第459話 「色欲」

 カンチャーナという娘の人生は闇に鎖されていた。

 父を知らず、母は忙しく殆ど相手をして貰えない。

 その為、彼女は家族と言う物をよく理解できていなかった。

 

 同年代の男の子は石を投げたり、暴力を振ったり、酷い言葉を投げかける。

 大人の男は路傍の石を見るような目で彼女をみるか、将来が楽しみだと欲望にぎらついた視線を向けた。

 大人の女は同情の眼差しを向ける者は居たが、真っ当・・・な身分の女は汚らわしいと汚物を見るような眼差しを向けてそれを隠そうともしない。


 そして彼女が適齢期を迎えれば男達の相手をさせられた。

 初めての夜は空が厚い雲に鎖されており、微かに漏れる月明かりが妙に印象に残る。

 カンチャーナにとって生きる事は耐える事で、周囲は自分を傷つける茨だった。


 母は彼女を愛してはいたがそれ以上に立場があったので、付いて居てやる事が出来なかったのだ。

 その母親も病であっさりと他界した。

 同年代の同じ境遇の娘達は次々と自殺を試みたが、それは高確率で失敗する。


 理由は明白で、彼女達奴隷は常に最低限の監視を付けられており、自殺を試みた者は即座に助けられる。

 そしてその後、死んだ方がましな目にあうのだ。

 カンチャーナは数少ない友人が死体のような生気のない目で口の端から涎を垂らして呆然としているのを見て自殺を諦めた。


 彼女の心は長い時間をかけてゆっくりと確実に死んでいく。

 こうしてカンチャーナの心にはぽっかりと大きな大きな穴が開いた。

 心に開いた大穴は彼女から情動と言う物を奪い去り、何をされても何も感じなくなったのだ。


 いや、全てを遮断したと言うのが正しいだろう。

 殴られてもぼんやりとし、凌辱されてもぼんやりとして受け流す。

 全てが胸の大穴に吸い込まれて行くからだ。


 もはや、己の不幸や周囲を恨む気力すら残っていなかった。

 カンチャーナは自分はこのまま死ぬのだろうなとぼんやりと考え、そしてそれが早く来る事だけをただただ祈り続ける。

 

 そんな日々の中、ある事件が起こった。

 何をしても碌に反応を返さないカンチャーナに悪魔召喚の触媒を探していた者達が体のいい生贄にしようとしたのだ。

 そして儀式は成った。


 あぁ、やっと楽になれると力抜いたカンチャーナ。

 その時だった。 彼女が悪魔のささやきを聞いたのは。

 悪魔は朽ち果てていた彼女の心の奥底で燻っていた物に火をつけた。


 ――貴女は愛されたいのでしょう? そして愛を知りたいのでしょう?――と。


 自身の本質を射貫かれたカンチャーナの心に火が灯る。

 そう、カンチャーナという娘は本当の意味で家族を知らず、本当の意味で友人を知らず、本当の意味で愛を知らない。


 愛が欲しい。 愛されたい。 誰か私を愛して。 私に愛させて。


 瞬間、カンチャーナの心の最奥で燻っていた物が即座に燃え上がる。

 それこそ彼女の魂の真なる輝きにして、秘められていた真価。

 本来なら喰われて終わる所を奇跡とも言えるバランスで融合に成功。


 カンチャーナはシジーロで過去に成功したプレタハングという男を遥かに超える適合を見せた。

 そして彼女と融合した存在――『色欲』の悪魔の力を解き放つ。

 こうして彼女の権能が支配する王国が生まれたのだった。


 彼女の権能――本人曰く愛の波動は瞬く間に本堂を埋め尽くし、その場に居た大半の男達を影響下に置き、彼等は彼女の近衛兵へと変貌。 大した抵抗すら許されずチャリオルト――四方顔は滅び去った。

 連綿と積み上げられた歴史は虐げて来た奴隷の手によって消え失せ、その傲慢が彼等の終焉の引き金となったのだ。


 『Λοωε ις ρεαλλυまこと α σηαδος影法師


 彼女が常時展開している権能で、効果範囲内にいる異性を魅了するだけの能力だ。

 カンチャーナの愛されたいという思い。 恋に恋をしているという想いの発露。 


 影響を受けた異性は第一にこれ以上ない位に良い匂いに心を解されて心理的な障壁を取り払われる。

 そうなると後は転がり落ちるだけだ。 心の抵抗を失った者達は滑り込んで来る権能の影響下に置かれ、カンチャーナを愛さなければならないから愛しているという思考を経て支配を受け入れる。


 受け入れてしまった者達は魂を彼女に奪われ、奪われた者は愛の奴隷生ける屍となり脳に残った残滓とも呼べる情報で生体活動を行い、働き蟻のように彼女の意を叶える為だけの存在となり果ててしまうのだ。

 この権能の最も恐ろしい点は魂を奪うという事にある。

 

 奪われた魂はカンチャーナに吸収されて魔力に変換され、権能の維持に使用されているのだ。

 その為、彼女は最初に発動した瞬間からこの権能を一度も解除していない。

 かき集めた魂を変換した無尽蔵とも言える魔力を使用する事で彼女の権能はその勢力を拡大していく。

 

 現在はチャリオルトとその近郊のみがその影響下にあり、離れれば離れるほど影響力が低く、侵攻したアラブロストル側の人員も正気を失った者はいるが、まだ被害は軽微だと言える。

 だが、それも時間の問題で、いかに膨大な量の清水でも閾値を超える汚濁を注がれれば濁る事と同様に彼女の愛は時間と共に勢力を増し――最後には世界すら覆いつくすだろう。


 ――何の妨害もなければの話だが。


 カンチャーナは本堂の最上階にある大広間で一人のんびりとくつろいでいた。

 その表情には幸福の絶頂と言わんばかりの笑みが張り付いている。

 実際、彼女は幸せだった。 今、この瞬間にも魂が流れ込んで来るからだ。

 

 魂が流れ込んでいると言う事は自分が愛されている事の証明に他ならない。

 だって、皆は自分を愛してくれた結果、大事な物をくれたのだから。 愛されていない筈がない。

 あぁ、自分は愛されている。 自分は輝いている。 最高に輝いている。


 座っているだけで幸せが向こうから歩いて来るのだ。 動く必要すらない。

 そんな時だった。 階下の階段から微かに音が響く。

 本来なら聞こえない音も膨大な魔力と悪魔との融合の結果、大きく向上した身体能力と五感が、外界の変化を敏感に感じ取る。


 カンチャーナは誰かしらと小首を傾げる。

 昨日頑張った人達はご褒美に抱いてあげたからしばらくは来ないだろうし、新しい人かしらと呑気にそんな事を考える。


 彼女に魂を奪われた人間は彼女の意に沿って動くだけで意のままに操られている訳ではない。

 その為、彼女は配下が何をしているか欠片も理解していないのだ。

 やっている事と言えば時折、訪ねてくる自分を愛してくれる存在と閨を共にする程度で、彼女の頭には多幸感しか存在しない。 


 男と肌を重ねる事にも、もはや喜びしか感じない。

 何故なら男も自分もお互いを愛しているから幸せじゃない筈がないからだ。

 彼女自身、気づいていないが、男が彼女の下に現れるのは彼女がそう望んだからであって彼等の意志ではない。


 だからこそ、予想外のタイミングで自分の下へと向かって来る足音に違和感を感じていたのだ。

 足音は階段を上り切り、襖が開かれる。


 ――そこには――

 

 男が居た。

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