第14話 感情はいつだって、自分の思い通りになることはない。理性なんて役に立たない。

 海の生物達を神秘的に感じるのは俺だけだろうか。

 その答えは恐らくノーだと思う。


 神秘的に感じる人も居るし、感じない人も居るだろう。この世界で俺1人ということはまずないはずだ。


 こうやって、人間とは違うシステムの中で生き続ける生物達の姿を見ていると、陸の上と水の中では、きっともう世界が違うのだろうなと思えてくる。


 人間に生きられない環境だから、その生物達は不思議で異質で、興味深い。その世界をこうして陸上に凝縮して再現してみせているのだから、人間も業が深い。

 そんなことを考えて居る内に、



「わー! すごい、綺麗……」



 壁一面の巨大な水槽が目の前に現れて、その膨大な質量の世界観が見る者の心に突き刺さる。

 神秘的だ、と思う。


 無数の小さな魚達の集団行動が見せる煌めきも、雄大なマンボウの推進も、珊瑚の色鮮やかさも。

 そしてそれを一心に眺める、花乃の横顔も。


 どちらかと言えば、花乃は向こうの世界の住人という気がする。決して手の届かない場所に居て、こうしてたまに眺めることが出来て、そして心を動かされる。

 アイドルは、水中の世界に似ているのかもしれない。


 それなのに、こうして俺の手に花乃の手が握られている状況は、冷静に考えればやはり異常だ。

 そもそも花乃の置かれている状況が異常なのだから、当然ではあるが。


 俺は何故だか少しだけ、切なさを感じた。

 それが何処から来たものなのか、何が原因で生じたものなのか、何も分からない。


 楽しそうにはしゃぐ花乃に手を引かれて、巨大水槽に至近距離まで近づく内に、その“切なさ”はどこかに霧散して消えた。

 不意に花乃は、巨大水槽に背を寄り掛からせて、俺の目を見た。



「ねえ、一個お願いしてもいいかな?」



「いくらでも、どうぞ」



 考えるまでもない。

 花乃のお願いだったら、俺に出来る限りのことは聞いてあげたい。



「あのさ、ここで壁ドン、してみてくれないかな」



「はい?」



 一瞬で俺の頭は混乱する。

 は、俺が花乃に壁ドン?

 それどういう状況よ。

 釣り合わない、畏れ多い、身の程知らず。

 あ……信仰は捨てたんだったっけ。



「前に読んだ少女漫画でこういうシチュエーションがあってね。本当にドキドキするのかなって思って」



 ドキドキするよ!

 と叫びたかった。だって俺の心臓はとっくにバクバクだ。



「お、俺で良いの?」



「良いも何も、君しか居ないでしょ」



 そりゃそうだ。

 正直、俺の心臓が持つかどうかは分からないが、しかし花乃のお願いを無下むげには出来ない。

 花乃が望むなら、俺は全力を尽くすだけだ。

 俺は最速で覚悟を決めて、花乃の目を見る。



「じゃ、じゃあ……やるよ?」



「うん」



 返事と一緒に、花乃は握っていた俺の手を離した。

 手の熱が急に冷め、解放感が寂しい。


 まあ、これも他から見ればおかしな光景だろうが、しかしわりと隅の方でもあるし、みんな水槽の中に夢中なので別に注目を浴びることはないだろう。

 浴びたところで、それを気にする心の余裕は、俺にはないし。


 壁ドンなど俺はやったことがないし、その言葉が流行ったのも少し前という気もするが、それでも俺はやらなければいけない。花乃が壁……いや、水槽際で待っている。だから俺は今から、水槽ドンをする。


 目を閉じて、深呼吸を一回。

 目を開いて、花乃の顔の右斜め上を目掛けて、掌を突き出す。


 掌が水槽に触れ、ひんやりとする。

 だがそんなことはどうでもよくて、花乃の髪に顔が近付いたことで良い香りがした。やっぱり、ドキドキする。

 花乃は、どう感じているのだろうか。



「うーん、思った感じじゃあないかな。相手が君だからかな?」



 さらっと酷いことを言う。

 でも多分悪気はないはずなので、俺は花乃を心の中で許す。

 我ながら甘い、と苦笑する。

 そんな俺を尻目に花乃が口を開く。



「あ、ねえねえ、せっかくだし写真撮ろっか」



「え、いいの!?」



 落としてから上げるなんてすごい! さすがのテクニックですね花乃さん!

 と心の中で称賛しながら、俺は分かりやすく相好を崩す。



「ふふ、こういうところ来たらよくメンバーと撮ってたからね。思い出を形に残しておくのは良いことだよ」



 花乃とツーショットが撮れるなんて!

 めちゃめちゃ嬉しい!

 生きてて良かった!



「じゃあ、君のスマートフォンある?」



「ああ、待って、今カメラ起動するから」



 ズボンのポケットからスマートフォンを取り出して、慌ててカメラを起動する。とはいえ、俺は自撮りなんて滅多にすることがないからここから先の手順がよく分からない。



「ほら、カメラをインカメにして。うん、そう。じゃあ水槽をバックにして撮ろっか。ほら、横に並んで」



 花乃に言われるがままに俺は水槽を背にして花乃の右横に並ぶ。花乃に肩を手で押して下げられ、顔の高さが同じ位になる。

 や、やばいやばいやばいやばい!

 顔が近い顔が近い顔が近い顔が近い!


 花乃の体温を感じそうな程だ。

 なんか、特別扱いしないって言った途端すごいファンサービスしてもらってるような気が……。いや、だからこれをファンサービスと捉えることが間違ってるのか。あくまでも普通に、一緒に写真を撮ってるだけだ。……難しいなぁ。


 緊張で震える手でスマートフォンを構え、内側のカメラを2人が写るように向ける。画面を見て微調整しようと、思ったのだが。



「あ」



 花乃が声を出した。

 内心で俺も、同じ声を出した。


 スマートフォンの画面の中には、俺一人が寂しく写っていた。花乃の姿は、どこにも見当たらない。



「そっか、私って写真に写らないんだね。……それはそうだよね」



 花乃の声のトーンが落ちる。

 こんな時に情けないことに、俺には声を掛ける言葉が見当たらない。

 カメラが花乃を認識しないなんて、考えもしなかった。完全に俺の落ち度だ。

 少し思考を巡らせれば、思い至ってもおかしくないというのに。

 また、花乃を傷つけてしまった。

 俺は本当に、どうしようもない馬鹿野郎だ。

 花乃と手を繋いで浮かれていたんだ。本当に救えない。

 花乃に救われるばかりで、俺は花乃を救ってあげれない。


 花乃と俺の間を、沈黙が支配し始めたその時。



「おー! 巨大水槽すごーい!」



 と、近くで大声がした。

 全く緊張感のないその声は、とても可愛らしく、何故か聞き覚えがあった。


 俺はおそるおそる、声のした方を振り向――こうとしてやめた!

 慌てて花乃は水槽から引き剥がして抱き締めると、そのなにやら聞き覚えのある可愛らしい声の持ち主の方に背を向ける。



「むぎゅっ!?」



 花乃が可愛い悲鳴を上げるが構っていられない。


 俺から見ると花乃の向こう側、横目にちらりと映り込んだ姿は、会社の後輩である永濱遠子だった。一瞬過ぎて服装などは良くわからなかったが、あの声にあの顔は永濱でしかない。

 なんで永濱がここに!?


 まずいまずいまずい!

 永濱との約束をすっぽかしてるのに違う女の子と水族館に来ているなんて知られたら何をどう責められても言い逃れ出来ない!



「ちょっ、春樹苦しい……」



「ごめんちょっと黙っててくれ……」



 本当なら、永濱が巨大水槽に注目している間に自然にこの場を去れば良かったのかもしれない。しかしタイミングを逃した。

 俺は咄嗟に花乃を抱き締めてしまったので、もう下手に動くより永濱が去るまでこのままやり過ごすのが安全策だ。

 少し身体を傾ける。これで永濱が動き回っても俺の顔は花乃の頭に隠れて見えないはずだ。



「ねえ……どうしたの?」



 耳元で花乃の声が聞こえる。状況が状況じゃなければ俺の心拍はまた速度を急上昇しただろうが、今は違う意味で速くなっているので特に変化はない。



「まずい、会社の後輩が居るんだ。しばらくこのまま我慢してくれ」



 肩で、花乃が頷いてくれたのを感じる。

 そのまま、耳を澄まして状況を探りながら時を待つ。

 永濱は神秘的な水の世界にいたく感動しているようで、何やら1人ではしゃいでいる。

 元気だなぁ……まあ、永濱らしいけど。

 そう思っている内に気持ちが落ち着いてきて、花乃の存在を強烈に感じるようになる。身体の輪郭と柔らかさと、甘やかな匂いと、体温を感じる余裕が出来てきて、その非現実さに自分の身体が震えそうになるのを必死で堪える。


 冷静になって、手にスマートフォンを持ったままだということを思い出して、試しに花乃の身体に回っている右腕を持ち上げてみる。まだインカメが起動していたので、ゆっくりと永濱が居る方へと向けてみると、画面には永濱の姿が映った。

 どうやら永濱は、水槽に貼り付いているようだ。


 もしかしたら永濱は、最初から俺とこの水族館に来るつもりだったのだろうか。俺が断ってしまったから1人で来たのであれば、すごい偶然だ。

 もしかしたらこれこそが、永濱との約束を破って花乃と出掛けた俺への天罰なのかもしれない。


 そんなことを考えている内に、ようやく満足した様子の永濱が身体を翻し、去っていく――その時、こちらを見た。ギクリとしてスマートフォンを下げる。

 声を掛けられるんじゃないかとドキドキしながら、動かずに息を潜めていると。



「春樹、そこに居た女の人だったら、あっちに行ったよ?」



「ほ、ホントか?」



「うん。私達が来た方に行ったから、逆に回ってるのかな」



「そうか、良かった……」



 安堵して息を吐く。

 とりあえず俺がここに居たことはバレなかったようだ。

 とはいえ、戻ってくる可能性もないではない。となると、ここに留まるのは危険だ。とりあえず、移動しよう。

 そこまで考えたとき、ようやく俺は自分がしていることの恐ろしさを自覚して、花乃から慌てて身体を離した。



「花乃ごめん! さっき触らないって言ったばかりなのに! 悪気はなかったんだ、つい咄嗟に!」



「い、いいよ別に、そんなに謝らなくても……。わざとじゃないことくらい、分かるよ。それに……」



「それに?」



 いつになく優しい花乃が、いつになく口ごもる。

 基本的に物事をハッキリという花乃にしては珍しい。

 俺が待っていると、花乃はやがて上目遣いで俺を見る。そして息を小さく吸って、言葉を吐き出す。



「今のは、ちょっとだけドキドキした、かも」



 分かっている。

 今はぼーっとしている場合ではない。

 だがしかし、身体が言うことを聞かない。

 脳がしっかりと働かない。

 花乃に対する純粋な気持ちだけが、心を支配していて、それ以外の思考と感情が浮かばない。


 もしかしたら、信仰を捨ててしまったのは間違いだったのかもしれない。

 俺はいつだって、考えが甘いのだ。こうなることは、予想出来たはずなのに。


 花乃を崇拝する気持ちを捨ててしまった俺の中に残っていた、特別大きな想い。



 恋心が、止まらない。



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