1──神のまにまに 第三話
放たれた矢が、正しく
天狼の姫が弓を引いたときはいつもそうだ。
選ばれた
くすんだような毛色のうさぎが矢を受け入れて、小さな悲鳴をあげた。真珠は同時に息を
その
しかし、今回もそんな予想外のことは起こらなかった。
いつものことだった。
肉に食い込んだ矢を一気に引き抜くが、あふれ出るはずの
「おいき」
柔らかな冬毛をひとなですると、黒ずんでいた毛並みも純白へと変わる。うさぎは今気がついたかのように大きく
「姫宮さま、ありがとうございます」
薄く雪の積もった冷たい土に
「礼など必要ない。これが私の役目だ」
「本当に、あのころから少しもお変わりになりませんね」
「お前は……」
「もう宮を辞して三十年になります」
かつて少女だったはずの
「今は宮のほど近くの集落で暮らしております。姫宮さまに拾われたも同然の私は、帰る場所もゆく場所もありませぬゆえ」
「そうか、三十年前。だがすまない、私はもう通り過ぎる人のだれも覚えないことにしているのだよ」
「姫宮さまは
涙さえ流して、女は言う。
神を
しかし、それこそが真珠の日常でもあった。
「それにしても、いったいどうしたことでしょう。
「昨日から天狼さまがお帰りになっている。それゆえだろう。三百年に一度、神界へお帰りになる、
それにしても、瘴気がここまで這い寄るのが早すぎる。
言葉の後半はなんとか飲み下した。
「案ずるな。天狼さまが
感に
「不足か?」
「いいえ、いいえ!」
必死に首を
「姫宮さまっ」
足元は
「姫宮さま、宮から遠く
「瘴気がこの山にまで
「その女が恐れ多くも姫宮さまに
今にも手打ちにしてくれると言わんばかりの
「どこが悪い。私は天狼さまの
瘴気は大地から
動物に瘴気が宿ったのなら、人への伝播はもうすぐそこだ。侍女もそれをわかっているから、さすがに視線の厳しさを改めた。
「……ご無礼を」
「よい。いずれにしろ、私の不徳の
「またそのような。ところで姫宮さま、そろそろお時間でございます」
「時間? なんの」
言いながら、真珠は女にさっさと行けと目配せしてやる。
侍女は
「お前は、なんだ」
どうした、と問うつもりだった。
けれども真珠の口から転がり出たのは目の前の女の本質を問う言葉だ。
侍女は動きを止め、そうして
あまりの作り物めいた表情に、真珠の
「お客様がいらしております。姫宮さま、お早く」
冬の終わりでさほど雪も深くない。それどころか今年の冬は例年に比べて暖かく、ここ最近は一足飛びにやってきた春のような日差しのせいもあって一度降った雪がもう
すっ転んで
いつになく、空気が
「
宮が見えてようやく手を放した侍女に問う。
答えを返したのは
「姫宮さま、宮へお戻りくださいませ。侍女どももみな下がれっ」
「琥珀?」
慌てて
なにかあったのか。
問う前に男が目の前に
「何者か」
男は
「姫宮さまに奏上したきことありまして、
通常、この宮には女しか近寄れない。真珠が我が身から少しでも銀狼という存在を遠ざけるために、すべての男はこの宮に近づくことまかりならずと
この国
「無礼は承知の上でございます」
なにとぞ。
さらに額を地にこすりつける武者に真珠は眉根を寄せた。承知で禁を破ったと言うのなら理由を聞くべきだと思い、不快を
「なんだ」
武者は低く返事をして
「山城透輝がこの宮にのりこんできております」
今、何と言ったのだ。
「誰が、のりこんできている、と?」
天狼の姫の
あんまりにも
「この宮を落とそうというのか、正気の
「姫宮さま、惟月様を銀狼と認めるとの触れを急ぎ出されませ。さすればこの山に
もう去れ、と手ぶりで追い払おうとしたが、武者はなおも顔を上げずに勝手なことをつらつら述べる。
まてまてまて。
何を言い出しているんだ。
真珠は
惟月というのは確か、当代の山城の弟であったはず、と真珠は頭の中で関係図を引っ張り出す。
父王に愛されて順を乱して惟月が
頭の中で
「私は惟月なる者は知らぬ。銀狼だと? それでは私が顔も知らぬ惟月とやらと
早口に言い放つ。
「いいえ、あなた様は惟月様を当代の銀狼としてお認めになるのです」
なにを言うのだ、この男は!
とうとう真珠は
「お前は
付き合っていられない。
真珠は眼前に立ちふさがるすべての者に命じた。
「さがれ。不快だ」
なにとぞ、なにとぞ。
犬でも追い払うかのように手を
「放せ、無礼者」
一言でもって切って捨てる。冷や水を浴びせたに等しい。
「天狼の
「姫宮さま」
「早く手を放せ。これ以上、
従順な
しかし、男は
「ご無礼を」
無礼だと? それどころの問題じゃないだろうが。
いっそ
「お前、誰に切っ先を向けているのか理解しているか」
「無礼は承知ですが、姫宮さまには我々に従っていただきます。惟月様の妻になっていただきたい」
「馬鹿も休み休み言え。なぜ、私が簒奪者の夫を持たねばならんのだ。お前ごときが私に命じるか、笑わせるな」
「
「だから、誰に向かってものを言っている。女子供に
やけになっているというよりは、
「これ以上しゃべらないでください。手元が
言いながら、
遠巻きに見ている
「やってみるがいい。お前の上等な主もお前たちが
そうだ。運命すらも。
『全部おいていけ』
夢の言葉が脳内に
「私は私以外には従わぬ」
真珠の不敵な宣言に
「あんまり、というのはこういうことか」
知らぬ声が響くと同時に
深い
瞬間、刀を向けていた武者が、
もっと
男はごく平静だった。足元に転がる武者に見向きもせず、かわりに真珠をじっと見つめていた。
見つめてくる
野生の狼のようだ。
まっすぐな
が、真珠が一目見て言葉を失ったのは
お姉様っ!
瞬間、叫びだそうとするのをこらえられたのは
決してまったく同じ顔というわけではないのに、
なぜ、目の前の男に私のお姉様の
「あんたが天狼の姫とやらか」
姉とは似ても似つかぬ
「宮の者ともども
思いっきり胸をそらすが、男の
しかし、結果ではなく何事も心意気というものが大事である。
「山城家が当主、透輝だ。天狼の姫の
軽く頭を下げる様がまったく悪びれていない。
「私は当代の姫、真珠である。山城の、許す」
こちらもふてぶてしさを前面に押し出して許しを
山城の当主、ということは真珠の見立て通り、この男が
「お許しをいただけて有り
「なんだ、私が疑われているのか」
「言葉をいくら
「覚えのないことだな。仮に私がその弟
「愚弟ともどもこの宮を
「俺は俺に
「言葉通りであれば同感だな」
「今一度問うが、何を企んでいる」
「知らぬ。覚えがない」
事実として、惟月はもう真珠という存在を大義名分として利用している。兵を連れているのだから、いま真珠の口から「
じょおぉぉぉだんじゃない。ご
かつて
「
大いにため息をついて、透輝は真珠を
「
「どういう風の
「あんたが認めようとしないのなら、疑わしきを
真珠は
透輝が
「なるほど、私をただの女のように
言葉の意味を正確に
「姫宮さま、なんということをっ」
悲鳴を上げ、すがりつく。
「ご乱心遊ばされましたか。かような者と
「私の決定だ、くつがえらぬ」
ばつが悪そうに
「……作法に
「ずいぶんと
その
「なにがおかしい」
「そんなわけはなかろうと思ったのだ。私がただでお前との婚姻を
「なにか
「お前、透輝とかいったか」
やれやれ。
真珠はわざと
「私のことを知らんのか。天狼の
「あいにく、神を信じていない不心得者だからな。いずれにしろ
「神とはどこに宿るか知っているか」
一歩、真珠は歩を進める。脈々と受け
「善なる心? 美しき行い? それとも
「あんた……」
透輝もそのあたりの危険性を考えていなかったわけではあるまい。それを引き
お前がうっかり作ろうとしている敵はさほど甘いものではないと真珠は親切にも教えてやっているのだ。
「武人とただの民草では兵力が違うなどと、
人は己の根幹に
「で、教えてほしいのだが、ここまで言ってもお前が主導権を握っていると本当に思っているのか、心から?」
「なるほどな。ただのお姫様じゃないようだ」
軽い口調とは裏腹に、透輝の言葉はわずかばかりの苦さが
在位百五十年を
「
「なにが望みだ」
「望み? お前は王としての役目を果たせ。私は天狼の姫としての役目を果たし続ける。ただそれだけだ。私とお前は今この
すべてはただの取引だ。
透輝はしばし考え込む
「ことが終わった時、あんたが俺の首を
「それこそ考えるだけ
「どうにもそちらさんに都合がよすぎやしませんかね。ひとつきここにいろだの、用がすめば
先ほどまで姿は見えていなかったのにどこから現れたものか。それにずいぶんと血の
「あんた、お人よしも
殺気を
「こともなし? 笑わせるな。惟月とやらを拘束するだのなんだのは好きにすればいい。だが、この宮を巻き込むな。巻き込んだ瞬間、私が号令をかけて
「神に仕えさせるには
「どういう意味だ」
「それほどの
合意を得られた、ということか。
透輝の言い方に
「なら一つ忠告しておこうか」
「なんだ」
「見ての通り、私は美しい」
「……は?」
ぽかんと口を開けたままの透輝に、真珠は一つ大きく頷いた。
「
透輝は
「あんた、ちょっとおもしろすぎやしないか」
ため息と同時に
「
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます