第17話 誰にでも過去はあって、きっとそのどこかに今に至る理由がある。

 誰に見られるわけでもないが澄ました顔で、俺は文字通りの“いいお湯”を堪能し、綺麗な身体で意気揚々と浴室を出た。花乃の入ったお湯を抜いてしまうのは勿体なかったが、俺が入ってしまった時点でその価値は暴落しているので迷わず栓を抜いて排水した。


 バスタオルで身体を拭いて、髪を乾かし、下着の上にパジャマを着る。いつも家ではだらだらと動く俺だが、今は仕事よりもテキパキと動いている。

 当然だ、花乃が待っているのだから。


 何か水分でも取ろうと思ってキッチンに行くと、花乃が居た。食器類はもう洗って片付けも終わっているようだったが、今は何やら手鍋を持ち出していた。



「お、早いね。今ホットミルク作ろうと思ってるんだけど、春樹も飲む?」



「ああ、折角だからいただこうかな」



 本当のところ俺は風呂上がりは冷たいものを飲みたい人間だが、しかし花乃が作ってくれるホットミルクを飲める機会なんてそうそうない。そう思って即答した。



「ん、了解。てゆうか、牛乳もらっちゃってごめんね。あと鍋も勝手に出しちゃった」



「ハンバーグ食べておいて今更何言ってるの? これから一緒に住むんでしょ? だったら気にすることじゃない。自分の家みたいに思ってくれた方が、俺も嬉しいよ」



「うん……そっか。それもそうだね、ありがとう。じゃあ、そうさせてもらおうかな」



 納得してくれたようで何よりだ。

 花乃は機嫌が良いのか、鼻歌を歌いながら手鍋に牛乳を注いでコンロの火に掛けた。

 俺はダイニングに座ってテーブルに頬杖をつきながら、キッチンに立つ花乃を眺める。


 新婚みたいで萌えるなぁ。

 パジャマでキッチンに立つとか、嫁だなぁ。

 と、あることないこと妄想しながら至福の時間を過ごしていると、いつの間にか完成したらしくホットミルクが目の前に置かれた。



「どうぞ」



「ありがと」



 花乃も自分のマグカップを持って向かい側に腰掛ける。

 そこでは特別会話もなく、2人でゆっくりとホットミルクを味わう。それは蜂蜜が溶かされているようで、ほんのりと甘かった。

 「ごちそうさま」を言って明日洗おうとマグカップを2つ流し台に並べて、2人して洗面所に向かった。

 狭い空間で一緒に歯を磨く。終わって花乃が先に寝

室へと向かってから、俺は洗面台に置いてあるプラスチックのコップに歯ブラシが2本並んでいるのを見る。

 途轍もない幸せを、綺麗になったばかりの歯で噛みしめて、俺も花乃の後を追った。


 寝室に行くと光源は枕横のサイドテーブル上にあるスタンドライトだけで、温かみのある光が薄く室内を照らす。その光を受けて、花乃が無防備にベッドの左半分に横たえていた。それを見て内心でドキッとしながら、俺も花乃の隣に身体を沈める。


 花乃の身体は俺の方を向いていた。なので仰向けの俺が首を花乃の方に向けると、自然に目が合う。

 昨日の夜も思っていたが、花乃と同じベッドで眠るなんて異常事態過ぎて、全然現実味がない。

 それでも花乃が声帯を震わせれば、その振動が空気を伝って俺の鼓膜に届く。



「ねえ」



「うん?」



「なんで泣いたのか、聞いてもいいかな」



 いきなり直球で話題を提供してくる。

 多少驚きはするが、俺は花乃のそんなストレートさが好きなので悪い気はしない。



「最初は、俺にも分からなかったんだ。自分がなんで泣いたのか。というか、泣いてることにも気付いてなかったからな」



「そんなこと、あるんだ」



「いや、俺も初めてだったけど」



「それで、『最初は』ってことは、今は分かったの?」



「うん。ていうか、今思えば最初から分かってたんだと思う。ただ自分で自分の気持ちを誤魔化して、気付かないフリをしてた。でも身体は嘘を付けなかったらしい」



 花乃は黙って俺を見つめている。

 話の続きを待っているようだ。

 俺が泣いた理由。それはもう単純すぎて、こんな風に改まって話すことでもない。

 そう思うけど、どうやら話さないと、花乃は寝かせてくれなそうだ。



「花乃、俺はさ――」



 これを言ってしまえば、何かが変わるのかもしれない。別に、何も変わらなくても良いのだけれど。このまま、花乃と一緒に過ごせるなら、あとは何だっていい。



「君と恋人になりたかったみたいなんだ」



「うん、そっか」



 思いの外、薄いリアクションだった。

 もしかしたら、花乃はある程度その答えを予想していたのかもしれない。



「君に『恋人になるか』と聞かれて、俺は『恋人になりたい』と答えようとしてた。だから花乃が冗談だって言ったとき、俺は多分失恋したんだ」



「別に、私はそういうつもりで言ったんじゃないよ?」



「そうだよな。分かってる。でも多分、俺の心は早合点したんだ。恋人になれるって思ってた矢先、鼻っ面にぶら下げられてたそれを取り上げられてしまったから、ひどく悲しくなってしまったんだ」



「ごめんね」



「だから、それはもういいって」



「ううん。私は無神経だったと思う。私を好きで居てくれる君に言っていい冗談じゃなかった。反省したよ」



 真剣な顔でまっすぐに俺を見つめる花乃が、やはり俺は愛しく思える。



「頭を撫でてもいいかな?」



 我慢できず、俺は聞いた。



「ふふ、急だね。仕方ない、許してあげよう」



「ありがとう」



 笑って許可してくれた花乃にお礼を言ってから、ゆっくりと右手を伸ばす。艶のある花乃の髪は真っ黒で、見るからに柔らかそうで、意識を引かれる。まるでブラックホールみたいな引力を持っている。


 髪に優しく触れて、ゆっくりと小さな頭を撫でると、花乃はくすぐったそうに目を細める。本当に猫のようで、少し可笑しくなる。

 花乃の髪の感触を楽しみながら、俺は話を続ける。



「でも今は、冗談で良かったって思ってるよ」



「どうして?」



「なんかやっぱり、安心した。正直に花乃との今の関係が変わってしまうのが怖い部分もあったんだ。だから、これで良かったのかもしれない」



「そっか……。今の私達の関係って、なんなんだろうんね」



「うーん、同居人かな?」



「なんか、しっくり来ないねぇ」



「じゃあ、運命共同体か」



「ふーむ、まあちょっと大袈裟だけど、それでいっか」



 いいんだ!?

 よっしゃあ!

 嬉しい!


 と、そんな俺の内心を知らない花乃は、更に追い打ちをかけてくる。



「あの、なんか私が君のことを振ったみたになっちゃったけど、そういうわけじゃないからね。私、君には結構心開いてるし、それなりに好意も持ってるよ」



 可愛い可愛い可愛い可愛可愛い可愛い可愛い可愛い!

 これはまずい、キュン死してしまう。



「だからまあ、先のことは分からないけど、しばらくはこういう関係を続けていきたいね」



「頭を撫でる、撫でられる関係ってこと?」



 俺は頭を撫でるのは好きなので、本望ではある。



「まあ、頭撫でるくらいなら別にいいよ。私も結構嫌いじゃないみたい」



 甘く、柔らかい、時間が。

 ふわっふわのパンケーキの中に居るみたいだ。

 だったらこのまま、美味しく食べてもらいたいものだ、もちろん花乃に。



「あの、聞きたいことがあるんだけど、いい?」



 急に少し真面目になって花乃が言うので、俺はなんとなく花乃の頭を撫で続けていた手を止めた。



「なんなりと」



 俺は花乃に対する拒絶の言葉を持ち合わせていないので、当然のようにそう答える。



「どうして、君は私をそんなに好きになってくれたのかなって思って」



「ああ、なるほどね」



 確かに、花乃の立場からすれば気になってもおかしくはない。だがしかし、それは俺からすれば思い出したくないことも思い出すことになる質問だった。

 それでも俺は、俺を救ってくれた少女のために、話そうと思う。

 俺が天使のような少女に、救われた話を。






 あれは5年前のことだ。

 俺はまだ二十歳はたちで、大学に行き始めて丸2年が過ぎようとしていた。


 と、そんな風に語りだしたところで、特別何かドラマじみた物語があるかといえば、決してそんなことはない。

 言ってしまえば、その頃の俺には何もなかった。


 地元の高校を卒業して、何となく何かが変わるような気がして東京の大学に進学した。田舎を出て、都心から少し外れた家賃の安いアパートの一室を借りて、学生生活を、新しい青春を謳歌するはずだった。

 だが実際のところ、特別な変化は特になく、中学も高校も無難に過ごしてきた俺は、例え場所を都内に移しても同じように無難に生きていくだけだった。


 学費は親が出してくれていたが、実家もそこまで裕福なわけではなかったので仕送りは遠慮した。生活費くらいは自分で稼ごうとファミレスでバイトをしていたので、大学ではサークルなどには所属しなかった。


 そうなるとあとはもう、大学とバイト先と自宅を回るだけの生活になった。

 高校ではそれなりに仲のいい奴も居たけれど、何となく都会は空気が違って、大学でもバイト先でもそこまで親しくなれる相手は居なかった。


 ぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐるぐる。


 同じような日々を過ごしていく。

 大学に通っているけれど、その先に何か目標があるわけでもなくて、正直もうどうでもよくなってきていた。

 地元に帰ろうかとも思ったけど、戻ったって結局同じようなことが続くだけだ。結局俺は、どこに行っても大して代わり映えもない日常を送るんだ。


 ならいっそ、死んでしまった方がいいのかもしれない。


 今思えばその頃の俺は本当にどうかしていたのだろう。簡単に“死”という選択肢を持ち出せてしまうほどに、どうかしていた。


 そして実際に、計画を立てた。

 今こうして生きているのだからその計画は失敗に終わったわけだが、その計画の何が失敗の原因だったかと言えば、それは最初の時点から失敗だったのだ。


 基本的にあまり外に出ない俺は、何がどこに売っているのかをよく把握していなかった。

 そのせいで死ぬための道具を揃えようとして、少し足を伸ばして決して家から近くない豊洲のショッピングモールまで出向いてしまった。わざわざ時間とお金を掛けてそこまで行ったのは完全に気分……だと思っていたが、今思えばやっぱり俺は死ぬことを怖がっていたんだと思う。きっと、時間稼ぎだった。


 たどり着いたショッピングモールの中をとりあえす回ってみたのだが、洋服を売っている店や飲食店などが多くて思うように欲しいものは手に入らなかった。大体、ショッピングモールの雰囲気を思えば、死のうと思っているような人が来る場所じゃない。

 空気が明るすぎて、家族連れや友達同士で来ている人やカップルが多すぎて、非常に居心地が悪かった。

 ここは現実をちゃんと生きている人達が来る場所だと、そう思った。


 ホームセンターに行くべきだったとようやく思い至って、ショッピングモールを後にしようと思ったその時だった。

 偶然通りがかった開けた空間で、まばらな拍手が起きていた。

 何事かと思ってその場所に集まっていた人達の視線の先を見る。

 最初に世界が時を止めたのは、その時だった。


 簡易に設営されたステージ上に、10人程の可愛い女の子達が居て、その中に一人だけ、天使が紛れ込んでいたのだ。


 俺はその時ばかりは現実に生きていることを疑った。もう死んでしまったのかと思った。

 月並みに言えば俺はその時、恋に落ちたのだった。


 彼女達の中の一人、グループのリーダーらしき少女の合図で、彼女達は口を揃えてグループ名を言う。



1000000/0ミリオンスラッシュゼロ



 その後されたグループ名の由来の説明で俺は初めてゼロディバイドという言葉を知った。

 それはコンピューターとかプログラミングに関わる言葉で、それを知るまで俺はなんか、中二病的な技名か何かかと思ったのをよく覚えている。

 俺はその後今勤めているIT関連の企業に入社してその言葉に馴染みも出来たので、特別感慨のあるものでもなくなったが、単純にミリスラを連想するようにはなった。


 ゼロディバイドという言葉を真面目に説明すると複雑でマニアックなことを言わなきゃいけないので割愛するが、要するにプログラムに異常事態を引き起こす原因になるというものだ。これだけ聞くとマイナスのイメージだが、まあ確かにインパクトはあるかもしれない。


 ミリオンは英語で100万という意味で、そこから『大勢の人』を指しているらしい。

 要するには、『多くの人を虜にして予測の出来ない世界に連れていきます』みたいなコンセプトだった。



 と、そんなことを簡潔にリーダーらしき少女が語ってから、一人一人自己紹介をする流れになった。

 ところで俺はといえば、そこまでの間じっと天使のような少女をずっと見つめていた。というか目を離せなかった。


 幼い顔つきではあるものの長い黒髪は流麗で、佇まいはどこか凛としていた。そして何よりもその猫のような目の奥にある何かが、俺を惹き付けて離さなかった。

 さすがに凝視し過ぎたようで、その天使のような少女が俺の視線に気付いてこちらを見る。すると当然視線がぶつかった。

 俺の心臓はここぞとばかりに生を実感しようと激しく脈打っていたが、それでも俺は動けない。

 そのせいで少女は、恐らく勘違いでなければ俺に向けて、ニコリと笑いかけたのだ。


 その可愛さのあまりか、衝撃を受けた俺の意識は飛んだ。気付けば自己紹介がその少女の番になっていた。


 まず、その少女が言った13歳という年齢に驚いた。中学2年生という肩書きに恐ろしくなった。人間は13年生きただけでこれだけの存在感を出せるのかと、感動すらした。

 そして俺が狼狽えている間に。



 そんな彼女は名前を、秋月花乃と言った。



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