第3話 帰宅

 俺は必死に走っていた。

 国家権力から逃げる為に。


 必死に走っていても向こうの世界で鍛えたこの肉体は疲れ知らずだ。身体能力の大幅な向上だけが、向こうの世界で勝ち取った俺の戦利品だ。


「ここまでくればもう大丈夫だろう」 


 体感的には五分は走った。

 今の俺の本気であればさっきの場所から地下鉄三駅分は離れただろう。

 走るペースを徐々に下げる。

 そして、追われる事がなくなった事で気持ちに余裕が生じたからなのか、段々と俺の視界に周りの風景が入ってくる。


 やけに静かだと思っていたら、いつの間にか俺は繁華街を抜け閑静な住宅街へ紛れ込んでいたらしい。

 

 そんな中、俺はふと思い出す。

 俺は、敵軍に捕まってから三日三晩何も口にしていない。


「喉が渇いた……水が欲しい……」


 そうだ、公園を探そう。住宅街なら、小さいながらも公園があるはずだ。


 そう思い、公園を探すため数分ほど歩くと、想像していたよりも大き目の公園を見つける事ができた。勿論水飲み場もある。俺は一刻も早く喉の渇きを潤すため、水飲み場へと駆け込んだ。


 ワナワナと震える手で蛇口を捻ると、そこから“水”が溢れだしてきた。

 水なのだ!

 あの国で味わっていた、臭い泥水とは訳が違う、純粋な水なのだ!


 俺はその透明さにしばし目を奪われるが、体が水を欲している事を感じ、無心で水を飲み込む。


「あははは! 旨い! 水だ! 旨い! あはははは!」


 狂ったように笑い、腹が破裂するほど水を飲んだ。

 奴隷として過ごした日々のせいで無くしていた感情が、日本に戻ってきた事で蘇っている。


 そんな俺の姿を見て、散歩中の人達は避けるように通りすぎる。


 恥も、人間としての尊厳をも捨てたと思っていたが、俺は恥ずかしくなりすぐにその場から離れる事にした。


 水で喉の渇きが満たされると、今度は腹が減ってくる。


「さて、腹も減ったし、家に戻ってみるかな。母ちゃんも親父も心配しているだろうな……」


 もしかして、死亡者扱いになってたりしてないよね?


「まずい! 急がないと! ここからだと家まで、今の俺の足で1時間も掛からず戻れるはずだ」


 咲太は、知らなかった。

 失踪した者が死亡者扱いになるには、もっと長い時間が必要だと言う事を。



◇■◇■◇■◇■◇■


 家へと向かって走る事、数十分—―。


 段々と見覚えのある風景が目に入り、目頭が熱くなる。

 必死に目から零れてきそうな涙を堪えながら、ついに俺は家に辿り着く事が出来た。

 念のため表札を確認すると、“服部”と書いてあり安心する。

 そして、もう一度視線を家に戻すと、


「うん? なんだ……これ……」


 表札にばかり目がいきすぐに気が付かなかったが、家の全ての窓は雨戸が閉まっており、そこには真っ赤なスプレーで殴り書きの様に“金返せ!”の文字が乱雑に書かれていたのだ。


「一体何があったんだ……俺がいなくなった二年間で……」


 唖然として、変わり果てた我が家を眺めていたその時だった。


「あなた達に渡すお金は無いと言ってるでしょ! 警察呼びますよ!」


 この幼い少女の様な声は……。

 俺は声のする方へと振り向く。


「ああっ……」


 そこにいたのは、俺がもっとも逢いたかった人物だった。

 母ちゃんだ。

 少し窶れた感じはするが、確かに母ちゃんだッ!


 母ちゃんは俺を十六歳で産んでるので、未だ三十代半ばなんだが、かなり若作りなため、今の俺だったら妹でも通じるだろう。


「か、母ちゃん!」

「へ? かあちゃん?」

「お、俺だよ! 咲太だよッ!」

「え? え? う、う、そ……さ、さくちゃん……?」


 母ちゃんの表情が段々と信じられないものを見ている様な表情に変わっていく。


「そうだ、さくちゃんだよ! お、俺、家に戻ってこられたんだよッ!」

「うそ……本当に? さくちゃんなの……? 本当に!? 本当にさくちゃんだあああッ!」


 母ちゃんは持っていたカバンやビニール袋を地面に投げ捨て、泣きながら俺に抱きついてくる。

 俺も力強く母ちゃんを抱き締め返す。


 母ちゃんの温かさが俺に対する愛情に思える。


「ごめんな、母ちゃん! お、俺ッ!」


 俺は涙を流しながら、母ちゃんに謝った。

 急にいなくなった事、心配かけた事……色々な意味を込めて謝った。


「咲ちゃん! 戻ってきたよー! うえーん、よかったぁ!」



 言葉がでなかった。

 ただ、涙が溢れた。


 そして、しばらく二人で泣いた。

 

■◇■◇■◇■


 ひとしきり涙を流し、感動の再会を果たした俺達は家の中へと入っていった。


 家の中は、俺があっちに行く前と大して変わった所は無かった。

 ただ、一つ気になるのは、家に飾ってある写真に親父の写真がない事だ。


 おかしい。親父と母ちゃんは、俺が恥ずかしくなるくらいラブラブな夫婦だ……そんな親父の写真がないなんて……。


 リビングに座り、俺は母ちゃんに出された大好物のコーラを口にする。


 甘い……旨い……しゅわしゅわ……泣きそう……。


 500ミリのペットボトルを一気に飲み干すと、久しぶりの炭酸飲料に身体が驚いたのか、自然とげっぷが漏れる。


「もう、はしたない。それで、今までどうしてたの?」

「……うん。信じられないと思うけど、異世界に行っていたんだ」

「はぁ? 異世界? 何それ?」

「ほら、よくあるだろ? 剣と魔法があるファンタジーな世界」


 まぁ、俺にとってはひと欠片もファンタジーではなかったが……。


「咲ちゃん……そんな嘘をつくなんて、ママ悲しい……」

「いや、本当だから! 泣くなって! ほら、これ見て!」


 俺は上半身を脱ぎ、傷だらけの身体を見せると、母ちゃんの表情がどんどん青くなっていく。


「うえーん! 咲ちゃんの身体がキズだらけよーー!」

「ちょ、泣かないで! 最初から説明するから」


 俺は、あの日、異世界に召喚されてから帰還した今日までの出来事を母ちゃんに説明した。


「咲ちゃん……そんな事が……辛かったね……ううッ」


 どうやら、信じてくれたらしい。


「だけど、こうやって家に帰ってこれたよ! 母ちゃんに会えた!」


「うん、うん!」


 良かった、少しは落ち着いたみたいだ。

 さて、気になってしょうがない事を聞いてみるか。


「母ちゃん、外のあれ何? それに、親父は?」

「親父? ちっ、あんのクソ野郎……」


 ええッ!? お母様?


「な、何! どうしたんだよ?」

「あんのクソ野郎は、女作って、借金作って出て行きやがったんだ!」


 か、母ちゃん、レディースだった頃の口調が出ちゃってるから!って、何ですと?


「つまり、浮気した挙げ句、借金をこっちに背負わせて逃げた……? と言うこと?」


 母ちゃんがコクりと頷く。


「あんのくそ野郎ッ!」

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