第5話 君の髪からはシャンプーが匂えども、デジタル時計は秒針を刻まない。

 不幸中の幸い、俺が恥をかいたおかげで花乃の緊張は解けたようだった。

 とりあえずダイニングのテーブルに座ってもらって、話でも聞こうかと思ったのだが。



「ねえ、その前にシャワー借りてもいい?」



「え? シャワー?」



「うん、ちょっと汗かいちゃったからね。あと出来れば、なんでもいいんだけど服を貸してくれないかな? 着替え持ってなくて」



 あり得ない情報が次々と襲いかかってきて俺の頭はヒートアップしてしまいそうだ。

 とはいえ、ここで大人の対応をしておきたい俺は、あくまで冷静を装って話を続けることにした。伊達に社会の歯車をやってはいない。

 確かに、花乃の持っているバッグには着替えが入るようなスペースは無さそうだ。しかし、ここで『いいよいいよ! 俺の服で良かったら是非とも着て着て!』とテンション高めに了承するのは下心があるように思われてしまう危険性がある。

 実際問題、花乃が俺の服に袖を通してくれるというなら、もうその服は洗濯したくないくらいの気持ちがあるが、それを悟られたくはない。

 俺はあえて後ろ向きなテンションでワンクッション置くことにした。



「俺の服着るの? マジで?」



「出来ればお願い。図々しいんだけど、その間に

洗濯機も借りたいんだよね」



「いや、全然いいけど。でも、さすがに女性ものの下着はないけど……」



「そ、それはいいよ! ていうかあったら怖いし!」



 下着というワードに慌てる花乃は非常に可愛らしい。“萌える”という言葉はこの子の為に生まれてきたのだと本気で思えてくる。



「分かった、じゃあ適当な服を見てくるから、ちょっと待っててくれ」



 花乃が頷くのを見届けてから、俺はダイニングキッチンに入って左手にあるドアを開けて中に入り、壁のスイッチを押して電気を点ける。心の中ではガッツポーズをしていた。

 そこは俺の寝室で、服が入っているウォークインクローゼットもここにある。が、とりあえずクローゼットは後回しにして、いつも雑に整えているベッドを綺麗に整え直す。念のためで、深い意味はない。


 そしてようやくウォークインクローゼットを開く。


 どうしよう。

 何にしよう。

 何を着せよう!?


 秋月花乃が俺の服を着てくれる機会なんてめったにないぞ、ていうか奇跡的状況だぞ! 落ち着いてよく考えろ!

 どれが可愛い?

 いやバカか、どれ着たって可愛いに決まってるだろ!

 とりあえずジャージはないか。

 一応パジャマはあるけど、勿体ない!

 もっと良いものがあるはずだ!

 いや、知っていた。最初から答えは決まっていた。

 俺は社会人で、スーツで会社に通勤している。

 そんな俺は、ワイシャツを多く持っている。花乃に貸すのであれば、多少は枚数に余裕のあるものを貸すべきだろう。

 仕方ない、本当は他のものを貸してあげたいが、俺もそこまで服を沢山持っている訳でもない。ここはワイシャツにしよう!

 彼シャツだ!

 念願の彼シャツだぞ!


 と、内心で喜びの舞を踊ってから、俺は無表情でワイシャツの掛かるハンガーを取り出す。

 ダイニングキッチンに戻ると、花乃はダイニングテーブルの周囲に4つ置かれた背もたれのある椅子の1つに腰掛けていた。



「すまん、余裕があるのがこれしかなかったんだけど、大丈夫かな?」



「あ、うん、なんでも。ありがとう」



 椅子から立ち上がると、花乃は俺の手からハンガーごとワイシャツを受け取った。



「それで、お風呂はどこかな?」



「ああ、こっちだよ」



 ダイニングから玄関に向かう廊下の途中、左側にある扉を開ける。そこは正面に洗濯乾燥機と洗面台のある脱衣所になっていて、そこから左のドアがお風呂場、右のドアがトイレになっていることを花乃に説明した。



「ねえ、こっちのドアは?」



 花乃が興味を示したのは脱衣所のドアの反対、つまり今背後にあるドアだった。



「そこは何もないから! 物置きみたいな感じ! だから開けても良いことはないからね!」



「ふーん、そっか」



 納得してもらえたようで何よりだった。

 そこは本当のところ俺の自室で、趣味の部屋になっているのだが、花乃に見られたい部屋ではない。



「分かった、じゃあシャワー借りるね」



「ああ、後でバスタオル置いておくよ」



「ありがと。あ、入る前に1つだけ言っておくけど――」



「大丈夫だよ! 覗かないよ!」



 俺は咄嗟にそう叫んだ。

 俺が覗くようなデリカシーのない男だと思われたら心外だと思ったからだ。

 しかし。



「え、覗く気だったの?」



 逆に不審な目で見られた。視線が痛い。

 何故だ……。



「違うって、覗かないって! そりゃあ好きな子のシャワーは覗きたいけど、でも君が傷つくようなことは死んでもしない! 信じてくれ!」



「うーん、正直過ぎるのも考えものだね。でもまあ、とりあえず信じるよ」



 良かった!

 俺の必死の叫びが通じたようだ。やはり誠意を持って接すれば、通じるものだ。



「それで、言っておくことってなに?」



「あー、その……」



 いつも思ったことはハッキリと言う印象の花乃が口ごもる。どうやら彼女にも言いづらいことがあるらしい。人間なのだから、それはそうか。



「お風呂入ったら私すっぴんになるけど、幻滅しないでね?」



 なるほど、そういうことか。

 確かに花乃の手には、バッグから取り出したのであろうメイク落としと洗顔フォームらしきものが握られている。

 だがしかし、俺はその発言にこそ幻滅してしまいそうだ。



「なに言ってるの? 俺が君に幻滅なんて、するわけないだろ? 例え君が、『実は男なんだ』って言ったとしても、俺は君を好きでいれる自信があるよ」



「あ、ありがとう。だけどそれは逆に引く」



「なんで!?」



 素直な気持ちを言っただけなのに!

 女心って本当に難しいなあ!



「うん、とにかく安心したよ。それじゃあ、シャワー借りるね」



「ああ、うん。何か困ったことがあったら呼んでく

れ。すぐに駆けつけるから!」



「君、やっぱり覗く気なんじゃ……」



「違うから!」



「ふふ、冗談だよ。ありがとね」



 花乃の笑顔に見送られて、俺は脱衣所のドアを閉めた。

 ダイニングに戻り、花乃がさっき座っていた椅子に腰を掛ける。

 テーブルに両肘をつき、無意識に頭を抱えた。



 なにこれ。

 なにこれ。

 なんだこれ。

 どういうこと?

 どういう状況?

 なんであのトップアイドルだった秋月花乃がうちに居るんだ!?

 なんでシャワー浴びてんの!?

 現実か?

 これは現実か?

 いや、夢である可能性が高い。

 俺はテーブルにおでこを打ち付けた。

 痛かった。

 どうやら夢ではない。

 夢じゃなかったら、何なんだろう。

 夢じゃない=現実か?

 もしかして俺は死んだのかもしれない。

 或いは生死の境をさまよっているのかもしれない。

 じゃなかったらこの不可思議な状況に説明が付かない。

 頭が追い付かない 。

 あり得ないことが多すぎて、処理出来ない。

 秋月花乃が目の前に居るだけでも充分あり得ないというのに、その彼女の存在が消えかけている?

 なんだそれは。

 俺にどうにか出来る問題じゃないだろ。

 でも。

 だからといって、放っておくことなんて出来る訳がない。

 もし、俺以外の誰も彼女を観測出来なくなってしまったなら、俺が無視を決め込んだら本当に彼女は独りになってしまう。

 それは絶対ダメだ。まあ、そもそも俺が彼女を無視なんて、出来るわけがないのだが。

 とりあえず話を聞かないと。

 考えるのはそれからだ。


 テーブルの上に置いてあるデジタルの置き時計に目をやると、その表示はPM10:26になっていた。

 俺はいつも10時にはベッドに入るので、普段ならもう眠りに就く頃だ。

 そう思うと、急に眠気が襲ってくる。

 まだ花乃はしばらくシャワーを浴びているだろうし

 、少しだけテーブルに突っ伏して待つとするか。

 そう思って頭をテーブル預ける。

 ひんやりとした木の感触が、体温でじんわりと温められていくのを感じながら、俺の意識は静かに遠のいていった。







 ふと、背中に不思議な感触を覚えて意識がぼんやりと覚醒する。

 頭をテーブルから持ち上げ、背中の中心辺りを棒状の何かが突っつく感覚の正体を探ろうと振り向こうとしたとき、



「振り向いちゃダメ!」



 その言葉とともに俺の顔が左右から、熱を持った何かに挟みこまれて正面を見るように固定される。

 それと同時に背中に感じていた感覚は消えた。

 意識がはっきりして、その代わりに俺は混乱する。


 その声は明らかに秋月花乃のものだ。背後から聞こえてきた。

 絶対に間違えようがない、俺の一番聞き馴染みのある声だ。

 だとすれば、俺の顔を挟んでるこれは、花乃の手だろうか。花乃は今俺の後ろに立っていて、俺の顔を挟んでいる?

 なぜ?

 という疑問が浮かぶが、しかしそれよりも花乃の手が俺の頬に触れていることに身体が固くなり、胸の奥から全身に熱が広がり、心臓がバクバクと鳴るのを感じた。

 まったく、今日は働きすぎだな、俺の心臓。



「ごめんね。君、疲れてたんだね。それなのに急に押し掛ける形になっちゃって、本当にごめん」



 花乃の声は、微かに震えていた。

 それが何を意味するのか、俺は推測することしか出来ないが、良い意味を持っているとは思えない。



「謝らないでくれ。確かに仕事で疲れてはいたけど、花乃が謝ることは何もない。君に頼られることを、俺は迷惑だと思わない」



「どうして、そんなに良くしてくれるの?」



「どうしてって、俺が君のことを好きなのは知ってるだろ?」



「でも、ただのアイドルだよ? しかも元だし」



「関係ない。アイドルだろうが、そうじゃなかろうが。花乃はファンがどういう気持ちでアイドルを応援してるか、知ってるか?」



「そんなの、人それぞれじゃない?」



「そりゃそうだ。でも、軽い気持ちで応援してる人は1人も居ないと思う。本当に好きで、大好きで、この子の為なら人生も捧げられるって、それくらいの気持ちで応援してる。少なくとも俺はそうだ」



「……うん、その、良く本人の前で照れもせずに言えるね」



「俺が君を好きなことなんて、君は前提として知ってるだろ。今さら気持ちを隠す気なんてないよ」



「そんなに、想ってくれてるんだね。それなのに、ごめんね」



「まただ。謝らなくていいって」



「でも、私は君や他のファンの人達に、何も返せなかった。返せないまま、アイドルをやめてしまった。だから謝らないでは居られないよ」



「だから、それも全部勘違いなんだよ!」



 もう俺は、我慢が出来なかった。

 花乃の口から、そんな言葉を聞きたくはなかった。

 俺は花乃に、アイドルで居たことを、その時間を

誇っていてほしかった。

 俺はもう目を見ずには、これ以上の想いをぶつけることは出来ない。

 そう思って、花乃の手に挟まれたままだった頭を、無理やり身体ごと後ろに向けた。



「ちょっ!」



 花乃が叫んだようだった。それと同時に、俺の視界に一瞬だけ、花乃の姿が映った。

 直後、良い匂いがした。

 花乃は椅子の背もたれ越しにオレに抱きついていた。

 花乃の小さな顔が、俺の顔のすぐ横にある。吐息が近い。

 目線を少し下に向ければ、花乃の綺麗な背中が見えた。そこに落ちる長く綺麗な黒髪はしっとりと濡れているようだ。

 俺の思考はもちろん停止しかけたが、しかしあまりにも衝撃的過ぎて現実として認識されなかったらしい。事実確認の必要があったので、俺は冷静に言葉を吐き出す。



「あの……なんで裸なの?」



「もう、だから振り向いちゃダメって言ったのに!」



「いやだって、まさか裸とは思わないし……」



「はあ……春樹、バスタオル忘れたでしょ」



「あ」



 そう言われると、後で出しておくと言ってそのまま忘れていた。



「一応なるべく水気切ったけど、でもさすがにタオルで拭かないと服が濡れちゃうから……。君のこと呼んだけど、全然返事ないから、心配になって見に来たんだよ」



「な、なるほど、それで背後に立ってたのか。……心配かけてごめん」



「ううん、違うの、ごめんね。確かに君の心配も少ししたけど、それよりも私は、君にも私が見えなくなっちゃったんじゃないかって思った。せっかく久しぶりにちゃんと会話が出来たのに、また独りになったんじゃないかって、それが心配になっちゃったの。自分のことばかりで、本当ごめん」



 この子は、何回謝るのだろう。

 俺はそんなことを求めてはいない。やっぱり、ちゃんと言わないとダメだ。



「俺は、謝られても嬉しくない。あのさ、今からすごい重たいこと言うけど、いいか?」



「え? ……うん」



 少し戸惑ったようだが、花乃は頷いてくれた。



「俺が君を推してたことは知ってるよな?」



「うん、知ってる」



「俺は、推すと決めた以上その子に人生を捧げるつもりでいる。だからもし君の為に俺が出来ることがあるなら、俺は全部やりたい。君の力になりたい。謝らなくていい。だって俺は、君に頼ってもらえたら嬉しいんだ」



「でも……」



「でもじゃない。一年前、君がストーカーの被害に遭っていたとき、俺は君に何もしてあげられなかった。もっと支えてあげられたはずだ。もっと出来ることがあったはずだ。君が卒業を発表して、俺は何度もそう悔やんだんだ。だから、今度こそ、俺は君の力になりたい。ダメかな?」



 花乃は首から力を抜いて、顎を俺の肩に乗せた。そこで初めて、花乃が震えていることに気付いた。

 失敗した。力になりたいとか言ってるくせに、俺は全然花乃のことを考えてあげられてない。情けないし、カッコ悪い。でも、悔やむのは後だ。



「ごめん! 寒いよな? 今タオルを――」



 そう言いながら身体を離そうとした俺の身体を、花乃の腕が止めた。

 それはやはり華奢な女の子で、大した力ではなかったが、しかしはっきりとした意思を感じて俺は身体の力を抜いた。



「花乃?」



 言葉を待つ。

 花乃は2回、深呼吸をした。そしてその小さな口を開く。



「大丈夫、そんなに寒くないよ。春樹、ありがとう。私、そこまで愛してもらえるアイドルだって思ってなかった。でもそれって、すごい失礼だったね。好きでいてくれた人達の気持ちを、私は疑ってたんだ」



「もう、謝るなよ」



「うん。だから『ありがとう』にするよ。君にも、他のファンの人達にも。『ごめんなさい』はもうやめる」



「そっか、よかった」



 俺は心のそこから安堵した。

 花乃が卒業したことでファンに対して後ろめたさを覚えているなんて、そんな救われない話はない。花乃だって、やめたくてやめたんじゃないんだ。自分を責める必要はない。



「ねえ、春樹」



 花乃は改まった感じで、俺の名前を呼んだ。



「なに?」

 


「あのさ、勘違いはしてほしくないから先に言うけど、こんな格好でこんな体勢だから言うわけでもないし、私がそういうことに前向きなわけでもないからね? そこのところ、いいかな?」



「あ、ああ……」



 現時点では、花乃が言わんとすることがまったく分からない。ただ、花乃の機嫌を1㎜も損ねたくない俺には頷く以外の選択肢が用意されていなかった。

 あとは黙して花乃の言うことに耳を傾けるだけだ。



「君さ、私とエッチなことしたいって思ってる?」



 その瞬間、時が止まった気がして耳を澄ます。秒針の音は聞こえない。

 やはり時が止まっているようだ。

 って、そんなわけがあるか。

 俺の家にアナログの時計は存在しないのだから当たり前だ。

 それでも耳を澄まし続けていると。

 呼吸と、心臓の音だけがはっきりと聞こえた。


 だがしかし、それが俺のものなのか、花乃のものなのかは、よく分からなかった。



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