第2話 何もない夜空の下、君は高らかに歌う。
夕飯は麺類に決定した。
悩むまでもなかった。
というか、悩ませてももらえなかった。
近くに永濱がたまに行くお蕎麦屋さんがあるとかで、いつの間にかそこに行くことが決まっていた。
永濱がトイレに行っている間に俺はパソコンの画面で繰り広げていた作業を全て保存し、パソコンの本体をシャットダウン。荷物をまとめ終えたところで丁度永濱が戻ってきたので、エレベーターに乗って今まで居た8階から1階までノンストップで降りて、二人揃って会社を出る。
社員の誰にも遭遇しなかったのは幸いだった。
俺と永濱が並んで歩いているところなど見られたら、明日社内ではその噂が独り歩きするだろう。
多少自意識過剰かもしれないが、しかし人間というのは兎角他人の噂話が好きなのだ。日常の話題の7割くらいはそれで占められているのではないかと思えてくるほどだ。
そういう理由で安堵しながら、永濱と都会の夜を歩く。永濱は道中本当に楽しそうで、エピソードトークが止まらなかった。
ほんの少しだけ冬の冷たさを残した春風を心地よく感じたこともあって、俺も悪い気はしなかった。
10分ほどで目的の蕎麦屋に到着する。
それは蕎麦屋だけあって老舗に思える和風木造の佇まいだったが、すぐ傍にビルが立っていても違和感なく馴染んでいるように感じるから不思議だった。或いは、俺自身がこの街に馴染んでしまったからそう思えるのかもしれないが。
店内は明る過ぎず暗過ぎずの光量の落ち着く雰囲気で、居心地は良さそうだと思った。
俺と永濱は研修中の札を付けた店員によって一番奥の角の席に案内され、腰を落ち着けた。
そこまで迷うこともなく俺は鴨せいろそばを、永濱は月見そばを注文した。
店員の置いていった水の入ったグラスに口を付けていると、永濱が不意に声を掛けてくる。
「ねえ先輩、先輩は趣味とかってないんですか?」
「なんで急にそんなことを?」
「いや、さっき私生活がつまらない、みたいなことを言ってたじゃないですか。趣味とかあったら楽しいこともあるのになって」
「趣味か、趣味ねえ」
俺は意図して嫌そうな顔をする。
出来ればその話題は話したくはなかった。
「ないよ、特に」
嘘ではない。だが詳細を語ると今の言葉の枕に『今は』という言葉が付く。
今これといった趣味はないが、昔はあった。俺にも、楽しい時間が。
「はあ。それはつまらないでしょうねえ。じゃあ、こういうのはどうです? 先輩は私と遊ぶのを趣味にするっていうのは」
「お前“で”遊ぶ、なら考えてもいい」
悪い顔を作って言ってやるが、案の定。
「え、いいんですか?」
永濱は嬉しそうに笑う。
「玩具にされて喜ぶんじゃない、ドMか」
「ふふ、先輩が望むんでしたら私は奴隷にも女王様にもなりますよ?」
この後輩には、もっと自分の発言の危険性を教えてやった方がいいな。
とはいえ、それを俺がやるつもりはない。それは同じ部署の先輩がやればいい仕事だ。
「俺は何も望まん」
「えー」
永濱はつまらなそうでいて、いじけたようでもある。あからさまに頬を膨らませるのを
「先輩、今日金曜ですよね?」
さっさと機嫌を戻したらしい。気持ちの切り替えが早いことには好感を持てるというか、羨ましく思える。俺は一年も前のことを未だに引きずっているのだ。
「ああ、そうだな」
今日は週末、俗に言う花の金曜日だ。どこの誰が言い出したのか知らないが、しかし今の俺にとって週末はそんな鮮やかさを感じない。
明日から2日間をどう過ごすか、とても悩ましい。仕事がないと何をしていいのか分からない。
幸い天気はあまり良くないらしいので、家に引きこもっていても気が滅入ることがないのが、せめてもの救いだ。
「明日、私とどこか遊びに行きませんか、先輩」
「明日は朝から雨だぞ?」
雨の日はたとえ用があっても積極的に出掛けたいとは思わない。俺は基本的に屋外が好きじゃないのかもしれない。
「雨だからって出掛けちゃいけないっていうことはないですよ。それに雨だからこそ楽しめることもあります」
非常に前向きで良いことではあるが、しかし残念ながら俺の価値観に影響を与えることはない。
「うーん、明日はちょっとなあ」
「何か用があるんですか?」
「ああ、非常に大事な予定があるんだ」
「それが何か聞いても?」
「うん、家の掃除でもしようかなって」
「そんなのいつでも出来るじゃないですか!」
「いや、家の片付けってやろうと思ったときにやらないとズルズルと後回しにしちゃったりするだろ? だから明日やらないと」
「却下です」
こいつはいつから俺の予定を却下する権限を手に入れたのだろうか。
「ねえ先輩私とデートしましょうよー。プランは全部私が考えますから!」
うーん、どうしたものか。
正直気は乗らないままだが、しかし永濱がしつこいことは痛いほど知っているし、ここまで言ってくれる後輩の誘いを断るのは相手が永濱であろうと俺の良心もさすがに少しは痛む。とはいえ、雨の日に出掛けるのはやはり億劫だ。
「じゃ、じゃあ! こういうのはいかがでしょう、先輩」
また新たな誘い文句を思いついたのだろうか。永濱はいつになく真剣な顔で俺を見つめていた。俺も永濱の目を見つめ返し、次の言葉を待つ。
小さく深呼吸をしてから、永濱はその小さな口を開いた。
「明日私とデートしてくれたら……」
「デートしてくれたら?」
「先輩のしてほしいこと、なんでも一つだけ、私がしてあげます!」
年頃の女子が提供する交渉の条件として、これ以上のものはないだろう。俺の冷めた心も少しだけ揺れる。
「え、お前、マジで言ってるのか?」
「ま、マジです!」
「自分が何言ってるのか分かってるんだよな?」
「当たり前です!」
「なんでもって、エロいことでもいいのか?」
「え、エロっ!?」
俺の言葉にあからさまに動揺した永濱は顔を赤くしながらも、羞恥に耐えるように頭を振る。そして再び、俺にまっすぐと目を向けた。
「その……どこまで出来るか分からないけど、でも、がんばります!」
「ふーん」
俺は表情を変えずに、品定めをするように永濱を見る。可愛い後輩がここまで言ってくれているのだから、応えてやるのが先輩の務めなのかもしれないな。
「却下、だな」
だがしかし、俺の答えは却下だった。
「うぅ……ここまで言ってもダメですか」
永濱はうなだれた。本気で落ち込んでいるようで、その華奢な肩を震わせている。
俺は溜め息を吐く。
あんまり後輩を虐めるのもよくないか。コンプライアンスの厳しい社会だしな。
「永濱」
「はい……」
「明日、遊びに行くか」
「へ?」
間抜けな声を出しながら、永濱は顔を上げる。その目にはほんのりと涙が浮かんでいた。
危ない、マジで泣かせるところだった。
「明日、どっか行こうぜ」
「い、いいんですか!?」
「まあ、どこ行くかはお前に任せるけど。あと、一つだけ条件がある」
「条件?」
「ああ。今後は、なんでもするなんて簡単に言わないこと。お前はそれなりに可愛いんだから、他の男だったらどんな要求されるか分からん。気をつけろよ」
「ふふふ」
「おい、何がおかしいんだ」
まったく、先輩が注意してるというのに笑うなんて、あってはならないことだ。
「先輩、私のこと可愛いと思ってたんですね」
しまった、気を抜いた。完全に失言だ。いやしかし、まだ間に合う。
「か、勘違いするなよ! 後輩として可愛いってだけでお前のこと好きとかそんなんじゃないんだからな!?」
「ツンデレですか? ふふ、まあ私は後輩として可愛がってもらえるのも嬉しいので、どちらにしてもありがとうございます♪」
不覚だ。
永濱を喜ばせてしまったことも、永濱の笑顔を可愛いと思ってしまったことも。
しかし、かろうじてその精神的敗北感を顔に出さずに耐えていたその時、注文した蕎麦が運ばれて来た。
よく考えてみれば、蕎麦を食べるのは久しぶりだった。
* * *
美味しい蕎麦屋だった。
鼻に抜ける蕎麦の香りが、遠い昔にお祖母ちゃんちで食べたあの日の蕎麦をフラッシュバックさせる、そんな郷愁の味だった。
今度一人でも来てみようかなと思いながら店を後にする。さすがに先輩なので永濱の分もお金を払った。
永濱は柄にもなく本気で遠慮していたが、有無を言わさず俺は支払いを済ませた。別に永濱の為じゃない。後輩の蕎麦代くらい払ってやれる人間で居たいと、俺が思っているだけだ。
だからそれは俺のプライドの問題で、永濱が遠慮する必要など一つもない。或いは、永濱も自身のプライドの問題で遠慮をしていたのかもしれなく、そうだとしたら俺は永濱のプライドを侵害してしまったのかもしれないが、そんなことは知ったことではない。
俺が代金を支払った代わりに、永濱は少しばかりプライドを削っただけだ。等価交換だ。
永濱の削られたプライドが、蕎麦の代金と等しければの話だが。
しかしその後の永濱は普段通りの元気さを見せつけてきたので、不機嫌ということはなさそうだった。というかむしろご機嫌に見えるのは明日の約束が効いているのかもしれない。
近くの駅で永濱と別れた。
俺は徒歩通勤なので電車に乗る必要はなかったが、永濱は二駅となりに住んでいるので一応駅まで送った。夜ももう21時を回っている。女子が一人で歩くには、いささか不安になる頃合いだろう。
別れ際、『明日のことは後で連絡するので、絶対に忘れないでくださいね』と釘を刺された。俺は軽くあしらって、手を振る永濱に掌を向けるだけで返した。
そして今、駅前の都会にありがちな巨大な歩道橋を一人で歩く。
もう6、7年程この街に住んでいても名前の分からないビルに貼り付いた巨大なディスプレイの中で、総勢十数人のアイドルグループが歌を歌っていた。俺は立ち止まって、それをしばらく眺める。
そのグループのことはよく知っていた。現在15人居るメンバー全員の名前をフルネームで言えるくらいに知っていた。だがしかし、流れているメロディーに聞き覚えはない。
きっと新曲なのだと思う。俺が知っている曲は、一年前にリリースされた楽曲までだ。
歌っている彼女達を見ると、今でも胸が苦しくなる。
足りない、足りなすぎて、泣きそうになる。
俺が求めていた輝きはとうに失われてしまったのだ。
それでも、知らない旋律に乗った歌詞が、心に突き刺さる。
それは失恋をテーマにした歌のようだった。
俺は別に失恋をしたわけではなかったが、でもそれによく似ているのだと思う。
とても良い曲だ。きっと自分と重ならなくても共感できる、そんな曲だ。
それでもCDを買う気にはならない。買う理由が、見当たらない。
一年前、たった一つのきっかけで彼女達に対する熱が冷めてしまった自分が、酷く薄情に感じた。そんな自分になりたくはなかったが、しかしもうどうしようもなかった。
好きだと嘘をつき続けることは出来た。でもそれで得をする人間は一人も居なかった。
俺は自分にも、彼女達にも嘘をつくことになるのだ。虚構の想いに、どれほどの意味があるのだろうか。
偽りの応援が、どれだけ彼女達の力になるのだろうか。
それを考えてしまうと、嘘をつくという選択肢は自然的に消滅した。
意識が過去から戻る。
まだ歌は続いている。
それを最後まで聞き届けることなく、俺はディスプレイに背を向け足を踏み出した。
そして音が消えた。
いや、違う。
俺の意識が、意図的に周囲の音のほとんどをシャットアウトした。
周囲の雑踏から聞こえていた喧騒や足音、ホームから発車する電車の音、さっきまで聴いていた音楽も、俺の世界からは消えていた。
何かが聞こえた。
それを、聞き逃しちゃいけないと思った。
何を。
俺は何を聞いたというのだろうか。
耳を澄ます。
音のない世界でたった一つの音を探す。
感情のどこかに、その音は、声は、引っ掛かっていた。きっとそれは、もう直接聞くことは出来ないはずの、どうしようもなく切実に、かつて追い求めていたはずの大切な声。
俺は周囲を見渡す。
音のない世界に、人々は変わらずに行き交っている。やはり足音は聞こえない。
夜だというのに四方八方から人工的な光が襲いかかってきて目を眩ませようとしてくるが、しかしそんなものは今気にならない。
俺は何故か、必死だった。
地獄の底で、垂らされた細い糸を掴もうとするように、愚かしくも手を伸ばそうとしていた。
また今、聞こえた。
確かに、あの尊い声音が。
声が聞こえたと思われる方向に目を向ける。そこには相変わらずの人だかり。
だがしかし、次の瞬間まるで風が雲を散らすように、群衆の波が途切れた。まるで何かの魔法のようだった。
昔やった大作RPGの召喚術を思い出した。
実際にはエフェクトが効いているわけでもないし、派手な演出がされていたりもしなかっただろう。
それでも俺には、その姿が今しがた降臨した天使のように見えた。
はためいた翼の音と、辺りに舞う白い羽が、確かに見えた。
彼女――秋月花乃は。
星の光の届かない空に、高らかに懐かしいメロディーを捧げていた。
久しぶりに耳にしたそのメロディーは、讃美歌のようだった。
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