第8話 この雨は君の心の中にも降っているのかもしれない。だとしたら僕は、そこに傘を差せるだろうか。
「ごめんなさいすみませんでした本当に悪いと思っています申し訳ありません!」
朝9時から、俺の家の寝室には雨音に混じって情けない謝罪が叫ばれていた。
その言葉を心から体外に放出しているネイビーのパジャマを着ている男は、それだけでは飽きたらず水色のカーペットに頭を擦り付けている。俗に言う、土下座というやつだ。
ドラマではともかく、現代社会でここまでする人間が居るのかと疑いたくなるが、実際にこうしてここに存在しているので疑問を挟む余地はない。
男の頭に先には、白いスマートフォンが置かれていて、その画面には通話中と表示が出ている。
そしてスピーカーから、電波の飛び交う向こう側に居る女子の声が響く。
『先輩酷いです。私とっても楽しみにしてたのに。予定もナノ秒単位で立てたのに』
「どこに力を入れてるの!? その予定人間に遂行するのは無理だろ!?」
その可愛い声は、俺の会社の後輩、永濱遠子のものだった。ということは、認めたくはないが、自分のスマートフォンに頭を下げているのは他でもない俺である。
昨日天地がひっくり返るレベルの衝撃を俺に与えた秋月花乃との再会で、永濱と交わしていた遊びに行く約束を俺はすっかり失念していた。
朝起きるまで忘れていた。
いや嘘だ。朝起きても、花乃にスマホの存在を示唆されるまで、脳裏をよぎることもなかった。
いくら普段から冷たくあしらっている後輩とはいえ、約束を忘れるのは人間としてあってはならないことだと俺は思っている。
だから俺は、相手に見えなくとも電波のこちら側で頭を下げ続けている。
そしてあろうことか、そんな俺を見ているのは謝るべき相手の永濱ではなく、俺にとって誰よりも大切で、『憧れ』というよりは『崇拝』で、『好き』というよりは『尊い』と表現した方が近い感情を抱いている元アイドル・秋月花乃だった。
ベッドの横で床に膝を付いている俺を、ベッドに寝転がってその端から顔を覗かせて、俺のことを見下ろしている。見られたくない光景ではあるが、しかしこれが約束を忘れていた俺にとって最大の罰なのかもしれないと思う。
『まあ、一応謝ってくれましたし、急用ということなら仕方ないですね。ただ、埋め合わせは期待していいんですよね?』
「あ、ああ! 俺に出来る埋め合わせならなんでもする! 本当に申し訳ない!」
『ふう、分かりました。先輩だから、特別に許してあげます。それじゃあ、また会社で』
「ああ、ありがとう。また会社でな」
『ふふふ、先輩、言いましたからね?』
「へ?」
『月曜日会社で会ったら、いつもみたいに無視とかしないでくださいよ?』
「う……わ、分かったよ。ちゃんと対応する」
『よーし、それならまあ、私にとってもマイナスはないですね! 今度ちゃんとデートもしてもらえるし、むしろプラスですね! それでは先輩、有意義なお休みを過ごしてください、ではまた!』
「は、ちょっ、デート!? 遊びに行くだけで別にデートってわけじゃ……!」
言い終わる前に通話が切れた。
ツー、ツー、という電子音が物悲しく聞こえる。
それさえ途切れると、雨の音に混じってまたベッドが軋んだ。
反射的に目を向けると花乃が寝そべり体勢から四つん這いにフォームチェンジしていた。
ワイシャツが重力で垂れ下がっているせいで胸元の隙間から花乃の慎ましやかな谷間が露になっていてドキッとする。もっと防御を気にするべきと注意しようかと思ったが、ひとまずは花乃のデコルテとその先を注視することにした。
大体、花乃にこの格好をさせた俺が、どんな顔で注意すればいいのかよく分からない。
「彼女?」
花乃は頭上から、単語と疑問符だけで俺が聞かれたくない質問をしてきた。
俺は大げさに首を振って否定する。
「全然まったくもって1ミリも違う! ただの後輩だよ!」
「別にそんなに否定しなくてもいいのに。仲良さそうだったよね?」
「仲良くはないよ! まあ別に悪くもないけど……あいつが勝手に懐いているだけだよ」
自分でも、どうしてか分からない。どうして花乃に対して、ここまで永濱との関係の深さを否定するのか。素直に言えば、俺の知っている後輩の中では永濱が一番仲が良い。
でも不思議と俺の心理は、それを花乃に知られたくないようだった。
「ふーん、まあいいけどね。でも良かったの? 約束してたんじゃ……」
「そうだけど、君を放っておけないだろ。まだ詳しい話も聞いてないし」
そう、昨夜は眠気がピークだったので(それでも結局緊張でなかなか眠れなかったわけだが……)、今日詳しい話を聞くことにしたのだった。
人から認識されないという不思議な現象が、花乃には起きている。そんな中、彼女を認識出来る俺にとって、こうして二人きりで居る分には特におかしなところは見当たらない。
というか、俺と花乃が二人で居ることが“おかしなところ”だ。
「そっか。うん。春樹、ありがと。本当に助かるよ」
「いや……あ、当たり前のことだ。好きな子が困ってたら、誰だってこうするだろ」
「ふふふ」
「な、何?」
「君の、そういうこと照れながらでも真っ直ぐ言うところ、嫌いじゃないよ♪」
花乃の笑顔が俺の心を粉砕する。
息が詰まって、顔が熱くなる。
アイドルに対して、恋愛感情など持たない。アイドルに対してするのであれば、それは疑似恋愛だ。
恋愛に似て非なる、アイドルとファンの間ならではの特別な感情。
だが俺は、それが時に純粋な恋愛を凌駕し得ることを知っている。アイドルのファン達の想いが、恋人達の愛情に負けるとは思わない。そもそも比べること自体がおかしいのかもしれないけれど。
それはそれとして、今秋月花乃はアイドルではない。
だとしたら、俺が今彼女に抱いている感情は、どこに分類すればいいのだろうか。
* * *
「せっかくのお休みだし、外でブランチでもしようか。行きながら少しずつ話すよ」
花乃がそう言ったので、俺は特別異論を挟まず、というか挟める訳もなく、2人して支度して出掛けることにした。
俺はストライプ柄の長袖白シャツにジーンズ、そして黒いレザーのシューズを履いて、財布などを入れる為のグレーのトートバッグを肩に掛ける。
花乃は昨日着ていた白いニットワンピ(浴室乾燥を駆使して乾かした)と俺と同じく黒いレザーのショートブーツ、そしてコーデュロイ素材の黒いミニショルダーバッグを肩から下げている。
服の中身の質が違い過ぎて決して釣り合っているとは言えないが、そもそも周囲の人間に花乃が見えないのであれば特別気にすることでもない。
だから俺が気にしているのは花乃の目だけだったが、俺のファッションに対して特にリアクションすることもなかったので、どういう感想を抱いているかは不明だ。しかしよくよく考えれば、花乃に私服姿を見られるのは初めてではない。
花乃が覚えているかは分からないが、握手会に通っていた頃は毎回私服だったので、今更リアクションされることではないのかもしれない。
分かっていたが、外は雨だった。
用意の悪い俺の家には客人用の傘がなく、俺の愛用の黒い大きな傘が一つしかない。なので必然的にそれを2人で一緒に使うことになったが、俺としては喜ばしい限りである。
俗に言う相合い傘を花乃とする日が来るなんて、夢にも思わなかった。
ただ一つ、花乃が狭さを不服に思っていないかだけが心配だったが、特に気にしている様子もなかったので内心で胸を撫で下ろす。
最寄り駅の隣の駅近くに花乃の知っているお店があるらしく、そこに向かうことになった。
都内の駅の間隔は狭いといえども、徒歩20分くらいはかかるが、話をするには丁度良い時間なのかもしれない。
「まず、何から話そうかな」
歩き始めて少しして、花乃が小さな口を開いた。
同じ傘の下に居るので肩が触れそうな距離感で、雨が傘に弾かれる音は多少五月蝿く感じるが、花乃の声はそれでもハッキリと聞こえた。
「私が最初におかしいと思ったのは、アイドルをやめて地元の学校にまた通い初めてから、3ヶ月くらい経ったときだったかな。この現象は、本当にちょっとずつ進行していったんだと思う」
花乃の口調にはあまり感情が含まれていなかった。きっと、努めてそうしているんだろうと思った。
「友達と話してた時にね、急に友達に私の声が届かなくなったの。私は必死に話してるんだけど、友達にはまったく聞こえなくて。いきなり私が世界から弾き出されたみたいだった。友達は今まで一緒に話してたのが嘘みたいに、違う友達と話し始めて、気味が悪かった。その日は、放課後には元に戻ってたから、何かの間違いかなって思ったんだけど、数日後にもっとおかしなことが起きてた。
朝友達に話しかけても無視されて、他のクラスメイト達も、私がいくら挨拶しても反応してくれなくて、最初はいじめなのかなって思った。でも、先生にも私が見えてないようで、その日私は欠席にされた。その場に居たのに、誰にも気付いてもらえなかった。
意味が分からなかったけど、そんなこと
親には相談できなかった。頭がおかしくなったって思われるのは分かってたから。
私は毎日ちゃんと、学校に行った。気付かれる日と気付かれない日があって、そして少しずつ気付かれない日の方が増えていった。もうダメだと思ったのは、教室から私の席が消えて、先生の出席簿から私の名前が消えたとき。それから私は、家に引きこもるようになった」
俺は何も口を挟めなかった。
挟めるわけがない。そんな悲惨な経験をこの子がしたのだと思ったら、どんな声を掛けてあげるべきなのか、俺にはまったく分からなかった。
「親は一応心配してくれてた。やっぱり学校のいじめを疑って、学校にも行ってくれたみたいだった。でもやっぱり、そんな生徒は居ないって言われたみたいで、お母さんもお父さんも酷く混乱してた。私は自分の部屋に閉じこもるようになって、お母さんは部屋までご飯を運んでくれるようになった。もうお母さんもお父さんも、何にも聞かなくなった。
そんな生活が1ヶ月くらい続いたある時、ご飯が部屋に届かなくなった。おかしいなと思ったけど、正直少しだけ、予想もしていた。そしてやっぱり、予想通りだった。
お母さんもお父さんも、私の存在なんて忘れたように、楽しそうに生活していた。それを見て私は、家を飛び出した」
聞くに堪えない話だ。
それでも耳を塞ぐわけにはいかなかった。だってもしかしたら、彼女の話を聞いてあげられるのはもうこの世界に俺しか居ないのかもしれないのだ。
もしそうだとしたなら、それは複雑な心境だ。
嬉しくないと言えば嘘になる。
彼女にとって俺が必要な人間になるということは、本当に喜ばしいことだ。
でも、手放しで喜べない。
いや、本当ならこれは喜んではいけないことだ。
彼女が困っていることを、彼女の不幸を喜ぶなんて、ファンとしてあるまじき行いだ。
喜んではいけない。
もっとちゃんと、彼女のことを考えなくてはダメだ。
「それが半年前くらいになるのかな。とにかく私は東京に来た。もう地元に私の居場所は無いと思ったんだ。東京なら、アイドルをしてた私を誰か知っていると思った。でも結果的に甘かったんだよね。私に気付く人は、全然居なかった」
普通なら信じられない話だ。あのトップアイドルだった秋月花乃に誰も気付かないなんて、そんなわけがない。
だがしかし、俺は花乃のその言葉を疑えない。花乃に対する信仰心というのもあるのかもしれないが、それだけじゃない。
俺は昨日、確かに目撃した。
歌っている秋月花乃に、誰もが目もくれずに素通りしていく光景を。
あれが半年前からだと思うと、胸を締め付けられる思いだった。
「ごめん」
気付けば俺の口からは、謝罪が飛び出していた。
「どうして君が謝るの?」
「俺がもっと早く、君を見つけられていれば、君に辛い思いをさせずに済んだ。だから、見つけられなくてごめん」
「ふふ、それは仕方ないよ。私がこの辺に来たのは最近だからね。これまでの半年は、都内を転々としてたんだ。私を見つけてくれる人を探してね。【1000000/0】のメンバーにも会いに行ったんだけど、全然気付いてもらえなかった時にはさすがにちょっとへこんだけどね。まあでも、精神的にはともかく、生活にはそれほど困らなかったよ。漫画喫茶は入り放題だし、食べ物を勝手に食べても気付かれなかったしね。罪悪感はあったけど」
そう言って苦笑する。
でもその笑顔は無理に作られたものだ。俺には分かる。
秋月花乃の本当の笑顔は、もっと澄んでいて、見る人の心を掴むものだ。今の彼女の笑顔には、悲しさしか覚えない。
そんな顔をさせてしまっていることに、俺はやはり自分を許せそうになかった。
「ねぇ、そんなに自分を責めないでよ」
「え?」
心を読まれたのかと思ってドキッとする。
しかしそうではなかったようだ。花乃は俺の顔を間近で覗き込んでいた。
「君、すごい顔してるよ。私の問題は君のせいじゃない。むしろ私は君に感謝しかしてないよ。君が私を見つけてくれて、本当に嬉しかった。それに、今だから言うけど、私を見つけてくれたのが君で良かったとも思ってる。君は私のことを、本当に大切に思ってくれてる。それをすごい感じる。だから、君にはありがとうしかないよ」
嬉しかった。
本当に嬉しかった。
でも喜んでいる場合じゃない。
俺はもっと、彼女に対して何かをしてあげられるはずだ。それを考えることが出来るはずだ。
俺は彼女のために行動する。その為に生きるべきだ。そう心に決めた。
でも今は。
「ありがとう、花乃」
花乃に必要とされていることが嬉しすぎて、それを喜んでいしまう自分がどうしようもな悔しくて、涙が目に滲んできた。
でも俺は涙を流してはいけない。辛いのは花乃なんだ。それを支える立場の俺が、泣いちゃダメだ。
目尻から溢れそうな想いを、必死で堪える。
「ね、今度は君の話を聞かせてよ。よく考えたら私、君のこと全然知らないよね?」
当たり前だ。
アイドルがファンのことを知る必要はない。
それでも、自分の話でなら俺は泣かずに済むだろう。俺の人生に泣ける要素はない。
また花乃に救われてしまったな。
そんな苦味を舌の上で転がしながら、俺は自分の話を始めた。
花乃は楽しそうに聞いていたが、話している俺にはやはり、何が面白いのかは分からなかった。
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