第4話 世界はいとも簡単に呼吸を止める。心拍すらも止める。
秋月花乃の話はどう考えても突拍子もないものだったが、しかし同時に説得力も持ち合わせていた。
存在が消えかけているというのは現実的に考えれば理解しがたい話だが、しかし花乃が路上で歌っていて誰も足を止めなかった理由がそれだけで説明される。
花乃の言ったことを盲目的に信じるとして、どうして俺にだけ秋月花乃という存在を認識できるのかという疑問が新たに生まれてくるが、ひとまずそれは置いておくことにしよう。
「えっと、存在が消えかけてるってどういうこと?」
当然の疑問を口にする俺に、しかし花乃は答えを返してはくれなかった。
「へー、君すごいね。普通こんな話されたら頭おかしいって思うものじゃない? よく冷静に話聞けるね」
「そんなの俺が君に対して思うわけない。俺がどれだけ君のこと好きか知ってるだろ?」
「ああ、まあ、そうだけど。でもそれを改まって言われると、ちょっと照れるね」
あんまり照れているようには見えない。花乃は視線を少し逸らしただけだ。
「で、どういうことなの?」
「まあ、少し込み入った話になると思うし、ちょっと場所を移動しない?」
「ああ、じゃあその辺の店にでも――」
と、辺りを見回し始めた俺の言葉を遮って秋月花乃は。
「君の家は?」
澄ました顔でそう言った。
俺はまた少し、音が聞こえなくなった気がした。
* * *
「なるほど、君はマンションで一人暮らしなんだね。じゃあ丁度いいね」
自宅に向けて歩く道中、花乃は俺の住まいについて尋ねてきた。
「それは丁度いいのだろうか……」
「丁度いいんだよ。君は分かってないみたいだから言っておくけど、その辺のお店に入ったら困るのは君なんだからね」
「え? どういうこと?」
「やっぱり分かってなかった」
「説明してよ」
「だからさ、私の存在が消えかけてるって言ったでしょ? つまり私は他の人に認識されないの。だからもし私達が例えばファミレスに入って話してたとしても、周りの人には君が一人で喋ってるようにしか見えないんだよ」
「それは……やばいな」
何がやばいって、他の人から見た俺の姿がやばい。一人で話してるやつには俺だったら近付きたくはない。
「そうでしょ? だから他の人が居なくて落ち着けるところがいいんだよ」
「うーん、そうなのかもしれないけど……」
正直、自分の生活スペースを崇拝するアイドルに見られるなんて恥ずかしいことこの上ない。というのもあるし、女の子を男の部屋に簡単に上げていいのかという心配もある。
当の本人が気にしていないようなので、俺が心配するのはお門違いなのかもしれないが。
「それに、私が久しぶりにくつろぎたいっていうのもあるし」
「久しぶりにって、どういうこと?」
「私しばらく家に帰ってないから」
「それは、なんで?」
「自分の家で、家族に自分が居ないように振る舞われるのは、結構辛いんだよ」
失敗した。
聞いて後悔した。
少し考えれば分かることだったのに、俺が浅はかなせいで花乃に嫌な思いをさせてしまった。
この期に及んで俺が出来るフォローは話題を逸らすことくらいだ。
「だったら、ホテルとか泊まればよかったんじゃないか?」
「ああ、うん……最初はそうしようと思ったんだけど、適当に入ったホテルが普通のホテルじゃなかったみたいで、すごいの見ちゃったから……」
またもや失敗した。
だがしかし、赤面する秋月花乃はとても貴重だ。薄暗い中でも非常に可愛らしい。出来れば明るいところで見たい。
不謹慎ではあるが、この表情を一人占め出来ているという事実は俺をとても喜ばせている。
更に秋月花乃がラブホテルに入ってどこぞのカップルの情事を目撃してしまったという事実も俺を興奮させる。最低だという自覚はあるが、止められる感情でないのは確かだった。
「だから漫画喫茶に泊まってたんだ。でもやっぱり寝心地は良くなかったな」
「存在消えかけてても漫喫に入れるんだな」
どうやって受付をするのだろう、と思ったのだが。
「そりゃあ、普通に入れるよ。私見えないからね」
「ん?」
「ん?」
俺と花乃は顔を見合わせる。
話が噛み合っていない気がするのは、俺だけだろうか。
「お金は?」
「仮に持ってても受け取ってもらえない」
なるほど。
そういう事情であれば仕方ないのかもしれない。
この子が路上で生活するなんて絶対にあってはならないことだし、もしそれを法律が許すのであれば、俺は法律を疑う。
可愛い女の子は守られるべきだ。
「空いてるところを勝手に使わせてもらってたんだけど、途中で入って来られたりするから結構神経使ったなぁ。まあ、別に私が何をしてても見えないんだけどね」
話を聞きながら、俺はそのことについて思考を巡らせていた。
自分以外の人間に存在を認識されなくなる、なんていうことが、本当にあるのだろうか。いや別に、花乃を疑っているわけではない。疑う理由がない。信じる理由は彼女に対する好意で充分だ。
だが現実的に、そんな現象が起きるとは思えない。いやしかし、それは俺の知っている常識の範疇の話で、事実は小説よりも奇なりという言葉もあるし、絶対にないとは言い切れないか。
どちらにせよ、花乃がそう言っているのだからそうに違いない。だがしかし、訳の分からない現象だ。これに対する解決策が俺の凡庸な頭で浮かぶとは思えないが。
もっと詳しく、話を聞く必要があるな。
まあその為に我が家へと向かっているのだが。
「ねえ、聞いてる?」
「え、ああ、ごめん……」
俺が考え事をしている間も、花乃は話を続けていたらしい。なんてことだ、花乃の言葉を聞き逃すなんて。だが花乃のことを考えていて花乃の言葉を聞き逃がしたという状況は、少し贅沢に感じないでもない。
「まあいいけど。で、君の家はまだ?」
花乃に問われた丁度そのタイミングで、住み慣れたマンションが目の前に迫っていた?
「これだけど」
この辺では珍しくもないが、そもそも田舎に住んでいた俺からすればそれなりに大きなマンションだ。築年数がそこまで経過していない綺麗なマンションで、気に入ってはいる。独り身には勿体ないくらいの住まいだが、高い家賃も払えるくらいには働いているという自負があるので、多少の贅沢と思って住み始めて2年程になる。
「これが君の……へぇ、おっきいねぇ」
その台詞には思うところがないでもないが、俺はノーリアクションを心掛ける。
これくらいの建物で花乃が驚くことが意外に思えるが、しかし考えてみれば公式プロフィールにおける花乃の地元は長野県だったはずなので、それを考えれば自然な反応なのかもしれない。
人間の価値観のベースは、生まれ故郷で形成されるものだろう。
俺はマンション出入口のオートロックをカードで解錠し、中にあるエレベーターに花乃を誘導する。
やはり家に女の子を、しかも好きな子を入れるというのは緊張する。
ここまで来て今更ではあるが。
緊張を解すための深呼吸を密かにしてから、俺は12階のボタンを押した。
* * *
「そういえば、君の名前は?」
俺が自室の玄関のドアを解錠したところで、花乃に尋ねられた。
「聞いてなかったよね。握手会に来たときも、名乗られたこともなかったし」
「ああ、そういえば……別に覚えてもらおうとか思ってなかったからなぁ、俺は」
「そうなんだ。私は、私を好きで居てくれる人のことは覚えておきたかったけどね」
さすがは俺の推しメン、そういう姿勢がとても好感を持てる。
「俺は、俺が好きだったらそれで良かったから。俺が君に影響を与える気はなかったんだよ」
「影響?」
「ああ、記憶に残るってことは、その人の人生に少なからず影響を与えることになるだろ」
「まあ、そうかもね。でもじゃあ、あんまり意味なかったね」
「え?」
「だって、名前は知らなくても私は君を覚えてた。だったら、同じことだよ」
「そっか、そうかもな」
覚えていてほしいと思っていたわけではなかったけれど、しかし正直な気持ちを言うのであれば、やはり俺の心には嬉しいという気持ちがあった。
「まあ、とにかく入ってよ。それからゆっくり話そう」
そう言ってドアを開けようとした俺の腕を、花乃はその細い指の割には強い握力で掴んだ。
急な接触に心臓が跳ねる。俺は表情変えないように頑張っていた。いい大人が慌てふためく様は格好の良いものではない。
「その前に、名前を教えて」
「名前が、大事か?」
「うん。家にお邪魔する前に、ちゃんとあなたのことを知っておきたいから」
「高園春樹」
という自分の名前を、俺はこれまで重要視したことはなかったように思う。名前なんて、人間を判別する為のIDみたいなものだと思っていて、特別な思い入れはなかった。花乃に握手会で名乗らなかった理由には、それもあるのかもしれない。
「高園春樹……うん、普通だね」
「普通だよ、悪かったな」
「悪くないよ。普通なのは良いことだよ」
本心なのか、ただのフォローなのか。
どのみち、俺にとって普通というのは善でも悪でもない。普通は普通だ。
勢いで『悪かったな』と言ったが、それは本心ではないので、花乃が気にする必要はない。
「それじゃあ、春樹の家にお邪魔しようかな」
「いきなり呼び捨て……」
「ダメだった?」
ダメなわけがない。ただ、破壊力が高過ぎる。
名前に拘ってないなんていうのは、嘘だったのかもしれない。好きな子に名前を呼ばれるのは、やはりとても嬉しいものだ。
嬉し過ぎて、にやけてしまいそうだった。ただそれが気持ち悪いという自覚はあるので、顔を隠すべく俺はドアに向き直った。
「ダメじゃないよ、別に。それじゃあまあ……狭いですけどどうぞ」
そう言って俺は朝ぶりにドアを開けた。
同じ行動であっても、朝と夜でその感情はまったく違うものだった。
* * *
秋月花乃も、多少は緊張していたのかもしれない。
実はそれなりに自慢でもある家なのだが、そこまでリアクションは大きくなかった。
ただ、
「春樹は結構嘘をつくね」
いきなり嘘つき認定されてしまった。
何故、どうして、俺は何を間違ってしまったのだろうか。
ショックが大きい。俺はこれまで秋月花乃を応援してきて、嘘をつかないことを心掛けてきた。それが誠実だと思って、心にもないことは言わないようにしてきた。
だというのに、1年ぶりに再開してみたら1時間も経たない内に嘘つきになってしまった。
ダイニングキッチンに入ってキッチンの電気を点けたところから足が進まない。思考が、停止寸前だ。
かろうじて視覚だけは機能していて、花乃が薄明かるい俺の家のキッチンに立っているという異常でありながらとても嬉しい風景が映されている。
「どうしたの?」
「え?」
花乃の言葉を無視できる訳もなく、俺は反射的に返事をした。
「いや、なんか固まってるから」
「あ、いや……あの」
悩んでいても仕方ない。
俺がどんな嘘をついたのか、どう花乃を傷つけてしまったのかを、追究しなくてはダメだ。俺に悪いところがあったのなら俺はそれ改善しなくては。
「ごめん、嘘ついて。でも、俺はまだ、何が嘘だったのか分かってないんだ。それで君を傷つけてしまったんだとしたら、それはちゃんと謝らないといけない。だから教えてほしいんだ、俺のついた嘘を」
花乃は少しの間、その澄みきった冬の空のような目で俺をみつめた。息が詰まる。鼓動が速まる。
無表情の花乃の真意がまったく読めなくて、俺の不安が増大し、限界に迎えそうになった頃。
「っぷ! ふふっ、あはははははは!」
花乃は笑った。
それも盛大に。
笑ってくれたことも笑顔を見れたことも嬉しいが、しかし笑われるようなことを言った記憶もない。花乃の中で一体何が起きているのだろうか。女の子は難しい。
俺が目を白黒させている間、花乃はしばらく笑っていた。そしてようやく落ち着くと、花乃は少しだけ俺に近寄った。
「いいね、君。私、君みたいな人嫌いじゃないよ」
「え、ええ!? そ、それは嬉しいけど……でも何がなんだかさっぱり分からないんだが……」
「別に、君はこの部屋を狭いって言ったでしょ? でも私は広いなーって思った。それだけだよ」
「え」
花乃の言葉を脳内で処理する。
途端、恥ずかしさで顔が熱くなる。
「それだけ、なのか?」
「うん。君、真面目なんだね」
花乃は笑っている。
それは本当に大切な笑顔で、それをこうして一人で眺めることが出来る俺は幸せなのだろう。
だが、今この時ばかりは、俺は笑えそうになかった。
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