第7話 微睡みを猫に邪魔されることを、幸せと呼ぶのかもしれない。
猫の鳴き声がした。
だからこれは夢なのだと思う。
俺は猫を、というかペットを飼ってはいない。
俺はまだベッドの中で
にゃーにゃーと鳴いている。
可愛い声だ。
実家でも、母が猫アレルギーを持っているので猫を飼ったことはないけれど、今だけは愛猫家の気持ちが分かる気がする。
姿の見えない猫の頭を撫でてやろうと手を伸ばす。もちろん夢の中でだ。
夢の猫を、現実の手では撫でられない。
指先に柔らかな毛の感触を得て、しばらくくしゃくしゃと撫でる。指通りがよく心地よい。猫も気持ち良さそうに、『ふにゃあ』と蕩けたような声を出した。
今度は顎の下を撫でてやろうと、頭から手を離して手探りする。
これはなんだろう?
柔らかい。例えるなら人のほっぺたのような質感だ。猫にこんな部位があったとは。
しかし、顎はどこだろう。
猫といえばやっぱり顎の下を撫でてやると喜ぶはずだ。俺は即席の愛猫家なので、この知識が正しいかどうかは分からないが。
ほっぺたのような感覚が気持ちよくて、つい少しの間ぷにぷにと弄んでしまう。
もしかしたらそれがいけなかったのかもしれない。
オモチャにされたと、猫は勘違いをしたのかもしれない。
「痛っ!」
どうやら指を噛まれたようだ。
まあそれほど強い力ではない。甘噛みといった感じだ。
痛みは断続的に脳に伝達するが、しかし良い機会なので俺はちょっと知的好奇心の赴くままに、噛まれたままの人差し指を動かしてみた。
猫の舌は人間に比べてざらついていると聞いたことがある。それが真実かどうか、確かめようと思ったのだ。
猫の口内は体温そのままの温度で温かい、指に唾液が絡むが、それも今更なので無視して、下に指を這わせてみる。
しかし、期待した手触りはなく、その感触は人間のものとそう変わらないように思える。疑問符を頭上に浮かべながら尚も猫の舌を弄くり回していると。
「痛ってえ!」
さすがに本気で噛まれたようで、俺は目を見開いた。
「は?」
「おふぁよう」
目の前にはあり得ない光景が広がっている。
純白のシーツの上、俺の隣に横たえた秋月花乃が、俺の人差し指を
1枚で来ているワイシャツは上から2番目までボタンが開いていて、綺麗な鎖骨が顔を覗かせている。
「まだ夢を見ているのか……?」
「もっはいはもっは?」
花乃が謎の言葉を吐き出す。
しかし長いこと彼女のファンで居た俺にとって、その解読は容易だ。彼女の声の音程とニュアンスで、言わんとすることを理解する。
『もっかい噛もっか?』と言っている。
「お願いします」
本当は、さっき噛まれた痛みが今でも続いているのでこれが夢ではなく現実なのだともう理解している。しかしそれとは関係なく、俺は秋月花乃の歯の感触をもう一度味わいたかった。我ながら気持ちが悪い。
そんな俺の内心を知ってか知らずか、花乃はさっきよりはいくらか優しく、三度俺の人差し指に歯を立てた。皮膚に食い込み、痛覚を刺激する。
しかしそれとは別のベクトルで意識が鮮明になっていくのを感じた。同時に自己嫌悪も感じた。
「ぷはっ、目が覚めた?」
花乃が俺の指を吐き出し、問いかけてくる。
花乃の体温から解放され、唾液に濡れた俺の人差し指は、春にしては低めの気温に晒されて少し寒く、そして多少の寂しさもあった。
どうやら雨が降っているということに遅れて気付く。雨が窓を叩く音が割合大きく聞こえ、気温の低さに納得する。
「ああ……しかし、なんで君は俺の指を咥えてたの?」
「ん? せっかく私が起こしてあげようかなって思ったのに、君がいきなり頭撫でてきて、その後私のほっぺた突っついてきたから。されるがままなのも嫌だったし、ちょっと悪戯しちゃおうかなって」
花乃はそう言いながら嗜虐的な笑みを浮かべている。可愛すぎて朝には刺激が強すぎる。噛まれたこともむしろ俺にとってはご褒美だということを、この少女はまだ理解していないらしい。
雨雲とカーテンを突き抜けてきたしぶとい太陽光の残党が照らし出す部屋は、俺の寝室だった。
そしてこの部屋のメインシステムである俺のシングルのベッドに、俺と花乃は並んで寝そべっている。ベッドに向かって右に俺、左に花乃という配置だ。
シングルのベッドは一人用なので当然小さいが、花乃の身体が細いのでそこまで狭くは感じない。というか、根本的に花乃の大ファンである俺の心理ではなるべく花乃と距離を詰めたいはずなので、狭く感じない背景にはそれも影響しているのかもしれない。
つまるところ、花乃は狭く感じている可能性があるが、しかし同じベッドで寝ると言い出して聞かなかったのは花乃の方だった。
『俺はその辺の床で寝るから、花乃はベッドで寝てくれ』
『ううん、春樹の家なんだから、春樹がベッドで寝て。私が床で寝るよ』
『あのさぁ、俺が君を床で寝かせられるわけないだろ? もしそれをするなら俺は外で寝るよ』
『うーん……じゃあ、もう手段は一つだけだね』
『というと?』
『一緒に同じベッドで寝よっか?』
という会話があった。
もちろんそれで終わりではなかったが、それを全部思い出そうとすると大変なので割愛する。簡単に言うと、『アイドルと同じベッドで寝れるか!』『私もうアイドルじゃないし!』というようなやり取りがしばらく続いた。
結局言い負かされ一緒に寝ることになったわけだが、疲れていたはずなのに緊張と興奮でなかなか寝付けず、おそらくようやく眠りに誘われたのは3時を回った頃だろう。それから何時間くらい眠れたのだろうか。
時計を見ていないから今の時間が分からない。
ちなみに花乃は、眠れない俺の横であっさりと眠りについた。どんな図太い神経をしているのだろう。アイドル時代に鍛えられたのだろうか。
まあ、しばらく漫画喫茶に泊まっていたらしいので、久しぶりのベッドが快適だったのかもしれない。それなら良かったけど。
「なんか、猫が鳴いてなかった?」
寝ぼけていたので現実かどうか分からないが、確かに俺は猫の鳴き声を聞いていたはずだ。
「あ、それ私だよ。にゃーにゃー」
花乃は猫の鳴き真似をしながら右手をグーにして顔の前でしならせる。どうやらそれも猫のつもりのようだ。
ただ俺は思う。これは猫よりも可愛いと。もちろん独断と偏見です、愛猫家のみなさんごめんなさい。
内心で世間への謝罪をしつつ、俺は遅ればせながらあることに思い至った。
「え、じゃあもしかして、俺は花乃の頭を撫でて、花乃のほっぺたを突っついて、そんで花乃に人差し指を噛まれ、その流れで花乃の舌を撫でてたってことか?」
「うん。さっきそう言ったよ? 朝から人の口の中を弄くり回すなんて、君は変態なのかと思ったよ」
「なんてことだ!!」
花乃の口から飛び出した変態という素敵ワードに興奮する暇もなく、俺は半ば反射的に絶叫した。
「ど、どうしたの?」
花乃は急な俺の発狂に驚いたようで、顔が引き攣っている。或いは引いているのかもしれないが。
「俺はなんで寝ぼけてたんだ! あの秋月花乃の頭撫でてほっぺぷにぷにして口内を掻き回すというファンだったら喜びが一周して死にたくなるレベルの接触をしている最中に、どうして俺の意識はぼやけていたんだ!」
「あ、ああ……うん。でも、それを君がしっかりとした意識でやろうとしたら、私はさすがにこの家を飛び出すよ?」
「え、そうなの?」
「普通にそうだと思うけど。今そうしてないのが不思議なくらいだよ」
「あ、ごめん、つい本音が出てしまった……。不快だったか?」
「うーん、ちょっとは引いたけど、でも平気だよ。もっとすごいファンの人も居たしね」
「そうか……君がアイドルで良かったよ。ちなみに、そのファンの人ってどんな?」
「私の口では言いたくないなぁ」
そんなレベルなのか。
俺は結構ヤバイのかと自分で思っていたけど、これでもまだマシな方らしい。
「言いたくないことは言わなくていいよ。その代わりじゃないんだけど、俺が寝ぼけてやってしまったことを、もう一度一通りやらせてもらえないかな。いや、別に下心なんて一つもないんだ。ただ、自分のやってしまったことをちゃんと理解しないと、罪を償えないからさ」
一瞬にして花乃の視線が氷河期を迎えた。
俺は身も心も凍てつく。
だがしかし、花乃の視線で凍死出来るならそれも悪くないと思ってしまう辺り、俺は重症なのかもしれない。
「やっぱり私、出てくね」
そう言ってベッドから降りようとする花乃を、俺は慌てて引き止めようと手を伸ばす。
「うわー! 冗談ですごめんなさい! 出ていかないでください! ほら外雨だし! 猫は濡れるの苦手だし!」
花乃が片足を床に敷かれた水色のカーペットに付いたところで、俺の右手が花乃の左手首を掴んだ。
「きゃっ!」
そんなに強く引っ張ったつもりはなかったのだが、恐らくは勢いが余ったのと、花乃の身体が軽すぎた。
花乃はバランスを崩し、俺の手に引かれてこちらへと倒れ込んでくる。
それこそ猫のよう目を見開く花乃が俺の感覚ではスローモーションで降ってくる。
きっと雨も、今だけは地面に打ち付けられるのを待っているはずだ。
長い髪が翻り、白いワイシャツの裾がはためき。
花乃の身体が俺の上に落ちた。
呼吸が止まる。それと同時に思考も停止する。
結果、俺の全神経は五感に集中し、そこから得た情報が脳へと高速で殺到する。
最初感じたのは、鼻孔をつくほんのりとした甘さと、それに混じって恐らく花乃自身のものであろう赤ちゃんのような匂いが香る。
次に俺の上半身と腕に、女の子特有の柔らかさが襲いかかってきた。慎ましやかに見える胸も、花乃の全体重もって俺のみぞおち辺りに押し付けられ、その確かな存在の誇り高さを見せつけてくる。
ようやく視覚が追い付いて、俺の身体に重なった花乃の身体、そして目の前、俺の首もとに着地した小さな頭を視認する。ぶれる視界の中で、その艶やかな黒髪が窓から差し込む優しい光を乱反射して煌めく。
ベッドの軋む音だけが耳の奥に響いて、それっきり世界は音をなくした。
昨日あった不思議な感覚を思い出す。あの時と同じだった。花乃の歌だけが耳に届いていた昨夜のように、今は花乃の呼吸だけが、微かに聞こえていた。
世界に俺と彼女をしか居ないみたいだと思った。
俺がその愛しい音色に聴き入っていると、
「私は猫じゃないよ。ていうか君、本当に私のことアイドルだって思ってるのかな? まあ、今はアイドルじゃないけどね」
俺の肩に柔らかい頬を乗せたまま、抗議の色を含んだ言葉をぶつけてくる。
しかし、それに対する俺の答えはもう決まっている。
アイドルだと思っている。
ずっとアイドルだと思っている。
アイドルじゃないと思ったことなんて一度もない。
彼女を知ったその時から、今の今まで、そして恐らくは死ぬまで、秋月花乃は俺にとって最高のアイドルだ。
歳を取れば人は変わる。
社会での立場も、人間関係も、食べ物の好き嫌いだって変わっていく。変遷に変遷を重ね、今の自分を形作る。
だがしかし、どれだけ歳を取って、どれだけの記憶と感情を積み重ねても、秋月花乃への想いだけは変わらないだろう。
自信がある。いや、自信というより、それはほとんど確信だった。
経年劣化もしなければ、風化することなどあり得ない。アイドル・秋月花乃はいつも俺に生きる力をくれる、永久不滅の存在だ。
心の底からそう思う。
思うのだが、しかし完全に硬直してしまった俺の身体では声が出せず、意思を伝える手段を失っている。
当たり前だ。
そんな尊い、手の届かないはずの存在が、こんなに近くに居る。
体温を感じる。
息遣いを感じる。
鼓動を感じる。
彼女からの情報量が多すぎて、処理が遅く容量も少ない俺のメモリはパンク寸前だ。そりゃあ処理落ちもする。
そんな俺の内情を知らない花乃は、俺からの返事を諦めたのか、それともはなから待っていなかったのか、「あ、そうだ」と何かを思い出したように呟いた。
「さっき君のスマートフォン、すごい鳴ってたよ」
何気なく放たれた花乃の言葉に、俺は正体の分からない嫌な予感を覚えていた。
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