第538話 「菟葵」
アール・ジェル・ダグラス。
この国――選定真国オフルマズドの農政将軍という肩書を与えられたまだ少年と言って良い年齢の彼は胸の動悸を抑えつつ歩く。
いつもの事ながら王の御前に立つと言うのは彼に取って酷く緊張する事だった。
先達たるほかの将軍は慣れたもので堂々としているが、自分は果たしてそうなのだろうかと疑問を隠せない。
将軍――このオフルマズドで特定の部署の責任者としての立場を指し、王と直接会話する事を許され王から言葉を賜れる重要で名誉な地位だ。
彼自身、それを誇らしく思っているが、果たして自分に務まっているかは甚だ疑問だった。
この国は国民を戸籍という制度を以って管理しており、常に王が国民の数、年齢、性別、職種を把握している状態となっているのだ。
その為、登録にない国民が存在する――または、出生を隠して登録外の人間をつくる事を許さない。
この国には明確にして厳格な決まりがいくつか存在する。
まずは先ほど挙げた戸籍登録――これはオフルマズドの国民が暮らしていく上での義務だ。
もう一つが国民に施される
これは国民全員の右手の甲に刻まれ、王への忠誠の証とされる。
国旗と同じ形の紋様は赤子が生まれれば即座に刻まれ、国民として言祝がれるのだ。
さて、この忠紋。 どのような効果があるのか?
答えは国民の裏切防止措置。 国に対して叛意を持つぐらいなら許されるが、国が定めた決まりに抵触した場合、その者の命を奪う。 発動条件は決まりを破ったと自覚する事。
そしてその決まりは国民全体に教育として徹底的に刷り込まれるので破る事は不可能だ。
アールは何の気なしに自らの手の甲を見る。
そこには物心ついた時から存在する紋様が存在しているが、もはや自分の一部として認識しているのでそこに嫌悪や抵抗の類はなく自然とそれを受け入れていた。
だが、もう一つの決まりだけは彼には少し不満だった。
国民は一切国外に出てはならない。
その為、アールはこの国の外を知らない。 壁の向こうを知らない。 他の国を知らない。
ただ、外から入ってくる情報としての他国は知っている。
有名な所では大陸最北端のウルスラグナ、北部と中央を遮るアープアーバン未開領域。
大陸中央部に存在する大穀倉地帯であるフォンターナ、アラブロストル。
そしてやや南寄りに存在するチャリオルトにエンティミマス。
この国のやや北西にある他の大陸との窓口となっているクーピッド。
もし許されるのであれば――外の世界を――。
そこまで考えて小さく息を吐く。
よくない考えだ。 外への憧れはある。
ただ、実行に移そうとは考えていない。 彼はオフルマズドの将、個人の感情は王への忠義の前には些細な事だ。
さて、国外へ出られない決まりはあるが外との最低限の交易が必要だ。
その為に外部の人間を雇ったりして色々と行っているのだ。
海の向こうとの交易はグノーシス教団の協力で、大陸内ではアメリアの手腕によって行う事が出来た。
それはグノーシス教団の者達が客人待遇でこの国に出入りできる理由でもある。
教団とは協議と取引の結果、そのような決まりが設けられたが、例外はアメリア率いるテュケと言う組織の者達だ。
どうも彼等は忠紋の刻印が上手く行かない体質らしく、厳重な監視を付けるという条件の下、滞在が許されている。
大きな施設を与えられているが、具体的に何をしているかはアールには知らされていなかった。
あのアメリアと言う女。 ある日に突然姿が変わって戻ってきたのは驚きだったが、その態度や口調で本人とすぐに断定され、王もそれを認めたので表向き文句は出ていない。
王が認めているだけで将は認めている訳ではないので、一部の者達は内心で彼女達の事を快く思っていないのは確かだ。
アールはまだ、将の中では新参なのでそう言った事を考える余裕はないが、自由に外に出られると言うのは素直に羨ましいし妬ましいと思う。
そう言った意味では快く思っていない者達と同じ括りなのかもしれない。
アールが何故そんな事を考えているのかと言うと――
――向かう先がそのアメリアの住まう施設だからだ。
あそこに住んでいる住人は人外の者なので、必要以上に人目に触れさせるわけにはいかない。
その為、アールのような高い地位の者を筆頭に一部の者だけが出入りと接触を許されている。
向かっている理由は食料の配給。
定期的に行っているので手配はアールの仕事だ。
彼等はアメリアを除いて全員大食らいなので、消費量も非常に多い。
王城を出て少し歩く。
他の建物からやや離れた位置にそれは存在していた。
オフルマズド内ではやや異様な装飾の類が一切ない機能性を追求した建物。
住人によれば現代日本風との事。
アールにはよく理解できなかったが、きっと異国の建築様式なのだろう。
「――すぅ。 はぁ――」
深く呼吸する。
ここに来るのは王の御前に立つ事の次に緊張するからだ。
彼等の素性については良く分からない。 ただ、異なる場所から来たとだけ聞いている。
最初はその異形に抵抗はあったが、今ではそれには気にならなくなった。
ただ、アールの気分を重くしているのはそれ以外の要因だ。
あの人が出て来ませんようにと祈ったが、彼の祈りは届かなかった。
「あら~あら~、アールきゅんじゃな~い?」
――ひぇ。
内心で声を引き攣らせながらアールはにこやかな表情で振り返る。
「ど、どうもトシナイさん」
名前の通り、日本から落ちて来た転生者。
そしてその見た目は――とてもじゃないが人には見えなかった。
形は人なのだが、全身から触手が生えており、それぞれが意志を持っているかのようにうねうねと動く。
十枝内は最初からアールに友好的だったが、その触手に埋もれた顔から覗く目は異様な輝きを帯びていた。 アールも最初はそれに気が付かなかったが、ある日の事だ。 十枝内は誤って彼に水をかけてしまい服を濡らしてしまう。 彼女は誠心誠意謝罪して服を洗濯すると預かり、代わりに彼女が自作した服を着たのだが――。
それは所謂、半袖と半ズボンで彼の白い手足を惜しげもなく晒すデザインの服だった。
最初は動き易いなと考えていたアールだったが、着替えて直ぐの事だ。 十枝内がじっとアールを見つめており、どうしたんですかと彼が質問してもどうもしないわと返し視線を逸らさない。
そして徐々に彼女の息が荒くなって来た所で視線の意味を察し始めたのだ。
身の危険を感じたアールは服の洗濯が済んだと同時に早々に後にしたが、徐々に押し寄せて来る恐怖でその日は眠れなかった。
以来、彼女の事が苦手になってしまったのだ。
十枝内はそっとアールに近づき、肩に手を置く。 可能な限り物理的に距離を置きたいが、下手に邪険にして怒らせる事を懸念してそれもできない。
「来るなら来るって言ってくれればいいのにぃ~」
そう言って触手がやんわりと絡みついて来る。
生暖かい感触が全身を這いまわるがアールは努めてにこやかに対応した。
もう少しで部下が馬車で今回支給分の食料を持って来るはずだ。
「す、すいません。 実はさっきまで王への謁見があったので、そんな余裕がですね、なかったんですよ」
少し声が上ずっているが、この得体のしれない生き物に全身をまさぐられている状態で、完璧な平静を装うのはいくら若くして将軍に抜擢された彼でも難しかったようだ。
「あら~、そうなの~? 今日は私が受け取り当番だから実にラッキーだわ~」
アールは早く来てくれと部下の到着を祈りながらその場に立ち尽くす事になった。
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