第10話 よく考えてみれば、“存在”なんていうものは元々あやふやなものだ。きっとそうだ。

 雪島胡桃音ゆきしまことねさんという店員さんは、花乃と顔馴染みらしい。花乃と同い年で気も合うので、アイドルとして活動していた頃はよくこのカフェ、『echosエコーズ』に来ていろいろと話しをしていたという。



「あの子、天然で可愛いから君は気を付けた方がいいよ」



 一口大に切ったパンケーキを口に運びながら花乃が言った。



「気を付けろって何に?」



「好きになっちゃうよってこと。あの子すごい良い子なんだけど、優しすぎて男の人を勘違いさせる特性があるからね」



 言い終わったタイミングでパンケーキを口に含む。



「はあ、なるほど。でも大丈夫だろ。俺に花乃以上に好きになれる女の子なんて居ないよ」



 当然のことを言うと、何故か花乃のモグモグしていた口が止まった。

 と思ったら、また少しして動きだし、嚥下したようだった。



「君はまた……ねえそれ、どういう意味で言ってるの?」



「どういう意味で? だから俺はあらゆる意味で君が好きだよ」



「ふわー……」



 花乃は俯きがちに背中を丸める。

 俺にはそのリアクションの意味がよく分からない。

 と、不思議に思っていると。



「高園さーん」



 と後ろから声が聞こえ、振り向くと雪島さんが手を後ろに組んで立っていた。



「ああ、雪島さん。どうしたの?」



「わ、名前覚えてくれたんですね! 嬉しいです!」



「さっきの今で忘れないよ」



「あはは、それもそうですね。っと、じゃなくて、ちょっと失礼しますねー」



 そう言って、雪島さんは俺の頭に右手を伸ばす。目に少し掛かる前髪を押しのけて、俺の額を露にした。

 いきなりのことに、俺は戸惑うことしかできない。



「あーやっぱし、ちょぴっとですけど傷出来てますね。絆創膏貼りますね」



 そう言って一度手をはなすと左手に持っていた絆創膏を開いて、再び今度は両手で器用に前髪をどかして、



「えいっ」



 と似つかわしくない掛け声でペタリと絆創膏を貼った。

 集中するあまりか思いの外顔が近くて少しドキッとしてしまったのは内緒だ。



「ふふ、これで大丈夫ですね! まあ、応急処置ですが!」



「あ、いや、ありがとう雪島さん」



「いえいえ、これもお仕事です。ですが、お礼はいらないので胡桃音ちゃんと呼んでもえらえますか?」



 顔が離れていかない。至近距離で見つめられている。

 こうしてしっかりと見ると、確かに可愛らしい顔をしている。何かのマスコットキャラクターのような愛嬌がある。

 長い黒髪をポニーテールにしているのも清潔感があって好印象だし、お店のロゴが入った洒落た黒いエプロンもよく似合っている。



「いきなり馴れ馴れしくないかな? 君が良いなら俺は別に構わないけど」



「ぜひぜひ! 私高園さんともっと仲良くなりたいです!」



 初対面で人懐っこい子だなぁ。確かにこれは花乃の言うとおり、モテない男子は即勘違いだろう。俺も決してモテるわけではないが、既に心を捧げている相手がいるのでその心配はない。



「じゃあ、胡桃音ちゃん」



「はい、ありがとうございます♪」



 名前を呼んだだけでお礼を言われるというのも不思議な感じだ。



「それにしても高園さん、休日にお一人でブランチなんて、優雅ですね」



「ん、ああ、まあたまにはそういうのも良いかなって。歩いてたら良さそうなお店があったから入ってみたんだ」



「ひえー、この雨の中を徒歩ですか。私は雨が苦手で、出来れば家に引きこもっていたかったですが、バイトだったのでそういうわけにもいかず。ですが、今日は出てきてよかったです!」



「へえ、なんか良いことあったの?」



「ありましたありました。高園さんは鈍いですねぇ、高園さん会えたことが良いことですよー」



「え、そうかな? そう言われて悪い気はしないけ

ど、でも俺に会って別に得なことはないよ?」



「いえ、私高園さんのお顔が好みなんですよ。こうなんていうか、地味にカッコいいですよね!」



 なんだろう、あまり褒められている気がしない……。

 向かい側の花乃を横目で見ると、手で口を押さえて笑いを堪えているようだった。



「まあ、胡桃音ちゃんに気に入ってもらえたならこの顔に生まれて良かったよ」



「はい! あ、暇なんでお話しちゃってますけど、迷惑じゃないですか?」



「迷惑ってことはないよ。けど、俺以外居ないもんね。雨が降ってるからかな?」



「うーん、それはあります。やはりこう天気が悪いとみんな外に出たくないんでしょうねぇ。すっごい分かります」



「胡桃音ちゃんはアウトドアっぽいけどね?」



「んや、私は結構インドアですよ。実は晴れてても結構おうちに居ますね。だからまあ、このバイトは外に出る良いきっかけでもあります」



「へえ、意外だね。スポーツとか好きそうに見えるけど。ところで、学生さん?」



 花乃と同い年ということは、高校は卒業しているはずだが。



「あ、はい、近くの大学に通ってます」



「何か将来やりたいこととかあるの?」



「うーん、正直、それを今探してます。私ってあまり取り柄ないから、そもそもちゃんとした仕事が出来るのかも不安なんですけどね」



「ふうん。まあ、結構そういう人も多いのかもね。でも胡桃音ちゃんは取り柄がないってことはないと思うけど」



「え! 本当ですか!? それは一体どこでしょう!?」



 胡桃音ちゃんは前のめりだ。まあ誰でも自分の長所は気になるか。



「すごい話しやすいし、あと可愛いし。人と関わる仕事がいいんじゃない?」



「か、可愛い!? 本当に言ってるんですか!?」



 胡桃音ちゃんは“可愛い”だけしか聞こえなかったようだ。驚き方に凄まじいものがあるが、普段はあまり言われないのだろうか。

 まあ実際、相手に面と向かって可愛いというのは、普通の男子にとっては気恥ずかしいものがあるかもしれない。俺はアイドル相手で慣れているから言えてしまうけど。




「本当だよ。俺は滅多に嘘をつかない」



「その滅多がここに来たのではないですよね!? えへへ……私喜んじゃいますよ?」



「喜んでくれれば俺も嬉しいよ。それより、アイドルとかどう?」



「ほえ、アイドルですか?」



「ああ、胡桃音ちゃん向いてるんじゃないか?」



「いやいや! 私あんなきらびやかじゃないです! ステージで歌って踊って輝いてて、それでもプライベートだと親しみやすくって!」



 黙ってた花乃が顔を上げた。

 理由は俺にも分かる、胡桃音ちゃんはアイドルの知り合いが居るような口振りだ。もしかしたら、姿は見えなくても花乃のことを覚えているのかもしれない。

 そう思った俺は、それとなく探りを入れてみることにした。



「ん? アイドルに知り合いが居るの?」



「はいっ、あ、いや……あれ? いえ、知り合いには、居ないですが……。なんでしょう、なんか変な感じです……。何か大事なことを忘れてるような……」


 胡桃音ちゃんは頭に手を当てて、記憶を探っているようだ。


 やっぱり、花乃の記憶は欠落しているのか。

 存在が消えるとは、そういうことだ。

 姿が見えなくなるだけじゃない。“居た”という事実が無くなってしまう。

 花乃はきっと、怖いだろう。やっぱり、俺がどうにかしてあげないと。何が出来るのかは分からないけど、何が出来るかを必死で考えることは出来る。



「胡桃音ちゃん、思い出せそう?」



「いえ……なんですかね。気持ち悪いです。すごい、大事なことな気がするのに……」



 胡桃音ちゃんの顔が初めて曇った。

 それを見ている花乃の顔も、悲しげだ。

 当たり前だ。この二人は友達のような関係だったんだ。

 友達に忘れられてしまったら、誰だって悲しいだろう。



「無理に思い出そうとしなくても、きっと必ず、思い出せるよ。さて、せっかくのピザとパンケーキが冷めちゃうから、そろそろ集中していただくとするよ」



 これ以上は、花乃を傷つけ、胡桃音ちゃんを苦しめるだけだろう。まあそれに、実際お腹も空いているので話を終わりにするには丁度いい口実だった。



「ん、はい、そうですね。私も、そろそろちゃんと仕事しないと――」



 まさにそのタイミングで、ドアのベルがカランカランなった。反射的に「いらっしゃいませ!」と言いながら胡桃音ちゃんは新しく入ってきたカップルの対応に向かう。

 それを見送って花乃の方に目を向けると。



「うわっ!」



 目の前にフォークに突き刺さったパンケーキと生クリームと蜜柑が突き出されていた。



「またおかしな目で見られちゃうよ?」



 花乃が悪戯っぽく笑う。

 思ったよりも落ち込んでいないようで、俺は内心で安堵する。でも、きっと無理をしているのだろうなとも思う。

 俺がなんとか、無理しなくていいようにしてあげられればいいが、今はその方法が見当たらない。



「だったら脅かさないでくれ。えっと、これは?」



「はい、あーん♪」



「ええ!?」



 条件反射で叫んでから、慌てて口を押さえる。俺と反対側の隅に移動中のカップルにも、それを見送る胡桃音ちゃんにも気にしている様子はなくてホッとする。



「ふふっ、君は面白いなあ」



「からかわないでくれよ……」



「からかってるわけじゃないよ。ほら、口開けて」



 確かに目を見れば、花乃は本気のようだ。だがしかし、何故急に?

 とは思うが、俺としてはこのチャンスを逃したくはない。

 従順に口を開くと、そこに花乃がゆっくりとフォークを入れてきて、俺は口を閉じてその酸味と甘味を感じる。

 と同時に、花乃がフォークを引っこ抜いた。



「美味しい?」



 楽しそうに俺の顔色を窺いながら聞いてくる花乃は、異常に可愛い。この世界のすべての“可愛い”を凝縮した存在が秋月花乃なのではないかと本気で思える。

 そして、美味しいなどというレベルではない。

 正直、違うところに意識が行きすぎて味をしっかりと感じているかは怪しいが、その代わりに俺は今、幸せを噛み締めている。


 なんだこれは。

 こんなのまるで、カップルじゃんか。

 俺の花乃に対する“あらゆる意味の好き”の中の、“恋人にしたいという意味での好き”がいきなり群を抜いて頭角をあらわした。



「私の為に、胡桃音と話してくれたんでしょ? だからまあ、お礼ってわけじゃないけど。昨日、ファンサービスするとも言っちゃったからね」



 まるで幻想のような光景だ。

 こんな毎日が続くなら、今の状態も悪くない……と、そう思ってしまいそうで怖い。俺は何よりも花乃のことを優先して考えたいと思っているのに、自分の欲望を優先してしまいそうで、そうなってしまえば俺はもう花乃のファンとして失格だ。

 誰が許そうとも、俺が俺を許せない。


 しっかりと、問題に向き合わなくてはダメだ。

 頭を、心を切り換える。

 と、途端に状況が客観的に見えて、疑問が生じた。やはり今まで俺は、自分の主観でしか物事を捉えられていなかったようだ。



「なぁ、花乃」



「ん? なあに?」



 可愛い。おっと、いかんいかん。



「花乃が物を持っているとき、それって他の人にはどう見えてるんだ? 例えば、さっき持ってたカフェオレのグラスや、今持ってるフォークは、周りから見たらどう見えるんだろう?」



 口に出してみれば、それは当然の疑問だった。今まで考えなかったことが恥ずかしいくらいだ。



「ああ、そっか。その辺は説明してなかったね。んとね、私が持つものは、私と同じになるみたいなんだ」



「花乃と同じっていうと……」



「うん、存在が消える」



 それは理解しがたい現象だ。

 物の存在が、そう簡単に消えるものだろうか。

 だがしかし、実際そうでないと辻褄が合わないのも確かだ。

 例えば花乃は当然服を着ているが、もし花乃の存在が認識されず服の存在だけが残っていれば、きっと他の人には透明人間が服を着ているように見えるだろう。というかそれはもう服が花乃の存在を示しているようなもので、そうなれば世間は今頃大騒ぎになっているはずだが、実際はそんなことはない。

 だから花乃の言った通りなのだろう。


 花乃の持ったものは、花乃と同質の存在になる。


 人にその存在を、認識されなくなる。


 どういった原理でこの現象が起きているのかは分からない 。正直、人知を越えている話だ。

 科学では証明出来ないだろう。

 俺は今花乃を認識出来ているが、例え俺が花乃の存在を訴えたところで、俺の頭がおかしいと思われるだけだろう。

 人は、認識できないものを実在するとは思えない。

 例えば幽霊とか、UMAとかUFOだとかは、複数の目撃例があってそれに様々な仮説が附随しているから幾らかの真実味が生まれ、世間的には半信半疑といった感覚で認識されている。

 でも誰も知らず、誰も見ることの出来ない存在を俺1人が「ここに居るんだ」と言ったって、きっと誰も信じてはくれないだろう。

 分かってはいたが、花乃の抱えている問題は途轍もなく大きなものだ。



「大丈夫? なんか顔色悪いよ?」



 花乃が、黙ってしまった俺の顔を覗き込んでくる。



「あ、ああ、ごめん。ちょっと考え込んじゃっただけだよ」



「ううん、謝らなくていいよ。ありがとう、ちゃんと考えてくれて。あ、でもね、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。存在が消えるのは私が持っている間だけで、離せば元通りに認識されるようになるから」



「いや別に、物の心配をしているわけじゃないけど……」



「あはは、そっか」



 花乃は楽しそうに笑う。

 それは俺にとっても嬉しいことだが、でもどうして、花乃は笑っていられるのだろう。

 俺が花乃の立場だったら、不安で押し潰されそうになっているはずだ。笑ってなんていられるはずがない。

 花乃にその答えを直接聞こうとしたのだが、花乃の方が一瞬早く口を開いた。



「あ! ねえ、雨上がったみたいだよ」



 花乃の目は窓の外に向いていた。

 俺は釣られて外を見る。確かに雨は上がっていて、雲間から僅かに陽光が差していた。



「雨上がりって、なんか良いよね」



 花乃がしみじみと言った。



「猫だから?」



「にゃー。って猫じゃないし。私猫っぽいって言われるし猫も普通に好きだけど、どちらかといえば犬派なんだよ?」



「知ってるよ」



「うわー、さすが私のファンだ」



 そう、ファンの間では有名な話だ。

 このエピソードを知らずに秋月花乃のファンは務まらない。



「ところで春樹、雨も上がったし、ちょっと行きたいところがあるんだけど……」



「いいけど、どこに行きたいの?」



「水族館」



「なるほど。分かったよ」



 これも特別驚いたりはしない。

 水族館と聞いただけで、俺は花乃が何を見に行きたいのかが分かる。好きな女の子のことを理解できるっていうのは、本当に嬉しいことだ。

 そしてアイドルというものは、さまざまなメディアにそういった個性の欠片を残している。それを拾い集めて、例えば俺なら『秋月花乃の個性』とでも題を付けて、頭の中で標本にする。

 アイドルを知るというのは、そんな感覚に近い。



「それじゃ、これ食べ終わったら行こうね。はい、あーん♪」



 また花乃が、パンケーキを突き出してくる。


 今度は慌てることなく、俺は当然のようにパンケーキを口に含んだ。

 だがしかし、やっぱり味はよく分からなかった。



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