
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