序章 第三話

 都に上ることを決めた日夜子は、朔子にそれを伝えた。無論、おどされていることなど口にできるわけもなく、「どうしても斉の者が行かねばならない」「宮の外に住み、お役目を伝える」などとうそを並べた。それでも、朔子は孝保をひどくきらった。たった一人の姉をこの村と自分から取り上げるからだけではない。彼の態度のせいだった。

「明日の出立のたくはお済みですか」

 孝保が声をかける。

 朔子の前では多少ていねいに日夜子と接するが、へりくだったふるまいをしていても、孝保は自分が優位にあることをわかっていたし、それを態度で示していた。このちゆうはんな態度は、直接何も言わずとも、日夜子に、周りの者を人質に取られていることを思い起こさせた。

すでに済んでいます」

「もっと支度に時が必要かと思っていましたが、そんな必要はなかったようだ」

 宮中に持っていくような物など何もないと暗にあざけっているようだったが、日夜子はそんなことでいきどおる娘ではない。ふもとの村は作物の育ちが悪く、厳しい暮らしをいられている。日夜子の父は祖父から送られていたろくを、村に水を引いたり、土地を耕す牛馬を買う費用にてていた。日夜子も父にならい、村のためを思って生きてきた。家格に合わせて自分たちだけぜいたくに暮らすことなど、じこそすれほこるように育てられてはいない。

 孝保は日夜子と朔子に笑顔を見せる。

「お社のことは気になさらぬよう。藤野とえんのある神官が、代わりにこの社に仕えます。朔子様が心配でしょうから、神官は麓から通わせることにしましょう」

 それはつまり、日夜子と孝保のいない間、朔子たちをかんする人間を置くということだ。

 自分が都に行きさえすれば、それで終わりなのではない。宮中でも日夜子が孝保の指示に従わなければ、この男はまた朔子や村人をたてにとって脅し続ける。

 日夜子は胸がつぶれそうで、それでも表情には出さなかった。自分がこれから何をするのか、孝保に何を強いられているのか、朔子に気取られてはいけない。それだけはけねばならなかった。何でもない簡単な務めだと大事な人に信じさせ、そして、宮中ではすべてをうまくやり通さなくてはならない。

「孝保殿」

 日夜子が呼ぶと孝保は視線を日夜子に向けた。

「何でしょうか?」

「一つ、準備を忘れておりました。麓へ下り、村のみなをここへ集めてください」

 いぶかしむような顔をしながらも、孝保は一つ頭を下げ、社を出てその先の鳥居をくぐり、山を下りて行った。

「朔子は千早を取ってきて」

 朔子はうなずき社を出る。

 だんなら朔子を働かせず自分の手で取りに行くが、今はこの社で、一人にならなければいけない。

 毎日、ただ次の代に正確に伝えるためだけに、祝詞のりとまい、清めの神事をり返してきた。この空の社で、何かをいのったことはない。いつも、誰かの為に何をすべきかだけ考えてきた。これからは、いくらそれを考えても、自分の手で彼らを助けることはできなくなる。

 十三の時は、自ら行くと言い張ったお役目だった。日夜子では国を乱すと、父にそう言われたことはまだ彼女の胸にさり、時折鋭く痛む。両親が亡くなってからは、もはや神などこの社だけでなく、どこにもいないような気がした。

 帳をくぐり、ゆかに置いてある矛を手に取る。常から神体のあるべき場所に置いておくのははばかられたのだ。それを神体の代わりにえ、帳を出る。

「ねえさま」

 もどってきた朔子から、白絹で出来た千早を受け取り、身にまとう。

 頭に花や飾りを身に着けることもあるようだが、斉の神官は神事の際に身を飾ることはしない。

 祝詞を唱えるうちに、孝保にともなわれて村人たちが集まってくる。祝詞を終えると、振り返って社の外に集まっている皆に向き合った。がおで、明るい声で、そう努めた。

「これから、村のことは吉万呂に任せます。あと、朔子のことを、よろしくたのみます。あと……」

 声がかすかに震える。だいじよう、笑えているはずだ。そう思うのに、顔をくもらせた大人たちや泣きそうな子どもたちを見ていると、自分がうまくふるまえているか自信がなくなる。朔子もそでで目元をかくしている。

 朔子と、この人たちを守りたい。そのおもいだけがはっきりと強くなっていった。

 もう一度笑って、明るい声を出そうとした。みっともなく震えた。

「あと……、私たちを今まで育ててくれてありがとう。みんな……、っ、大好き」

 最後には、もうそれしか言えなかった。皆も、日夜子の普段のかたい態度や口調がその責務によるもので、彼女が本当は普通の少女だと知っていた。心がやわらかく、だれかのために強くあろうとする、ただのやさしい娘だと。

 日夜子は感謝を込めて手をついて頭を下げる。ふっと息をつくと日夜子は立ち上がった。

 しばし、誰もが音を立てなかった。草木や鳥さえもえんりよしているようだった。

 タン! と床をむ音がひびく。その後、すべるように足が動く。身に着けた千早がふわりと風をはらみ、束ねた長いくろかみれる。

 父のうれいだった自分、神のいない社、そして、わが身を男といつわって、宮中に上がろうとしている。この舞さえ、日夜子がおどるためではなく、人に伝えるために教わったに過ぎない。自分の人生に本当のものなど何もないような気がした。

 でも、はなれてしまう妹が、家族に等しい皆が、息災であるように。その願いだけは、偽りではなかった。

 うと周りから音が消える。この時間が短いのか長いのかさえ感じなくなる。自分がき通っていくような感覚だけが、満ちていく。

 静かに、舞が終わる。皆が自分を見ていた。

「みんな、息災で」

 朔子が顔をおおって、家へとけだした。吉万呂は深く頭を下げ、何も言わずに鳥居へと去っていく。皆頭を下げたり、何か言いたげな顔はしても、何も言わず山を下りて行った。

 最後に残った孝保を見ると、彼はほうけたような顔をしていて、日夜子と目が合ったことにもしばらくしてから気づいたように、狼狽うろたえて目をらした。

「準備はこれで済みました」

 日夜子が言っても、孝保はしばらく答えなかった。彼女はさらに言葉を重ねた。

「明日の夜明けに出立でいいですか」

「あぁ」

 孝保は目を逸らしたままだった。そして、顔を上げ、日夜子を見る。いつもとちがう、目をしていた。

づきと名乗れ」

「はい?」

 一度きつく目をせた孝保は、まぶたを開いた時にはいつもの冷たい表情に戻っていた。

「日夜子と名乗れるわけがないだろう。陽月とでも名乗っておけ。陽光の陽に、月夜の月だ」

 それだけ言うと、孝保も立ち去った。

 元の名前からとったとおぼしい名だった。それでも、別の名だ。この先、日夜子の名を名乗ることは、二度とないかもしれない。

「……斉、陽月」

 口にしても、他人の名を呼ぶようだった。

 ──もう、日夜子の名は、捨てる。

 陽月。

 故郷も名も、全て捨てるさびしさなど、朔子や皆の命の重さには比べられない。

 ただ、軽いものだとも、思い切れなかった。

 たった一人、社の内で立ちくす日夜子、今はもう、陽月だ。その耳に、鳥の飛び去る羽音が響く。よく鳥居の上で羽を休めるからすだろうか。

 皆、行ってしまった。旅立つのは自分なのに、置き去られた子どものように心細かった。

 彼らと離れるのが、寂しい。

「どうか、息災で」

 祈るような言葉を聞き届けるものは何もなく、静かなれの音だけがした。

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