おいしいおかゆ
増田朋美
おいしいおかゆ
おいしいおかゆ
朝から降り続いていた雨は、午後には止んだ。代わりに、良く晴れて青空が広がった。みんな、やっと雨が上がって、嬉しいなと思ったのだろうか、一気に高速道路は車が多くなり、ダイヤが乱れる東海道線の富士駅は、一気に電車に乗り込もうと、待ち焦がれているお客さんたちでごった返していた。
そんな風に、雨上がりの後は、今まで部屋の中に閉じこもっていた人たちが一気に外に出て、活気づいていくのが普通の光景なのだが、例外的に、雨が上がっても、うじうじと落ち込んでしまっている人物が二人いた。その二人は、大渕にある製鉄所の中にある食堂で、互いの顔を見合わせながら、あーあどうしよう、と考えていた。
「あーあ、全くよ。僕たちはどうしたらいいんだろう。何時になったら、飯を食うという気になってくれるんだろうか。」
テーブルに顔をつけて杉三が言った。
「そうね。諦めてはいけないと、沖田先生は言っているけれど。」
由紀子もそういうのだが、これ以上ほかになんの手があるんだろうかという顔をしている。
「帝大さんも帝大さんだよな。こうしろああしろと命令ばかりして、実行させるのは結局僕たちのほうじゃないか。命令はするが、確実にそれが通じるには、どうしたらいいのかを教えてくれないから、僕らは、もう何も思いつかんよ。」
「杉ちゃん、そんなこと言っちゃダメでしょう。偉い先生に対して。」
「バーカ。そういうこと言うから、答えってもんが見つからなくなっちゃうの。偉い奴らはそこが嫌だよ。何をするにもそうだもん。具体的にそうするにはどうしたらいいんですかって、質問すると逃げちまう。そして自分で何とかって、格好つける。それって、本当に偉いといえるかなあ?本当は、教えたくないから、教えると、金儲けできなくなるから、教えないんじゃないのか。」
杉ちゃんは、頭をがりがりとかじった。
「本当は、あたしたちも、すぐに答えが見つけられるといいのにね。」
由紀子もそういうが、すぐに、四畳半から咳き込む音が聞こえてきたのに気が付く。
「あたし、一寸行ってくる!」
由紀子は、そういって、四畳半にむかって走って行った。
由紀子が四畳半のふすまを開けると、水穂さんは布団で横向きに寝ながら咳き込んでいた。枕の上には血痕が少し見られた。ああ、また発作を起こしたのか、と由紀子は、彼の体をよいしょと抱え起こしてやる。その体はごつごつと骨っぽくなっていて、筋肉などどこにもない、いわゆる骨と皮という表現がぴったりだった。
「ほら、頑張って吐き出して。大丈夫よ、大丈夫だからね。頑張って。」
その骨っぽい背中をさすってやりながら、自分も天童先生のようなハンドパワーが使えたらなあと思いつつ、由紀子は、そういって励ますのだった。
「頑張って、頑張って吐き出して、お願い!」
しまいには神頼みするようなつもりで、由紀子は水穂さんの口元にタオルを当ててやった。弱弱しく咳き込みながら、座っている水穂さんを、由紀子は一生懸命励まし続けた。それしかできないのが、たまらなく悔しかった。
そのうちに、持っていたタオルが朱に染まる。よかった、と、由紀子は口元についた血液をきれいにふき取った。血液だらけの顔のまま、眠らせてしまうのだけはしたくなかった。
「どう?」
車いすのため、遅れてやってきた杉ちゃんが、由紀子に声をかけた。
「大丈夫よ。無事に吐き出してくれたから。」
由紀子は、枕元にあった吸い飲みを取って、飲み口を水穂さんの口へ入れて、中身を飲ませた。
「飲むことはするんだな。」
と、杉三がため息をつく。
「もう、飲むことはするが、ご飯を食べなくなって、もう何日経つんだろう。勘定するのも、あきれて忘れちゃった。最も、僕の勘定は、余りあてになるものではないけどな。」
「そうねえ。」
確かに、杉ちゃんの勘定はあてにならないことは知っている。でも、最後にご飯を口にしてくれたのは、いつであったかまったく思い出せないくらい、水穂さんはご飯を食べていない。それだけははっきりしている。
由紀子に飲ませてもらった薬を飲むと、水穂は楽になったのか、うとうと眠り始めた。由紀子はすぐに布団の上に水穂を寝かしてやって、かけ布団をかけてやった。
「いつもこれだよなあ。」
杉三は大きなため息をついた。
「げっそり、痩せちゃったな。ほら、覚えているか。此間体重測ったら、えーと確か、信じられない数字だった。六貫しかなかったよな。」
杉ちゃんのいう重さの単位は、大昔の重さの単位で、現在用いられている重さの単位ではないことはしっている。でも、由紀子もそれを覚えている。一貫は4キロの事。その六倍と言う事は、、、。思い出してもぞっとする、恐ろしい体重であった。
「本当だわ。よほどのことがなければ、こんな体重にはならないって、沖田先生も言ってた。」
「若しかしたら、眠っているんじゃなくて、意識もうろうとしてボケっとしているんじゃないの?そのうちさ、いくら呼びかけても反応しなくなるぞ。」
杉ちゃんが、そういって水穂さんの顔を見るので、由紀子は思わず
「お願い!それだけはやめて!」
と、杉ちゃんに言ったのであった。そうなってしまうのが、一番怖かったからだ。
「まあ、そうならないように何か食わせなきゃ。とにかく何か食ってもらわんと、このままだと本当にあの世行きになっちまうぞ。それでは由紀子さんも困るだろ。とにかく、即急に何か食ってもらわなければならんなあ。」
「そう言ったって杉ちゃん、もう思いつかないわ。食べ物って言ったって、何を出したらいいのよ。」
既に、食べ物は、たくさんのものを与え続けている。それなのに、水穂さんときたら、この前もそうだったっけ。由紀子が、デパートで買ってきた、高級なヨーグルトを食べさせようとした時であった。
「ほら。」
由紀子は、口元にお匙を持っていたが、水穂さんは、首を横に向けてしまう。
「食べてよ。」
もう一度、お匙をもっていってみるが、お匙の方には振り向かない。しまいにはかけ布団で顔を隠そうとする。
「なんでよ。なんで食べないのよ。」
そういってみるが、掛布団で顔を隠したままだった。
「もう、だったら食べない理由があるんでしょ、理由を言ってよ。」
そういって見るが、水穂さんは細い声で
「食べたくない。」
としか言わないのだった。
「そんなの理由にならないわよ。とにかく、食べないと力が付かないから、ほら食べて、お願い!」
と、由紀子が言っても、食べようとはしない。こうなると、ある意味では根競べというところだった。ほら、たべて、と由紀子は、お匙を顔に近づけるが、どうしてもだめであった。絶対に食べ物を口に入れようとしない。しまいには由紀子のほうが疲れてしまって、お匙を戻してしまう始末。
「水穂さんは、いい人だけど、そういうところがだめなんだよな。なんで食べようとしないんだろう。」
杉三はおおきな溜息をついた。
「そうね。あたしだって理由がわからないわよ。ほら、この間だって沖田先生が言ってたでしょう。あたしまだ覚えている。」
由紀子は、また沖田先生が、診察にやってきて、水穂さんの事を厳しい目で見ていたことの事を思い出していた。
あの時、沖田先生は、水穂さんを診察した後、栄養失調だとはっきり言ったっけ。もちろん、食道が硬化して大変食べ物が食べにくいという事もあると言ったが、本人が何とかしてでも食べようという気さえあれば、栄養失調は改善されるとも言ってくれたのである。だから由紀子はその言葉にすがって、生きようとする意思さえあれば、もうちょっと生きていられるのではないかと思うのだが、本人にはそういう気持ちは全くないらしい。それではだめだ、ではなくて、本当は本人にもうちょっと頑張ろうという意思を持ってもらいたいと思うのだが。私が、生きていてほしい、と伝えても、無意味なことは十分わかっているが、贅沢な悩みかなあ。
「わかった!」
急に杉ちゃんが、でかい声で言ったため、由紀子はハッとする。
「食べた後、発作を起こすのが申し訳ないから、食べようとしないんだ!」
本来なら、水穂さんが目を覚ますと可哀そうよとか、注意をするのが通例であるが、由紀子は、その気にならなかった。まさしくその通りだと思ったからである。
「今までに当たった食品は100を越しているからな。」
杉ちゃんの勘は、時々すごい確率で当たることがある。それが正しいか間違っているか、何を根拠にそういうことを言うのかわからないけれど、杉ちゃんはそういう発言をする。100という数だって正確に勘定しているかも不詳だけど、彼は、数多くの食品を口にした後に、発作を起こしているので、多分、そういう事なんだろう。
「じゃあ、杉ちゃん、どうしたらいいのかしら。あたらない食品なんて、どこにあるのよ。」
由紀子は思わずそういった。
「そうだなあ。少なくとも、かっぱ巻きはうまそうに食ってた。」
「それだけ?」
杉ちゃんの発言に、また由紀子は腰が抜ける。
「何を言っているの。かっぱ巻きだけじゃ栄養にならないわよ。そうじゃなくてもっと、体力をつけられそうなものを食べさせなきゃ。」
「ウーン、だけどよ。それ以外にうまそうに食ってたの見たことない。鰤も鮪も、鰹も、みんなむりしてくってな、いずれも発作を起こしたことがある。肉もだめだぜ。豚も牛も鳥も、悉くダメだった。」
「じゃあ、どうしたら?」
由紀子が聞くと、
「まあしょうがないからよ。明日かっぱ巻き作って持ってくるわ。それがあいつにとって、一番安心できる食い物だろう。」
と、杉三は答えた。まあ、そういう事ならそれでいい。たぶんそうしてくれれば、水穂さんも食べるだろう。これで一安心になるかな、と由紀子は思った。
翌日、たっぱの中にたくさんのかっぱ巻きを詰め込んで杉三が製鉄所にやってきた。何かあるといけないので、由紀子も食べさせる時には同席することに決めていた。
二人が四畳半に行くと、水穂さんは相変わらず眠っていた。おい、起きろ、杉ちゃんの呼びかけてそっと目を開けた。
「おい、見えるか。かっぱ巻きだよ。お前さんが一番好きなかっぱ巻きだよ。これなら、問題なく食えるだろ。食ってみろ。」
杉三がそう語り掛けて、たっぱの中のかっぱ巻きを一つ箸で取り、そっと水穂さんの口元へもっていくが、水穂は、また首を横に向けてしまった。
「おい、食えよ。だって、今まで一番安心して食ってたのに。醤油もワサビもかけていないから、当たる心配はないし、大丈夫。」
杉三はそういうが、水穂は掛布団で顔を隠してしまった。
「なんで?ちょっと水穂さん!」
由紀子がちょっと咎めるような口調でそう言ったが、杉三に感情的になっちゃいかんと言われてそれ以上言えなかった。結局水穂は、杉三が何回もかっぱ巻きを食べろと催促しても、結局顔を向けようとしなかった。仕方なく杉三たちは、その日はあきらめて帰ることにした。かっぱ巻きでは、結局食べることがなかったので、由紀子はまた別の作戦を考える。杉三の家に電話してご飯を入れる御櫃というモノはないか、と尋ねると、持っているという答えだった。
翌日、由紀子は杉三の家から御櫃を借りた。それを製鉄所にもっていき、一緒に持ってきたコメを、炊飯器で炊いて、御櫃の中に入れる。其れと、具材にする昆布と青菜を小皿に用意して、御櫃と一緒に、四畳半に持って行った。
「さあ、ご飯にしましょうね。今日は、あたしが手作りのお結びよ。」
そういって由紀子は、両手を布巾で拭き、ご飯を握り始めた。とても三角形とは言えず、お結びというより、おにぎらずと言った方が、近い代物であったが、お結びは何とか完成した。
「はい、これが昆布。これが青菜ね。当たる食品は一切入れなかったわよ。ほら食べて。」
由紀子は、作っているさまを見せれば、食べようという気持ちになってくれるかと期待していたが、水穂さんは、お結びを食べようとはせず、また反対方向を向いてしまうのだった。
「なんで?食べたくないの?」
と、聞いたが水穂さんは答えない。たぶん、反対方向を向いてしまうのが、答えなのだろう。それがなんという答えになるのかは、由紀子には読めなかった。
「食べたくないじゃなくて、作ったんだから、食べようと少しは思ってよ。」
由紀子は、お結びを少しちぎって、水穂さんの口元にそっとくっけて、口の中へ入れてみようと
試みる。しかし、噛み砕いて飲み込むという仕草はせず、代わりに、急に食べ物を押し込められたせいか、咳き込んで吐き出してしまった。吐き出すときは、ご飯といっしょに、血液も出る。由紀子はそれをふき取って、結局これかあ、と大きなため息をつく。
何を食べさせてもこれだった。その後、由紀子たちは、レトルトのおかゆとか、手作りのスープとか、いろんなものを食べさせようと試みたが、嫌がって食べないか、口に入れても吐き出してしまうか、のいずれかだった。何日か経って、骨っぽい水穂の体はさらに細くなったような気がしてしまう。それでは、本当に餓死してしまうかも知れない。それだけはどうしても避けたかった由紀子は、仕方なく、ある病院に電話を回した。
「ハイハイ、影浦医院でございますが。」
出てくれたのが、影浦千代吉先生本人で本当によかった。もし、看護師とか受付であれば、変な奴が電話をかけてきたとか、うわさになる可能性もある。
「あの、すみません、今西由紀子です。お忙しい中すみません。どうしてもお尋ねしたいことがあって。」
「ああ、そうですか。構いませんよ。最後の患者さんが、今帰ってくれましたから、お時間はありますのでね。なんでも、おっしゃってください。」
そう言ってくれる影浦先生は、本当にありがたいと思った。由紀子は、時候の挨拶とかそういう事は抜きに、すぐに本題に入ってしまうべきだと思った。
「あの、おしえてほしいことがあるんですが、あの、水穂さんの事で。もちろん、時間外であることは、十分承知しているのですが、それでも聞きたくて。」
「はい、何でしょうか。仰ってくれて結構ですよ。」
影浦先生は優しかった。
「あ、はい。実は水穂さん、どうしてもご飯を食べてくれないんです。安全と言われていたかっぱ巻も、あたしが作ったお結びも口にしてくれなくなりました。単に体のせいだけでなく、メンタル的な問題もあるんじゃないかって、あたしは思うんです。あたしは、そういう知識はないですけど、あまりにも食べないので、もしかしたら拒食症なるものに、かかってしまったのではないかと、心配で仕方ないんですよ。」
「そうですか。ずいぶん大変じゃないですか。拒食症というと、一度や二度は体重のことを口にするものですけどね。ダイエットがどうのとか。まさかと思うけど、水穂さんがそうなった可能性は、低いですよね?」
「はい。それはありません。ずっと寝ているだけですから。」
影浦の質問に、由紀子はすぐに答えた。
「じゃあ、なにか別の理由で食べないんでしょうね。きっと、ずっと寝ているせいで、発作が起きたら申し訳ないという気持ちもあるのではないでしょうか。もう、自身では、ほとんどなにもできないでいるでしょうからね。からだは動かなくても自意識は正常にあるわけですから、動けないという事はよく気が付いていることでしょう。それで、食べる気も起らないというのは言えますよね。」
「そうかしら、、、。そんな自意識何てあるかしら。ただ、眠っているだけなんですよ。」
と由紀子は影浦の話に、ちょっと疑いを持ってしまった。
「どうですかね。薬なんかで眠ることはもちろんあるかも知れないですが、重い病気の人はね、眠っている時だけ劣等感や申し訳なさを忘れることができるから、あえて、眠るという事もするんですよ。僕の患者さんもそういいます。眠っているときは一番幸せだと。」
ちょっとここら辺は、専門の医学者でなければわからない話だ。
「そうですか、、、。とにかく、このままでいたら、水穂さん、ますます悪くなる一方です。だからこそ、食べてもらいたいんですけれども、あたしたちは、どうしたらいいんですか。食べろ食べろと指示を出しても、全くその通りに動いてはくれないんです。」
由紀子はどうしてもそこだけは、聞きたくて、もう一回それを話した。
「そうですね。確かに、食べろと言っても、すぐには従ってはくれないと思いますよ。それよりも、心に問題のある患者さんに接するときはですね、敵か味方かはっきりわかる態度を取らなきゃいないんです。例えば、脳腫瘍があるときは、お医者さんも家族も腫瘍と戦おうとする姿勢になりますよね。心の疾患だと、それが、周りの人とか、お世話になった人になるわけです。まあ、其れも生身の人間ですから、腫瘍を取るのとはまた違った、テクニックになるわけですけどね。でも、ここで重要なのはね、患者さんと一緒に相手を憎んだり罵ったりできる存在何です。大体患者さんとご家族の関係が拗れるのは、患者さんがこの姿勢を求めても、ご家族は大体できないからですよ。ご家族は、大体が、完璧な味方になれないんですね。大体が中途半端になってしまう。だから、別の人に頼らなければならないわけですが。」
影浦先生は耳のいたい話を始めた。そういう話を聞きたいわけではないのだが、由紀子はあえて、それを言わなかった。
「だから、それを水穂さんに当てはめてみた場合、水穂さんにとって、大概の食べ物はほとんどが敵になるわけですよ。それを日常的に食べている人から、食べ物を食べろと言われても、うれしくないでしょう。食べない理由は、そこもあると思います。」
「じゃ、じゃあ、あたしたちは、何ができるのでしょうか。あたしたちにできることは、何もないんでしょうか?」
そのセリフに由紀子は悲しくなって、思わずそう聞き返してしまった。
「由紀子さん。水穂さんの事を心配する気持ちは分かりますが、そういうときはね、出来ない人が愛情で何とかできるようにさせようというのではなくて、出来る人のところへ連れて行くことが、本当の愛情なのかもしれないですよね。とにかくですね。水穂さんに取って、食べることは非常に苦しいことなんだと思います。それを克服するには、同じ経験を持った人が必要なんです。まあ、この日本で、肉魚一切抜きの生活をしてきた人なんて、なかなかいないと思いますけどね。ちょっと難しい話ですが、それが実現出来たらそれに越したことはないですが、、、。」
「影浦先生、アドバイスありがとうございました。あたし、何とかやってみます。本当に今日は、変な電話をかけてしまってすみません。ありがとうございました。」
影浦先生はまだ相談に乗ってくれそうだったが、由紀子は申し訳ないなと思って、あとはもう聞かないことにした。
「本当にありがとうございます。あたし、助かりました。」
と、由紀子は言って電話を切った。もうこれ以上話を聞いていると、実現できない理想論ばかり聞かされる羽目になりそうだったから、もう聞きたくないというのが正直なところだった。
「ありがとうございました。すみません。失礼します。」
影浦が、電話先で何を言っているかも聞かずに、由紀子は電話を切った。
結局、偉い人の話しというのは、実現不可能な話ばかりだ。どうして、そういう事ばっかりいうんだろう。その人に従っていたら、金も体も持たないと思う。
「おい。」
由紀子がスマートフォンを見つめて考えていると、杉ちゃんに声を掛けられた。
「おい。」
「は、はい。」
慌てて我に返り、杉ちゃんのほうを見る。
「腹減ったな。」
と、杉ちゃんは言っていた。
「腹減ったから、ラーメンでも食べて帰るか。」
こんな時にラーメンの話をされても困るのだが、由紀子は杉ちゃんに従うことにした。腹が減っているという気はしなかったが、ちょっとうさを晴らしたいという気にはなっていた。
二人は、タクシーに乗って、ラーメン屋に向かった。この時間だと、どこのラーメン屋も混んでいる、と運転手は心配していたが、いしゅめいるらーめんという店だけは行列していなかったので、すぐに入ることができた。
「こんにちは。」
店に入ると、二人はテーブル席に通される。壁に貼ってあるお品書きを読んで、由紀子は叉焼麺、杉三は、ワンタンメンを注文した。
「はい、叉焼麺とワンタンメン。」
店主の、ぱくちゃんと呼ばれている外国人の男性が、ラーメンのどんぶりを運んできた。二人は黙って、ラーメンを食した。ラーメンというより、黄色いさぬきうどんと言った方がいいほどの太い麺で、すごくコシのある、食べ応えのある麺だった。
「ぱくちゃんよ。之、ラーメンというより、うどんだな。」
不意に杉ちゃんがそういうことを言い出した。杉ちゃんは、どこかへ食べに行くと、必ず食べ物の批評をしていく癖がある。
「へへん。僕らのラーメンは、太い麺が当たり前だい。細い麺にしたのは、漢民族が勝手にそうしただけだもん。変える必要もないよ。」
というぱくちゃんだが、隣にいた、妻の亀子さんが変な顔をした。
「そんな自慢してどうするの。変なところでウイグルのこだわりを出すから、うちの店が売れないんじゃないの。もうちょっと、日本に来たんだから、日本のラーメンに近づけて頂戴。ごめんなさいねエ。ほんとに、変なところでこだわりが強い人で。」
「そうだよな。そういえば、この店、とんこつラーメンがないよ。日本のとんこつラーメンも作れるようになってよ。」
亀子さんの話に、杉ちゃんがすかさず揚げ足を取る。そういえばお品書きを見ると、確かにとんこつラーメンというメニューはない。
「ああ、すみませんね。長年、ムスリムとして生活してきたから、豚肉何て食べたことなくて、まだ苦手だよう。やっと叉焼が食べられるようになっただよ。」
というぱくちゃんの話に、由紀子はピンときた。
「イシュメイルさんも、豚肉苦手だったの?確かに一般的な叉焼麺と違って、野菜が大量に乗せられているなという違和感はあったけど?」
由紀子は、そうぱくちゃんに聞いた。
「そう、豚肉はハラルの対象外で、食べたことなかったの。山地に住んでたから、豚を飼育することもないし、猪が出てきても、食べることはないし。」
ハラルというのは、イスラム法で許可という意味である。ハラルとして許可されたものは、食べてよいが、そうでないものは食べてはいけないという掟があるのだ。
「へえ、豚を食べないで野菜ばっかり食べてたわけねえ。だけど、日本へ来たんだから、ちゃんと日本にあったものを作って頂戴。全くあんたって人は、変なところで、ウイグルのこだわりを出してくるから、この店が売れないんだわ。」
と、亀子さんは、あきれた顔をして言うが、由紀子は、ぱくちゃんの料理の事を、もっと知りたいと思った。
「イシュメイルさんも、豚肉は食べれなくて、苦労したんですか。じゃあ、ご飯なんか相当苦労したのでは?」
「まあねエ、僕らは麺類ばかりで、ご飯なんて誕生日か、体調崩した時しか食べさせてもらえなかったからなあ。」
と、語り始めるぱくちゃん。なるほど、ご飯が特別なものだったのか。
「へえ、誕生日には、どんなご飯を食べてたの?」
由紀子が聞くとぱくちゃんはにこやかに笑って、
「ポロと言ってね、トマト入りのチャーハンみたいなものを食べたよ。みんなでお皿を囲ってさ、少しづつ取って食べるんだ。体を壊した時は、トマトの汁でお米を煮た、ショイラというおいしいおかゆのようなものを食べた。」
なるほど!この人なら、水穂さんの持っているものを、わかってくれるかもしれない!と由紀子は直感的に思った。
「もうね、毎日麺類ばっかり食べてたからさあ、ポロが食べられる日は、うれしくてうれしくてしょうがなかったねエ。うちに帰って、ポロの匂いがすると、やったーって感じで大喜びしてたなあ。熱を出して寝ていた時はね、ショイラが鍋の中で、ぐつぐつぐつぐつ煮えている音を聞いたのを覚えてるよ。あの味を連想すると、熱何か下がっちゃうような気がしたよ。」
変な言い方をしているが、ぱくちゃんの言い方は、しっかりと内容が伝わった。思い出を大切にしていることがよくわかる。
「あんた、ウイグルの思い出を、日本の若い人に話しても意味ないんじゃないの。其れじゃなくて、日本のラーメンをしっかり作れるようになってよね。」
亀子さんはそういうが、由紀子はもうちょっと聞きたいといった。亀子さんは、物好きな若い子もいるのねと笑っていた。
「だっけどね。ある時から、急にポロもショイラも食べちゃいけないことになってさ。食べると警察に捕まっちゃうようになった。まあねエ、漢民族と同化するようにしろという命令が出たことが原因だったらしいけど、、、。」
食べてはいけない!其れはどういう事なのだろうか。
「僕たちは、何も悪いことしてないのに、突然捕まって、刑務所に行ったりとかしてね。僕も刑務所に行きそうになったことあるけど、なんとか乗り切ったよ。だけど、留置所でソーセージが出たときは、目から火が出るほど、大変だったねエ。目の前に看守がいて、完食するかどうか、見張っているんだからね。」
つまり、ソーセージを無理やり食べさせられて、大変な経験をしたのだろう。確かに、今まで食べたことのないものを食べさせられるのは、相当勇気がいる。
「なんだか水穂さんと似たようなことされたんだね。水穂さんも、無理やりとんかつ食わされて、大変な目にあったと言ってたぜ。」
黄色いさぬきうどんをすすりながら、杉三が言った。
それだ!と由紀子も思った。とんかつとソーセージでは、内容が違うけれど、無理やり食べ物を食べさせられてひどい目にあった経験をした人物がここにいる!
「まあねエ。でも、あたしこの前風邪ひいたとき、この人にショイラというおかゆを作ってもらったんだけどさ、意外においしいわよ。トマトのリゾットみたいな感じで。野菜がたっぷり入ってて、別の意味で体の調子が整いそうね。」
亀子さんが、そういうことを言い出した。よし、それを水穂さんにも、と由紀子は決断する。
「イシュメイルさん。」
由紀子は、ぱくちゃんに言った。
「あの、お願いなんです。製鉄所に来てくれませんか?」
おいしいおかゆ 増田朋美 @masubuchi4996
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