第11話 揺れ動くそれは何かに似ていて、悲しくなる。
雨上がりの道は、空から降る光を反射して煌めいている。
さっきまでの雨の余韻を残しているじっとりとした空気はあまり快適とは言えないが、それでも雨に濡れるよりはマシだ。
だが少し、いやかなり残念だったのは、もう花乃と相合い傘が出来ないということだった。
そんな理由で肩を落としながら、それでも花乃には悟られないようになるべく明るい口調で話しながら駅に向かい、電車に乗る。
お姫様は水族館をご所望なので、ここから一駅隣の駅近くにある水族館に行くことになった。カフェまで一駅分歩いているので俺の家からだと二駅離れることになる。
土曜ということもあって電車内にはそれなりに人が居たが、しかしやはり花乃に気付く者は1人も居なかった。
都内は駅の間隔が狭いのであっという間に隣の駅に到着。そこから少し歩くと、そこはもう目的の水族館だった。
「おー! 水族館だ! 久しぶり!」
入り口に差し掛かると、花乃がテンションの高そうな声を上げた。芸能界に居ただけあって普段は大人びた雰囲気の花乃だが今は年相応、もしくはもう少し幼く見える。そんな花乃を横目で見て微笑ましく思いながら、俺は入り口横の受付に向かう。
俺の分だけ入場券を買って花乃の元に戻ると、花乃は何故かちょっと気まずそうな顔をしていた。
「あの、ごめんね? お金使わせちゃって」
「え? いや自分の分だけだし、それくらいは別に」
「でも、私が来たいって言わなかったらここに来てないでしょ? だから……」
ああ、もう、この子は本当に。
そういうところが愛しくなる。
「あのさぁ花乃。もう何度も言ってるけど、俺は君のファンだよ? そんな俺が君と水族館に来れてるって考えたら、2000円なんて安すぎるよ」
「入場券2000円もするんだ!?」
まあ、確かに一人でもし来るなら高いと思うし、そもそも来ないだろうけど。だが花乃と一緒なら俺は10万円は余裕で出せる。
当然だ、大体俺は花乃に会うために働いてお金を稼いでいたのだから。
花乃が卒業してからの1年でどれだけお金が貯まったことか。
「大体、もしお金の話をするんだとしたら、俺はこれまで君にどれだけ使ってるか分からない。握手券は1枚1000円するんだよ? まあ全然安いと思ってたけど」
そう、好きな子に1000円で会えるなんて安すぎる。だというのに、その倍額で一緒に水族館に行けるなんて、これはもう天罰が下ってもおかしくはない。気を引き締めよう。
「それは、確かにだね……。うん、お金の話はやめよう。本当に今までありがとう」
「お別れみたいな雰囲気出すのやめてくれ。これからもよろしく」
「あはは、そっか。うん、よろしくね」
こんな普通の言葉を交わせることが。とんでもなく幸せだ。例え水族館に来れなかったとしても、俺は花乃の傍に居れるだけで幸せなんだと実感する。
「よし、じゃあ行くか」
やはり休日ということもあり、ある程度人が居るがその方がありがたい。俺の独り言に聞こえてしまう花乃との会話も、喧騒に紛れるだろう。それに、もしかしたら俺のように花乃のことを認識出来る人がいるかもしれない。
そんな希望を持ちつつ、俺は花乃と一緒に水族館へと足を踏み入れた。
* * *
「わー、すごい! ほらトンネルだよ春樹、水のトンネル! すごいね、魚綺麗だなー」
右から上から左まで、180度が大きな水槽になっている通路。キラキラ光る魚の群れや、俺には名前の分からない大きな魚が悠々と泳いでいる。異世界にでも迷い込んだようだ、と思ったが、よく考えれば俺にとっては花乃と一緒に居れるこの現実が異世界のようなものだった。
天井の先に泳ぐ魚達を見てはしゃぐ花乃を見て、俺も笑う。正直俺は、魚よりも花乃を見ていたい。そう言ったら、花乃は照れるのだろうか、それとも怒るのだろうか。そんな想像も楽しかった。
「ね、次行こ! 次は何かな?」
「えっと、次は……」
ポケットに入れていた、入り口で渡されたパンフレットを取り出して開いてみる。少し離れていた場所に居た花乃も近寄ってきて、一緒に覗き込む。周囲から青い光を浴びたそれは見づらさはあったが、どうにか今居る位置を知ることができた。
「お、次は花乃の好きなやつだな」
「え、ホント? ん、ていうか、なんで君が私の好きなのを知ってるの?」
「や、だから普通に知ってるって。皆知ってるよ、常識だよ」
「芸能界は怖いなぁ」
「それは今更だなぁ」
「ふふ、そうだね。今更過ぎるか。よーし、じゃあ行こっか」
「ああ」
意気揚々と弾む足取りで、花乃は通路の先に向かう。
でも俺は何故か少しだけ、違和感を感じてしまった。でも、その正体が何なのかハッキリと分からないまま、花乃の後ろを付いて歩く。
水のトンネルを抜けると、そこは開けた空間になっていて、部屋の中央に大きな円筒形の水槽があって、それを囲むように等間隔で小さな円筒形の水槽が並んでいた。左右両方の壁も水槽になっていて、そのすべてにふよふよとまるっこい何かが浮遊していた。
水槽ごとに色味の違う光が上部から落とされていて、その何かを幻想的に照らしている。
まあ、その“何か”の正体は、先に答え合わせをしているから知っているのだが。
それは、花乃の好きな。
「わー、クラゲがいっぱい居る!」
そうクラゲだった。
漢字で書くと海月、あるいは水母らしい。
海の月か水の母か、どちらにしても壮大な名前だ。
英語だとジェリーフィッシュで、急に親近感が湧く。
これはもう1年以上前の話になるが、俺はクラゲについてネットで調べたことがある。
もちろん理由は、花乃がクラゲを好きという情報を得たからだ。
しかし調べた結果その生態は複雑な文字が羅列されており、印象に残ったのは肛門がないということくらいだ。
まあ花乃だって、そのフォルムが好きなのであって、クラゲについて特別詳しいわけではないだろう。そう思って知識を増やすことは諦めた。
花乃はまず、中央の大きな円筒形の水槽に駆け寄っていった。俺はそのあとをゆっくりと歩いて追いかける。
「クラゲの何が好きなの?」
まるで子供のように水槽に張り付いている花乃に、俺は素朴な疑問をぶつけた。
「え? だって可愛くない? 綺麗だし」
「まあ、分からなくはないかなぁ」
まるっこいのは愛嬌があるとも思えるし、光をその半透明な身体に透過させているのは神秘的だ。
だが俺は、こうしてクラゲをじっくりと眺めている間に何故か、“可愛い”や“綺麗”というよりもどこか落ち着かない感じを覚えてしまった。
ふわふわと水に漂うクラゲの姿に、きっと俺は自分を重ねてしまった。自分の中の花乃に対する感情を重ねてしまったのだろう。
花乃をアイドルとして崇拝する気持ちと、一人の女の子として愛しいと思う気持ちが、俺の中をこんな風に漂っている。それを可視化されたようで、きっと落ち着かないんだ。
花乃はまだ、クラゲを楽しく眺めている。
俺はクラゲから視線を外してそれを眺める。
その内に、さっき感じた違和感に気付いた。
きっと花乃は、無理をしている。
なんだろう、それは決して確信ではない。直感のようなものだ。
花乃の笑顔はそれは可愛らしいけれど、でも昔握手会で見た笑顔の方が、屈託がなかった。
そしてそれが当たり前だということに、俺は今更に気付いた。
花乃は、自分だけが世界から弾かれているんだ。
心から楽しいと、思えるはずがない。
それにさっきは、親しかった胡桃音ちゃんにも忘れられているということを、実感してしまった。
いや違う、俺がさせてしまったんだ。
花乃は俺にお礼を言ったが、本当のところ俺は何もしてあげられてない。むしろ花乃を傷つけただけだ。
あの場で花乃のことを無理に追求する必要はなかった。後日出直して、花乃が居ないところで聞けばいい話だった。
それでも花乃は、俺の為に、俺の気持ちを汲んで、俺にお礼を言ったんだ。
アイドルの鑑かよ。
だがそんな花乃はもうアイドルじゃない。その上、存在が消えかけている。
俺は、花乃の為にどうすれば良いのかを、ちゃんと考えられていなかった。
ただ単純に“花乃のこと”を考えていただけだった。
恥ずかしい。俺の方が7歳も年上だというのに、気を使っているつもりが、気を使わせていたんだな。
もっとちゃんと、花乃に向き合おう。
俺の感情をなんて、崇拝なんて殺して。
花乃の為に出来ることをちゃんと考えよう。
クラゲはもう、終わりにしよう。
そんなことを考えている内に、一番奥の壁の水槽に辿り着いていた。
クラゲを楽しそうに見ていた花乃が不意に、後ろを付いていくだけだった俺を振り返って言う。
「春樹、楽しいね」
「ああ、そうだな」
そう返しながら俺は、花乃に歩み寄る。
そしてあまり深く考えずに、花乃の頭にぽんと掌を置いた。
1年前の俺だったら絶対しないだろうな、と思いながら、俺は柔らかな髪をくしゃっと撫でた。
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