第15話 その時夕日が照らし出したのは、一体なんだったのだろう。
自身の秋月花乃に対する好意を、俺は“あらゆる意味の好き”と自己分析していた。
それは妹に寄せるような親愛だったり、友達に対する友愛だったり、片想いの相手である女子に煩う恋心だったり。溺愛する愛猫や、一番好きな食べ物や、お気に入りの場所、好きな季節等々、この世界に生きている以上、数えきれない“好き”と向き合っていくことになる。
それは同時に数えきれない“嫌い”とも向き合うということにもなるのだが、まあ今重要ではないのでその話は置いておく。
アイドルに対する“好き”を考えたとき、それは人によって異なるのだと思った。
人によっては兄妹のように接したり、友達のように振る舞ったり、あるいは恋人にするように愛情を注いだりする。
そしてそれは、どれも間違いではない。
これは持論でしかないけれども、アイドルはファンにとって、どんなポジションにも置ける存在だ。
今や無数に居る彼女たちアイドルは、当然個性もバラバラで、それ故にアイドルの世界は厳しい。
元気な親しみやすい子が居たり、落ち着いたお姉さんみたいな子が居たり、口下手な恥ずかしがり屋が居たりする。そうやって個性がぶつかり合う中で、ファンは自分が関わりたいと思うアイドルを応援する。つまり関係を選ぶことが出来る。
悪い言い方をすれば、アイドルはファンが欲しい関係の代替だ。
日常生活で得られない関係性を、ファンはアイドルに求めている。
それでも決して、彼女達は偽物ではない。
偶像ではない。
彼女達の努力は嘘偽りのない本物だ。
実際のところ世間に名が知れるほどになるアイドルは一握りだろう。
きらびやかにステージで輝き笑顔を振り撒く彼女達は、その実過酷な世界で戦い続けている。
血の滲むような努力をしてステージに立ち、パフォーマンスをすべて上手くこなしたとして、それで人気が出るような甘い世界ではない。
単純にルックスのレベルが高ければ注目を浴びやすいが、ただそれでも人気が出ない人だって居る。
ファン達がアイドルの何を評価しているのかと言えば、それはいたって単純だ。
大まかに言えば、“全て”を評価されている。
もう少し砕いてみれば、“存在の質”と言えるのかもしれない。
ファン達は自分にとって特別なアイドルを“推しメン”と呼ぶ。そして自分の推しメンを悪く言うファンは、恐らく居ないだろう。
それは決して推しメンを傷つけたくないという理由ではない。
推しメンの全てが好きだから、悪口など浮かびようもないだけだ。
だから俺も、花乃の全てが好きだ。
顔も、身長も、髪の色や長さも、猫みたいな目も、高く小さい鼻も、小さな口も、そこから出てくる少し幼い感じのする声も、悪戯な笑みも、クールそうに見えて意外と笑うところも、悩みを抱えてしまうところも、誰よりもストイックに、アイドルに取り組んでいたところも。
嫌いなところなんて、一生考えてもきっと出てこない。
そんな俺が、花乃に対してどんな類いの好意を向けているのか、それについては実は、俺自身も最初は判然としなかった。
だから結構な時間頭の中で思考をこねくり回して得た結論が、“あらゆる意味の好き”だったわけだ。
いきなり言われても意味の分からない言葉だと思う。
しかし最終的に言えば、その一見謎の定義すらも、俺の感情は超越したようで、『好き』というよりは『尊い』になり、『尊い』というよりも『崇拝』になった。
だから俺が花乃のことをどう捉えていたかというのは、もう概ね垂れ流してきたので今更言うことでもないかもしれないが、俺は花乃を女の子というよりは、女神だと思っていた。
花乃は俺にとって、絶対的な正義だった。
『可愛いは正義』という言葉があるが、あの『可愛い』とは花乃のことだと信じて疑ったことがない。
花乃の言うことなら何でも信じるし、花乃が望むなら何でもする。
正直、アイドルに対する感情としては行きすぎていると、自分でも思う。ただきっと、そういう人は俺だけではないはずだし、他がどう思うかは知らないが当人としてはこれは非常に幸せなことなのだ。
一生の内に、そこまで想える相手に出会える確率が、一体どれほどあるというのか。
奇跡なのかもしれないし、運命なのかもしれない。
そんなのはどちらでもいい。とにかく俺は、秋月花乃に出会えたのだ。
だが今、そうやって思い出と感情を積み重ねて築き上げた信仰心を、俺はいとも簡単に捨てた。まあ本当に捨てきれたのかは置いておくとして、意識的には頭の中のゴミ箱にポイした。
何故かと言えば、それも花乃が望んだからだ。
特別な想いを寄せる花乃の為に、俺は花乃への特別な想いを自分の中から消去した。
その結果、あろうことか俺は花乃に恋心を抱いてしまった。
女神認定を外した途端、手の届かないところに居たはずの彼女を、自分のものにしたいなどと大それた感情を、持ってしまったのだった。
「おーい、春樹?」
大切な人の声が、俺の意識を現実に呼び戻した。
「えっと、なに?」
「いやなんか、ボーッとしてたから。また私のこと考えてたの?」
「ああ、まあ、うん」
「ふふ、君は本当に私のことが好きだね」
そう言って笑う花乃の顔が、西日に照らされている。
時刻は午後6時を回った頃で、あの後急いでペンギンとお土産売り場を見て回った俺達は、無事永濱に遭遇することなく水族館を後にし、電車で一駅戻って駅の近くで買い物をした。
それは突発的な思い付きだったが、今後花乃が俺の家で暮らすのであれば、服とか日用品とかが必要になるだろうから、なら早い方がいいだろうと俺が提案した。
買い物となれば当然俺のお金を使うことになるのでやはり花乃は遠慮したが、「じゃあ、もう服貸さないけどいいの?」と脅迫したら可愛く頬を膨らませながら渋々俺に付いてきた。信仰を捨てたからこそ為せる技だ。
そうやって買い物を済ませて、今はまた一駅分歩いて家に帰る途中だった。電車を使っても良かったが、花乃と一緒なら歩くのも悪くない。
何せ電車に乗っているとさすがに人目があるので、花乃と話すのは難しいのだ。こうやって歩いていれば、人気がない道なら楽しくお喋りも出来るというものだ。
買い物をした結果そこそこの荷物量になったので、買い物袋を俺が持って、花乃は朝しか使わなかった傘を持ってくれた。
そんな普通のことを、幸せに感じてしまう。
本当はそんな風に感じている場合じゃないのだが、どうにも感情は止められない。
「ねえ、ところでさぁ」
花乃が改まった口調で言う。
「ん、なに?」
「さっきの、水族館でのことなんだけど」
「うん」
「春樹、私に抱きついてあの後輩の人から隠れてたけどさ」
「うん」
「あの時びっくりしてたから忘れてたけど、私って見えないはずだから、そう考えると春樹って丸見えだったよね」
「え」
あ、そうか。
俺も混乱してたからか、全然気付かなかった。
花乃って、俺にしか見えないんじゃん。
え、でもだとしたら、永濱には俺が見えてたっていうことか?
だとしたら、なんで声を掛けなかったんだろう。
いや待て。永濱の立場からすれば、約束をすっぽかした男が1人で水族館に居たら、それは訳が分からないだろうし、なんて声を掛けたらいいかも判断がつかないだろう。
きっと、戸惑ってひとまず離れたのか、それとも怒って立ち去ったのかのどちらかだ。
「うわー、マジか……やらかしたなぁ」
「あの人が、朝電話してた人?」
「ああ、うん、そうだよ。会社の2年下の後輩なんだ」
「ふーん。好きなの?」
「はい!?」
澄ました顔で何をおかしなことを言ってるんだろうか、この可愛い少女は。
「いやなんか、『やらかした』って言ってたから、嫌われたくないのかなぁって思って」
「そりゃまあ、嫌われたくはないよ。あれでも俺にとっては数少ない親しい後輩だからな」
「ああ、ぼっちなんだっけ」
「ぼっち言うな」
「自分で言ってたくせに」
「自分で言うのと人に言われるのでは、意味合いが違うんだ」
「まあ、その理屈は分からなくもないけど」
「永濱のことは、別に好きとかそういうんじゃない。ただ、後輩として放っておけないやつではあるけど」
「ふーん」
聞いてきておいて、興味の無さそうなリアクショだった。ただ、そんな気まぐれなところも猫っぽくて可愛いと思ってしまう。『恋は盲目』とはよく言ったものだ。
「ていうか俺は花乃のことが好きだから、他の女の子を好きになったりしないよ」
「でもさ、ファンの人の中には違う人を推しててもよく私のところに握手しに来る人が居たよ?」
「まあ確かにそういう人も居るけど。俺も【
「本当に、私のこと好きなんだ?」
なんで、そんなことを聞くのだろうか。
その答えなんて、花乃はもうとっくに分かっているはずだ。それとも、まだ俺の気持ちを疑っているのだろうか?
そうだとしたら、少し悲しい。
俺の顔を覗き込んでくるその小さな顔には、特別何か表情が浮かんでいるわけではなかった。でも、上目遣いのその瞳の中の光が揺らいでいて、いつもとはどこか雰囲気が違う。
ただ、花乃がどんな気持ちでその問いをしていようが、俺の答えが変わることはない。
なんの迷いも恥じらいもなく、俺はただシンプルに、自分の本心を口に出す。
「本当に、花乃のことが好きだよ」
何故か花乃が足を止めたので、俺も自然に同じようにする。ビルの狭間に浮かぶ夕日も、もうそろそろ西の地平にその姿を消す頃合いだ。
お腹も空いてきた。帰って夕飯を作らなくては。今日はハンバーグにするつもりだが、花乃は喜んでくれるだろうか。
そんなことを考えていた。
「じゃあ……私と恋人になってみる?」
その時、秋月花乃はそう言った。
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