例えばの話

例えばの話


 例えばね、例えばの話ですよ

 僕がこの毎日からいなくなってしまったら、僕が過ごすこの小さな世界はどうなるのでしょうか。という主題のもとで。


 毎朝乗るバスでは、今まで座れなかったサラリーマンが一つ席が空いたおかげで毎朝座れるようになります。

 通勤のストレスが減って、仕事の成績が少しずつ上がっていって、出世して、家で帰りを待つ家族にお土産なんか買っていっちゃったりして。

 若い奥さんが「あなたすごいわね、いつもありがとう。わたし幸せだわ」なんて言っちゃって、その後ろで小さなお嬢ちゃんが「あーパパとママらぶらぶー」。

 そんなコトコトと火にかけた鍋から湯気が漏れ出す、ぼんやりした暖かい時間が生まれるのでしょうか。


 いつも行く近所のコンビニでは、気怠そうに、でも真面目に働くバンドマン風の店員さんが

「そういえばいつも十九番の煙草を買っていく癖毛のやつ、最近こないな」

 なんて余計なことを考えて、ぼやぼや品出ししているとうっかりお客さんにぶつかって。舌打ちが一つ。

「あ、すいません」とお客さんの顔を見たらそこにいたのはもう何年もあってない姉貴でさ。お互い「何してんの?」って驚くよりも笑ってしまう。


 「姉ちゃん今度結婚するんだ」

 「へーそうなんだ」


 バンドマン風の店員さん、家に帰ってベランダで煙草を吸いながらぽつりと一言。

「おめでと」

ベランダに吹き込んだ小雨と、十九番の煙草の煙が目に染みちゃって景色はゆっくりぼやけていきます。


 ビルの隙間を抜ける帰り道をよく歩いたあの子は、もうその街からは引っ越していて。

 新しい街でようやくその生活に慣れた頃。忙しなく過ごしていれば過去のその一瞬の時間なんて擦ったマッチの火の如く。

 ただそのときの小さな光は記憶よりも些細なところで、無意識にメモリーされていて、午前四時、夜明け前の月明かりの前でのみゆらゆら思い出せる。

 その月明かりの中で君を抱きしめる得体の知れないやつに、少しだけ微笑んで安心を感じてしまえばいいのに。


 それもこれも例えばの話。例えばの話ね。




 



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