第3話 猫と歯車は、ビルの狭間で再び出会う。
宵闇よりも黒い髪は流水のように長く真っ直ぐに伸び、フェイスラインはシャープで鼻は高く、肌は彼女の生まれた冬の雪景色を投影したように色白で、目付きは気まぐれな猫のようで。
顔立ちのイメージは矛盾した表現になるが和製フランス人形といった感じで、作り物みたいに綺麗で可愛らしい。
華奢な体躯のその身長は157cmで高過ぎず低すぎず、A型の血液はストイックな性格によく表れている。
俺、高園春樹とは何もかもが違う存在だ。
平々凡々で頭が良いわけでも特別悪いわけでもなく、見てくれが良いわけでも酷く悪いわけでもない。身長も体重もほとんど平均の中肉中背。
大した夢も持たずに大学を卒業して適当な会社に入社、そして今馬車馬のように会社の、そして社会の歯車として働き続けている。
彼女とは、釣り合うべくもない。
そして、釣り合う必要もない。
彼女――
グループ最年少で、人気もトップクラスだった彼女の卒業は、グループのファンのみならずアイドル業界全体に衝撃を与えた。とはいえ、やはり一番ショックを受けたのは彼女のファン達だろう。
そしてその中に、俺も居た。
【1000000/0】、通称『ミリスラ』が結成された5年前から彼女が卒業する去年までの間、俺は一瞬の間も空けることなく彼女のファンだった。
イベントやライブには足しげく通っていたし、働き初めてからの給料のほとんどを秋月花乃やミリスラに対して使っていたといっても過言ではない。
俺は本当に秋月花乃が好きだった。
その感情は決して恋愛ではなかったが、それによく似てもいた。
アイドルのファンは、アイドルと恋人になれないことを知っている。でもそんなことはどうでもいい。好きだから応援する。それだけのことだ。
人間個々人の他者に対する感情は、それが一番シンプルでブラッシュアップされた形だと、俺は思っている。
恋愛は、相手に見返りを求める。
好意に好意を返して欲しいと、願ってしまう。それは決して間違いではない。互いに好き合えるというのは、とても素晴らしいことだ。複雑な社会でそんな人間関係を築けるのは、本当に幸せだと思う。
でも、だからといってアイドルに一方的に好意を寄せることが不毛かと言えば、そんなことはない。
ファンが好意を寄せるからこそ、アイドルはアイドルとして存在出来る。だからファンにとっては、それだけで充分なのだ。自分の好きな人が、好きな場所で生きていける、それだけで自分も幸せになれる。
それは本当に尊い感情ではないだろうか。
しかし、俺はそんな感情を失った。
一年前、秋月花乃が【1000000/0】を卒業した、その時に。
それ以降、イベントにもライブにも行かなくなったし、CDも買わなくなった。俺はミリスラの秋月花乃以外のメンバーにも、グループそのものに対してもそれなりに愛着を持っていたが、しかしそれはやはり秋月花乃という存在があってこそのものだったのだと、思い知らされた。
かつてあったはずの絶対的な、ある種の信仰にも似た想いは、秋月花乃の卒業をもって、綺麗に霧散してしまったのだ。
それからの俺は、ただ仕事をするだけの人間になった。
特別楽しみもなく、ただ惰性で生きる日々を送るようになったきっかけは、間違いなくその出来事だった。
だというのに。
俺の生きる希望そのものだった少女が、今目の前で歌っている。
こんなただの都会の街中で、誰の目にも留まらず、その綺麗な声を星の見えない空の下に響かせている。
自然と、目から溢れるものがあった。
だがそんなことはどうでもよくて、俺は一歩一歩、ゆっくりと彼女に近付いていった。
それは本能的な歩みだ。
生存本能、なのかもしれない。
気付けば、俺だけが彼女の前に立っていた。
本物だ。
見間違えるわけもない。
一年前と何も変わらず、可愛らしく、綺麗で、尊く、輝いている。
一年ぶりに、心に血が通った気がする。
生きている、気がする。
彼女が――花乃が音楽なしにその透き通るような声だけで奏でているのは、彼女が卒業する直前にリリースされたシングルの表題曲だった。俺のミリスラの記憶も、そこで終わっている。
訳も分からなく彼女の歌に、存在に魅了されている内に、どうやら曲は終わりを迎えたようだった。
秋月花乃は、閉じていた目を開いた。その水晶のような瞳に俺が反転して映る。心臓が、破裂しそうに鳴る。音が消えたままの世界で、俺だけにはその音が聞こえている。
「君は、私が見えてるの?」
秋月花乃は、不思議そうな顔で、不思議なことを言った。
俺は口を開こうとして、自分が緊張していることに気付く。歯が震えていた。
それを実感すると同時に、消えていた音が鼓膜に殺到した。
足跡、喧騒、音楽、サイレン、駆動音、風音。
聴覚が正常になった。
夢から覚めたような感覚だったが、けっして夢ではない。
秋月花乃は、まだ俺の目の前に居る。
存在に気を取られて気付かなかったが、白いニットワンピースに黒いショートブーツがよく似合っていた。持っている小さなバッグも、靴と同色の黒だ。
「あ、あ………」
「あれ、君もしかして、握手会に来たことある?」
「え!?」
声を絞りだそうとする横合いに突っ込んできた秋月花乃の思わぬ言葉に俺はつい叫んでしまった。無関心だった行き交う人達も流石に俺に目を向けるが、足を止めるわけでもなくすぐに興味を失って立ち去る。
と、周囲の人間のことなど今はどうだっていい。
今は目の前の少女との会話が最重要案件だ。
「お、覚えてる、んですか?」
「当たり前じゃん。君は初期から来てくれてたし。でもまさか、まだ私を見える人が居るなんて思わなかったよ」
冷静ではない俺の脳では、花乃の言葉がまともに処理できない。どうやら足しげくイベントに通っていた俺のことを記憶の片隅に残してくれていたみたいで、言いようのない喜びだけが俺の心を支配した。
「花乃……花乃さんにまたお会いできて嬉しいです」
「あ、うん。私も、久しぶりに会話が出来て嬉しいよ」
夢みたいだ。
まさかこんな風に、秋月花乃とまた会って話が出来るなんて。しっかり意識してないとへたりこんでしまいそうで、俺は震える足に力を込める。
そうしながら、次の言葉を探す。せっかく奇跡的に再会することが出来たのだから、これだけで終わらせたくはない。と、逸る気持ちに反して言いたいことはすぐに口を突いて出る。
「えっとその、大丈夫でしたか?」
「大丈夫って、何が?」
「その、卒業してから……」
俺は言葉を濁した。
それは確かに聞きたいことではあったが、同時に口に出すのを少し躊躇うことだった。とても気になっていたからつい勢いで口走ってしまったが、花乃にとってはあまり思い出したくないことだったかもしれない。そう心配したのだが。
「ああ、ストーカーのことか」
あまりにも呆気なく、大したことでもないように花乃は言った。
彼女の言う通り、彼女はミリスラに所属している時ストーカーの被害に遭っていた。そして、それこそが彼女の卒業することになった大きな理由だった。俺のようなただのファンには詳細こそ明かされていないが、当時彼女の苦悩は想像に難くなかったので多くのファンが憤慨した。結果ネット上ではストーカーの犯人探しまで行われたのだが、結局解決に至るより先に秋月花乃の卒業が発表されたのだった。
「うん、大丈夫だよ。グループを卒業してから私実家に戻ったんだけど、そうしたらストーカーもパッタリなくなったんだ。まあそれよりも今は、別の問題があるんだけどね……。あ、心配してくれてありがとうね」
「そんな、心配するなんて当たり前ですよ……ファンなんで」
特別感情が込もっているわけじゃないことは分かるのに、どうして好きな人に言われる『ありがとう』はこんなにも嬉しいのだろう。
俺は照れ隠しに、逸らしたくないのに視線を逸らした。
「うーん」
そこで急に、花乃が唸り声を上げた。
俺は反射的に視線を戻せて助かるが、その理由が分からなくて戸惑う。
花乃は可愛く小首を傾げていた。
そして俺がそんな花乃に見蕩れている間に、制限時間は過ぎてしまったようだ。
「君さ、前に握手会来てたときは敬語じゃなかったよね?」
「え、あ、ああ……そういえば」
なるほど、そういうことか。
「いや、緊張でつい……。というか、タメ口きいてもいいんですか……?」
「え、それはまあ、うん。ていうか私の方が年下だしね? 本当は私が敬語使うべきなんだよね」
確かに花乃の言う通り、25歳の俺に対し、花乃は今18歳のはずではあるが。
「いや、それはだって、花乃はアイドルだから……」
「もうアイドルじゃないよ。でもアイドルだったときの癖が抜けないんだよね。年齢とか関係なくファンの人にはタメ口だったから、つい」
「まあ、ファンはタメ口の方が喜びますから……じゃなくて、喜ぶからな。俺もタメ口の方が嬉しいよ」
「お、やっと戻ったね。うん、その感じだったよね、君は。君がそう言うなら私もタメ口にしちゃうけど、でも社会に出るなら気を付けないとね……って、今はそんな心配をしてる場合じゃないんだけどさ」
そうか、花乃はこの春高校を卒業したはずだ。彼女の進路がどうなっているのかは知る由もないが社会に出るにしろ大学に進学するにしろ、確かに礼儀は重要になってくるかもしれない。
とはいえ、未だに秋月花乃が普通に社会人として会社で働くというのは違和感しかないし、個人的には嫌だという気持ちが強い。
まあ俺がどう思おうが、彼女の知ったことではないだろうが。
それより、だ。そんな不毛なことを考えるよりも、さっきからずっと引っ掛かっていることがあるのだ。
「なんか、困ってるの?」
そういう口振りだった。
それを差し引いても、冷静に考えればおかしなことが多い。
この有名な秋月花乃が、何故こんな場所で、こんな時間に一人で歌っているにだろうか。
そしてさらにおかしいのは、秋月花乃が歌っているというのに、俺以外に足を止めている人が居ないことだ。
【
何が、なんで、どうして。
考えても答えは浮かばない。
だがやはり、俺が考えるまでもなく、答え合わせは行われる。答えは、他でもない彼女が持っていた。
「そう、困ってる。私、存在が消えかけてるみたいなんだ」
「は?」
花乃の突拍子もない言葉に頭は混乱に陥る。それでも疑う気持ちはひとかけらも浮かばなかった。
今でも、彼女の言うことなら俺は無条件で信じることが出来る。
そんな場合ではないと思いつつも、その信仰じみた思考を失くしていなかったことに、俺は心の底から安堵していた。
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