「<しるしあれ>!!」


定家の口から放たれた火球が、

化け物めがけて一直線に飛んでゆく!


「おぉ!」


火球は草を薙ぎ、木々を払いながら、

黒い虎に向かってゆく。


「ふふ。」


だ、が、


ガサッ!


「ああ!避けられました!」


虎が草むらに飛び込んだ。

2人に緊張が走る。


「…。」


カサッ

叫ぶ吉兵衛。


「あっちです!」


「<しるしあれ>!!」


さっきよりも速球のものが放たれる。

だが化け物はそれをヒラリと躱して見せた。


「向こうです!」


「<しるしあれ>!!」


今度も当たらない。


「ぐぅ、ちょこまかと…。」


その時であった。

息を切らす定家に向かって

待ってましたと言わんばかりに

猛突進してきたのは!


「なぬ!?」


黒い虎がその爪をギラリと光らせる。


「定家サマ!危ない!」


定家に飛び込む吉兵衛。

2人はふっとんだ。

そのおかげで間一髪、

鋭い爪を避けることができたようだ。


だが、


「こ、腰が…。」


定家が尻もちをついたまま

動かなくなってしまった。


「えぇっ!?」


自慢の一撃を避けられた虎、

しかめっ面で振り返ると、

往復して第二撃をかけようと

一気に迫って来る!


「こ、殺される!」


「あわれ!マロは死ぬのか!

 辞世の句を詠まねば!

 大空は——」


あぁ、定家は次の句を考えるのに必死なようだ。

対して吉兵衛は、まだ死ぬまいと

両方の人差し指を、

こめかみにねじ込んでぐりぐりと回した。


「はっ!」


吉兵衛が何かを思いついたようである。


「定家どの、お許しを!」


吉兵衛は定家の袖に手を差し込むと、

そこから[柏木]を抜き取った。


「何をする!マロの宝を盗るでない!

 このチビ助!」


虎はすぐそこまで飛び込んできていた。

対する吉兵衛、瞬く間に、

[柏木]を開き、手を前で構える。


「<しるしあれ>!!!」


叫ぶ。すると、

一気に地面が潤いにあふれ、

虎の前足が土壌に突っ込む。


「グ…。」


「定家どの、今です!」


「見直したぞ吉兵衛!

 <しるしあれ>!!」


定家が放った今日最大の炎が

化け物の体を覆いつくす!


「グォォォお!」


黒い虎は次第に形を失い、

一冊の本の姿へと戻った。

振り返る吉兵衛。


「定家どの、お怪我は…」


「どけ!」


定家が吉兵衛を押しのける。


「えぇっ!?」


定家は面に落ちた

一冊を拾い上げると、


「こ、これは素晴らしい!

 [若紫]じゃ!」


「なにか良いものでございましたか?」


質問は彼の耳に届いていない。


「き、吉兵衛!これで

 この本を譲っておくれ!」


定家は袖の中から片手で

ぎりぎり持てる大きさの

袋を取りだすと、

吉兵衛の手の上にギュッと乗せた。


「こ、これは全て金ですか!?

 う、受け取れません!」


「いいのじゃ!

 お前は切れ者じゃから、

 商売でも始めるといい!

 ではな!」


「あぁっ!定家どの!」


吉兵衛の手から[柏木]を奪い取ると、

結局一言も吉兵衛の話を聞かず、

定家は走り出してしまった。


「すぐに屋敷に帰って読むぞぉ!」


行きの疲れようはなんだったのか。

定家の姿はどんどん

小さくなっていった。


「行ってしまわれた…」


吉兵衛は大きなため息を一つついて、

空を見上げた。

少し落ち着いて、袋を掲げながら

その使い道を考えていると、

きらきらとした夢が胸で広がって、

顔から笑みがあふれ出した。


大空は

梅のにほひに

かすみつつ

曇りもはてぬ

春の夜の月

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