第16話 少しずつ変わっていくことを、恐れるべきじゃないことは分かってる。それでも。

 息が詰まる。

 周囲の景色が見えなくなって、目の前の秋月花乃しか認識できなくなる。


 歩いてきた大通り沿いの歩道も、交差点の信号機も、道路の反対側を歩く人も、道沿いにあるカフェのチェーン店も、路地裏の黒猫も。

 その全てが、今ばかりはその存在を消していた。

 ただ太陽だけはかろうじて地平に居残って、花乃の存在を黄昏色に彩って綺麗に照らし出している。まるで太陽さえも、花乃の為にあるかのようだ。


 花乃の存在が消えかかっているなんて嘘じゃないかと思える。

 だって花乃は、こんなにもハッキリとした輪郭を持って、俺にその魂の輝きを見せ付けているのだ。

 花乃以外の存在こそ、稀薄だ。


 そんな花乃と、恋人になる。

 あり得ない事態を目前にして、俺はその答えを言葉に出来ないでいる。

 それはあまりにも突拍子もなく、鋼鉄のハンマーで頭部を殴られたかのような衝撃を伴って襲いかかってきた。


 花乃は夕日を反射した目でじっと俺を見つめている。

 長い睫毛が強調され、緩く波打つ黒い髪も、今は茜色に見える。

 美しさと可愛さの混在する顔が、幻想性を伴って俺の視覚を支配する。


 花乃はお伽噺の妖精のような雰囲気でいて、あり得ない現実を俺に突き付けている。


 花乃への信仰を捨ててしまった今、花乃の問いに対する答えは考えるまでもなく決まっている。

 でも、それを口にすることが恐ろしい。

 花乃との関係が変わることが怖い。


 それでもきっと、いくら考えようと俺の答えは変わることがないことも分かっている。だって俺は、花乃のことが本当に大好きなのだから。


 後は、覚悟を決めるだけだ。


 大きく息を吸って、吐き出す。

 よし、大丈夫だ。



「花乃、俺は――」



 君と恋人になりたい。

 だがしかし、俺の想いが世界に飛び出すよりも先に。



「あははっ、ごめんごめん。冗談だよ。まだ私

達そこまでお互いのこと知らないもんね。それに、私がこんな状態じゃあ、そういうことも言ってられないし。とにかく私の問題をどうにかしなくっちゃね」



 花乃がそう言った



「あ……いや、うん、そっか……」



 俺の口は途端に勢いを失ってしまい、それ以外の言葉が出ない。

 というか、なんだろう、頭が上手く働かない。

 俺が喋れないでいると、花乃が不思議そうな顔をする。



「ねえ、大丈夫? なんかボーッとしてるけど……。そんなにびっくりした?」



 花乃の表情が不安げになる。俺のことを心配してくれているようだ。

 くそ、なんてことだ。俺の為に花乃にこんな顔をさせてしまうなんて。彼女には笑っててほしい。

 何か、何か言えよ、俺。


 あまり働かない頭で、とにかく何か喋ろうと口と声帯を無理やり動かす。大丈夫、意図しなくても、俺なら花乃が安心出来ることが言えるはずだ。



「あ、いや……大丈夫だよ、心配しないでくれ。確かにちょっと驚いたけど、俺が花乃と付き合えるなんて最初から思ってないし。はは、まったく、花乃は冗談がキツいなぁ。でも俺はそんな花乃も――」



「……っ!」



 花乃が、急に驚いた顔になった。

 まだ俺が話している途中だというのに、どうしたのだろうか。

 呑気にそんなことを考えていたが、今度は俺が驚く番だった。



「え?」



 気付いた時には、花乃の腕が俺の背中に回っていた。俺は花乃に、抱き締められている。

 何故?

 おかしいと思う。だが、もっとおかしいのは、俺の心が落ち着いていることだ。

 花乃に抱き締められて取り乱さないなんて、俺らしくない。俺は、どうしてしまったんだ。



「ごめん! ごめんね、春樹! 本当にごめん!」



 しきりに謝られる。でも、何を謝られているのか俺には分からない。

 俺は花乃に謝ってほしくなんてない。花乃に、そんな気持ちを抱かせたくない。

 本当に、どうなっているのだろう。この状況は、なんだ?



「私、そんなつもりじゃなかったの! ちょっと冗談で言っただけだったの! 春樹を傷つける気なんてなかった! こんなに私に良くしてくれる君を、傷つけたくなんてないよ! ホントに……ホントにごめん!」



 最後の方はもう、嗚咽が混じっていた。花乃が泣いている。顔が見えなくても分かる。だって、俺の胸の辺りが濡れていた。

 俺が花乃を泣かせた?

 そんな。

 そんなの、最低じゃないか。

 花乃を泣かせるなんて、それじゃあ、花乃を卒業に追い込んだストーカーと一緒じゃないか。

 あり得ない。

 俺は、俺が許せない。

 でも今はそんなことより、花乃を慰める方が先決だ。



「何言ってるんだよ花乃、俺は別に傷ついてなんてない。花乃の勘違いだよ。だから泣かないでくれ。謝らないでくれ。花乃が悪いことなんて1つもない」



「嘘……嘘だよ、お願いだから、私に気なんて使わないで……だって――」



 嘘じゃない。

 気なんて使ってない。

 俺は本心しか言ってない。

 だって、花乃が自分を責めるなんてあってはいけない。

 今花乃は、世界に弾かれつつある。そんな花乃が自分で自分を責めるなんて、そんなの俺が耐えられないんだ。

 俺は何も傷ついてなんてない。

 どうして花乃は、そんなことを言うんだ。



「だって春樹……泣いてるじゃん」



 は?

 俺が泣いている?

 何を言ってるんだ、花乃は


 そう思いながら、自分の頬を触る。

 手を離して見てみれば、確かに濡れていた指先を、春風がそっと優しく撫でていった。

 その行き先を目で追っていく。


 気付けば、夕日はいつの間にかその姿を眩ませていた。




 * * * 




 家に帰ってから、とりあえずお風呂を沸かして花乃を浴槽放り込んだ。というのはまあ、乱暴な表現だが、とにかくお風呂で温まってもらって落ち着いてもらうことにした。乳白色になる入浴剤も入れた。


 その間に俺は予定通りに買った食材でハンバーグを作る。一人暮らしも長いので、それなりに料理は出来る。

 後は簡単だが、レタスを千切ってトマトをくし形に切って、後はツナ缶を開いて絞って乗せただけのサラダを作った。


 その間に花乃はお風呂から上がって、新しく買った白地に小さな猫の柄が散りばめられたスタンダードな形のパジャマに袖を通して、ドライヤーで髪を乾かした。


 お互いの作業を終えて、ダイニングテーブルを挟んで向き合う。

 一瞬、変な気まずさが場を支配しかけたが、それを阻止すべく俺は口を開く。



「あーっと……落ち着いた?」



 俺が意識的に花乃の目をまっすぐ見ると、花乃はちゃんと視線を合わせて、ゆっくりと頷いてくれた。



「春樹は?」



「まあ、俺も大丈夫。というか、気持ち的には落ち着いてたはずなんだけどね……」



「ごめんね、泣かせちゃって」



「いや、それは俺の台詞……ん、まあ、お互い様ってことにしよう」



 会話がエンドレスループする未来を予知して、俺は先に折れて謝罪を受け入れることにした。

 本当なら、それは花乃の自責の念を認めてしまうことになるので気は進まないが、でもそれだって花乃の大切な感情なのだと気が付いた。

 俺が花乃の心の動きを抑制しようと思うことが、そもそもの間違いだったのだ。



「ふふ、そうだね」



 と、自分を無理矢理納得させたようなものだったけれど、こうして花乃が笑ってくれるのなら、きっとそれが一番正しいんだ。

 俺にとってこの世界は、花乃の笑顔を見るためにあるのだから。



「さ、重たい話はひとまず置いといて、食事にしよう」



「うん! ハンバーグ、美味しそう!」



 高校を卒業している年齢とはいえ、こういう時の花乃は童心に帰ったように幼く見える。普段落ち着いた雰囲気を持っている分、そのギャップも堪らなく魅力的だ。


 そんな花乃を眺めながら、俺も幸せな気分で自分で作った料理を食べる。いつもと同じ味付けのはずだが、いつもより美味しく感じるから不思議だった。


 そんなこんなで食事を終え、俺は使った食器を洗おうと思ったのだが。



「あ、いいよ、それは私がやるから。春樹はお風呂入っちゃいなよ」



 花乃が何となしに言う。



「え、いやいや、アイドルにそんなことさせられないって。洗ってから入るからいいよ」



「いいからやらせて。してもらってばっかりじゃ私が嫌なの。それに、アイドルの時だって家では普通にやってたし」



「うーん……でもなぁ」



「春樹、私のこと特別扱いしないって言ったよね?」



「う……」



 それを言われると非常に弱い。

 確かに言った。

 言った以上、それを曲げるわけにはいかない。俺は花乃に嫌われたくない。



「分かった……じゃあ、任せるよ?」



「うん、任された♪ 春樹がお風呂から上がったら、ピロートークと洒落込むとしよう?」



「ピロートーク!? 何そのお洒落ワード!」



「あ、そっちに食い付くんだ。私としては『洒落込む』の方にツッコミが欲しかったんだけど。ていうか別にお洒落じゃないと思うけど……ピロートーク知らないの?」



「ボケてもないのにツッコミ出来るわけないでしょ。いや、ピロートークは知ってるよ! でも現実に存在するとは思わなかった。ユニコーンとかフェニックスの類いだと思ってた」



「ピロートークが伝説扱い……君はどんな人生を送ってきたの?」



 花乃が苦笑する。それに俺は見蕩れていたいところではあったけど、他のことが気になってそれどころじゃない。

 “他のこと”とはそう、ピロートークだ!



「しかしピロートークとは、男女がベッドの上で愛を語り合ったり合わなかったりするあれだよな……? 花乃、もしかして、誘ってるの?」



「ごめんなさい、誘ってないです」



「そこだけ敬語になるのやめてくれない!?」



「ふふ、君はなかなかリアクションがいいよね。ほら、いいからお風呂に入りなよ、冷めちゃうよ?」



「あ、ああ……そうだな。じゃあとりあえず、入ってくるよ」



「うん」



 名残惜しさはありつつも、楽しい会話はそれまでにして、ひとまず俺は着替えとバスタオルを持って脱衣所に向かう。

 そそくさと服を脱いで、浴室に入る。


 そこで俺はようやく、重大な事実に気付く。

 浴槽を前に、固まる。


 なんということだ。



 俺はこれから、花乃の浸かったお湯にこの身体を沈めるらしい。



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