第四章

 夜の闇の中、足早に山を登った。

 細い獣道のような山道を行き、途中、森の中に分け入ろうとして、そこで佐助は、物音を立てるなと藤吉郎と隈吉に注意した。それに二人は小さくうなずく。

 森の中は斜面になっていて、下りだった。その森の中の斜面を、音を立てないようにゆっくりと降りていくと、前を行く佐助の向こう側に、ぼんやりと明かりが見えてくる。

 暗い中で炊かれた火は、それでも小さいものだろうが、周囲が暗いせいか、かえって目にははっきりと映った。

 見る間に、森を下ったどんつきに小さな広場があって、そこに人の動く影が見えてきた。

 夜も深く、それほど兵の動きは激しくないようだが、あれは――間違いなく、敵の――

 藤吉郎は目を見張った。

 鎧をつけて何人かが待機している。十…十四、五人ほどか。こんな少ない人数で敵地に乗り込むはずもないから、後の連中は別のところで待機しているのだろう。

 しばらく行くと、佐助は立ち止まり、藤吉郎と隈吉に振り返った。

 明かりを背にしているせいか、佐助の表情がよく見えない。

「あの、焚火から少し離れたところ、――中央に腰をおろし、こちらに背をむけている男が、小坂だ。こちらに背を向けているので、よほど近づいて機会をうかがわないと、顔は見えない。」

佐助がそういうので、藤吉郎は歩みを進めて佐助の横に立ち、佐助が指さす方を、目を細めて探った。

 確かに、格好からして大将らしい男が、こちらに背を向け、腰をおろしている。その隣に、少し年配の男が何か紙を広げて話しかけているのが見えた。

 小坂靭実と言われても、後ろ姿だけで――しかもこんな遠目で、わかるはずもなかった。

 しかもここからでは、やや高い位置から見下ろす格好になってしまっている。

 背格好は、朔次郎にしてはずいぶんがっしりとたくましいし、背も当時よりは高いような気がする。

 そうだ、声を――たとえ後ろ姿であっても、せめて声をきけば、わかるかもしれない。

 藤吉郎は息をひそめ、足音をしのばせながら、森の斜面を下り続けた。

 


 旧玄武城、東の物見台近くにある広場を、斜め正面から見ることができる木に近づくと、木の上で待機している男が見えた。佐助はその幹を背に、枝に腰を下ろした男を見上げた。すばやくその木に登ると、男に近づき横から声をかける。

「どうだ、狙えそうか。」

男は広場に視線を向け、矢をつがえた弓を手に抱えていた。先程の男より一回り大きく、年も少し上だ。

 男は、やや考える様子を見せてから、

「狙えなくはないが――あまりうろうろされても困るな。鎧を外す気配もないし、射止めるなら正面を向いている今だ。交代で眠りに行く前に実行に移した方がよかろう。」

「ふむ。」

「それで、由良の息子はなんと?」

男の問いに、佐助は答えなかった。

 佐助が答えないので、男はまた続けて、

「由良の息子は、あれが義見朔次郎だと言ったのか。」

そう問うと、佐助は鼻で小さく笑った。

「あれが義見朔次郎であるのは、間違いないさ。」

男は少し驚いたという様子で、佐助の方へと顔を向けた。顔を向けたが、向かいの野営の火が木々の間からもれ来る程度にしか明かりが届かないので、しかと佐助の顔を見ることはできない。

「わかっているのに、確かめに行かせたのか。」

男が佐助の返事を待っていると、佐助は男の横に腰かけたまま、

「使えるからな。」

と、言った。それから、

「とにかく、そろそろ矢をかけろ。時間もないだろう。」

佐助がそういうと、男は我にかえり、その場に立ちあがった。背を幹に預け、枝の上に足をかけた。

 弓に矢を二本かけ、小坂へと構える。

 一撃か、なるか、と、的を絞っているうちに、ふと、小坂の背後で何か動くものが目に入った。

 それで、いったん構えをゆるめ、背後の森に目をこらす。

 少年が、背後の暗闇の森の中で、様子をうかがっているように見える。

「あれはなんだ。由良の息子か。」

そういって、構えた弓をいったん置いた。すると佐助が、

「それはそうだろう。あそこに置いてきたのだ。」

「何ゆえに。」

佐助はその問いに、快さそうに笑うと、

「しくじった時の、――餌だ。」

それから、すぐに真顔になり、驚いたままの男に顔を近づけ、

「立て続けに二本、打てるか。」

と尋ねた。男は我に返って、

「ああ。」

と、答えた。それから続けて、「やれなくはないが…。」

 そういうと、佐助は意味ありげな笑みを顔に浮かべ、姿勢を戻して小坂達の野営の方に顔を向けた。

「では」と言葉を告ぐ。

「一本目は、小坂靭実を、二本目は、由良の息子をねらえ。」

男は驚いて目を見張り、思わず佐助の顔を見た。佐助は平然とした顔で、小坂たちの方を見ている。

 ややあって、佐助の顔がこちらを向いた。

「どうした。」

「なぜに、由良の息子まで射るのだ。」

「説明している暇はない。無事逃げおおせたければ、言われた通りにしろ。」

男はしばらく佐助の顔を見ていたが、少しためらい、もう一度弓を構えた。

 

 頭の中に汗が流れるのがわかった。

 呼吸が自然と荒くなる。

 藤吉郎は口から息が白く漏れぬように、口を信乃から預かった布で巻いた。

 もう少し、もう少しとその森の中の傾斜を下って、敵将へと近づいて行く。

 あまりに近づくとこちらの気配が知られてしまう。しかし、確かめずにはいられなかった。

 他人では、――ない。

 あまりにも近い――いや、声だとて、はっきりと聴いたわけではなかった。わけではないが、近い――顔も、全く見えない。しかし、体から放たれる気配が――。

 ここからうかがっていれば見えるだろうか。

 幸いにも、こちらは闇だ。闇の中に目をこらしても、こちらから見るようには、あちらからはうかがえまい。

 もう少し、近づけないか。

 あの、広場に近づけば、腰ほどまでに草木が生えている。あれが、この身を隠してくれるかもしれない。

 しかし、見つかったら、どうする――?

 藤吉郎は後ろを振り返った。

 隈吉が、こわばった顔で藤吉郎の後ろからついてきている。

 この人数では戦えない。みつかったら、弓矢を放ちながら、急いで逃げるしかない。

 近づきすぎてはならぬ。――しかし。

 


 小坂靭実は中尾雄山から現在の兵の配置をきき、それから明日出発する高階本陣の行軍の予定と動きを確認した。

 行軍がこの地に近づくのは夜、この玄武城跡の東側に別働隊が入りこむのはさらにその夜中のことである。

 その動きと兵の連絡系統を確認すると、中尾雄山は、

「明日にそなえてそろそろ休まねばなりませぬ、昼間は息をひそめており、これといった動きはいたしませぬが、それでも交代で睡眠をとる必要がございますれば。」

 そう言われて、靭実はうなずいた。

 その時だった。

 ふと、女の白い両手が、靭実の目の前をよぎった。

 ゆっくりと握って、その手に自分の頬を寄せた――その手のぬくもりが、頬によみがえり、あるはずのない安らぎが、心の中にわきあがる。

 ――お前といると、心が和んで安心していられる。

 途端に、小夜の頬と、抱きしめた体のやわらかさが我が身によみがえり、思わず靭実はその場でうろたえた。

 それから我に返って、その心によぎる気配の主を目で探し始めた。

 背後の森に目を向ける。

 彼は立ち上がった。

「どうされました?」

 ただならぬ気配に、中尾は思わず靭実に声をかけた。

 靭実はそのまま、背後の森に向かって近づき、その森の中に目を凝らす。

 声をかける。

「小夜?」

 その靭実の動きに、中尾が腰に下げた剣をゆっくりと抜いた。すると一斉に、広場にいた兵がそれぞれに、背後の森へと弓を構え、剣を抜く。

 


「待て。」

 佐助は弓を構えていた男を制した。

 男もひいていた弓をゆるめ、野営する広場の方へと目を凝らした。

 目を凝らしていると、小坂靭実が立ち上がり、途端に背後の森へと歩みを進めた。

「ばれた――か。」

 佐助は舌打ちした。

 それからすぐに、兵たちがそれぞれ武器を構えた。広場にただならぬ緊張が走っていく――それが、手にとるようにわかった。

「どうする。」

男は佐助に尋ねた。

「どうするも何も――このまま弓を射るわけにはいくまい。何、由良の息子がいい内通の材となってくれよう。」

「由良の息子はどうなる。」

「知ったことか。手柄を焦って敵にみつかった。運があれば逃げおおせよう。行くぞ、お館様に報告したのち、奴らの動きを見張る。」

 佐助はそのまますばやく木から下りた。男は広場の様子をじっとみていたが、木の下から佐助に「おい」と声をかけられ、仕方なく立ち上がり、弓を背に抱えてその場を離れた。


 

 小坂が広場からこちらに近づく気配があって、「小夜か」と声をかけられた。

 藤吉郎は闇の中で身じろぎ一つしなかったが、小坂の声でもう一度「小夜?」という声が聞こえてくる。それから、何かを制する音がきこえてきて、藤吉郎は逃げなければと思った。

 木々の陰を探りながら、ゆっくりとその陰へと後ずさる。

 足元をゆるがせないように、音を立てないように、ゆっくりと。

 木陰に隠れて――

 とたんに、カツンと音を立てて、すぐ近くの背後の木に、一本矢が当たった。

 はっとして思わず、その矢と、それから隈吉の姿を探る。

 矢は、誰もいない木にあたったらしく、隈吉は別の木の陰にいるらしい。

 気のせいだったと思うのを待つか、逃げ切れるかと思っているときだった。

「なりませぬ、小坂どの」

誰かが止める声が聞こえてくる。

「人の気配がするなら、賊か敵でございましょう、小坂どの、おひきなされ。」

 話す内容からすると、小坂はこちら側に入り込んできているらしい。

 藤吉郎は刀の柄に手をかけた。身構えながら背後をうかがう。――すると、目の前に剣が――薄暗闇の中、首筋から体の前にかけて――剣が――横切る。

 藤吉郎はその剣の主を目でたどった。

 薄く見える中で、藤吉郎を見る男の顔にでくわした。

「さて、まさかここにこのような珍客がいようとは。」

そう言って男は藤吉郎の二の腕をつかむ。藤吉郎は柄にかけていた手に力をこめた。すると男が、

「馬鹿なマネはよせ。俺一人倒したところで、後ろにはまだまだ敵がいる。」

そういうと、男は藤吉郎の体の下から首筋に向かって剣をまわし、体に剣を押し当てた。それから、

「おい、そこの男、無駄なことはやめろ。」

そう、隅吉のいるほうへ向かって声をかけた。

 背後からバラバラと兵たちの足音がかけあがってくる。

 息もつけぬ緊張の中で、藤吉郎は男の顔を探っていた。

 ――朔次郎だ。

 それは間違いなく、あの、朔次郎だった。

 あの高野で、少年たちに一目おかれ、今も懐かしげに直衛が語る、あの、義見朔次郎に、間違いはなかった。

 


 藤吉郎と隈吉は、敵の兵にとりおさえられ、武器をとりあげられて広場に引き出された。

 後ろ手に縄をかけられ、地面に蹴りつけられる。

 その蹴りつけられた藤吉郎に、小坂は腰をかがませ、胸倉をつかんで自分の方へと引き寄せた。

「気配の主はこれか。」

そう言いながら、藤吉郎の後ろ頭に手をまわし、布をほどいて口元からはいだ。

 はいで、ゆっくり眺めると、

「お前、これをどこで手に入れた。」

きいた。

 藤吉郎はうつむき、黙ったまま答えない。

 小坂が、その胸倉をつかんだままの手で藤吉郎を引き寄せ、その顔を上向かせる。藤吉郎はひどく抵抗した。抵抗するのでもう一方の、布を握り締めたままの手であごをつかみ、藤吉郎の顔を無理矢理自分の方へとひきあげた。

 目があう。

 小坂は少しも揺るがなかった。

 しかししばらく、藤吉郎の顔をじっとみつめると、

「どこかで見た顔だ。」

すかさず、後ろから中尾の声で、

「敵でありましょうや。」

そう声が飛んできた。

 その声に小坂は、

「間違いなく、敵だ。」

そう答えた。

 しばし広場に沈黙がよぎる。

 そうして藤吉郎がじっと、 小坂の顔を見ていると、 その目に憎憎しげな色が浮かんだ。

「筒抜けか、お前がここにいるということは。」

後ろにいる中尾がはっとした。

 それから中尾の体に、落胆の色が浮かぶ。

「しかし、一つこちらにもよいことがある。」

そう言って小坂は藤吉郎をつかんでいた手を離すと、立ち上がった。

「一つは」そしてまた、藤吉郎を見下げた。「こいつのおかげで、作戦を知られた敵の懐に飛び込まずに済んだということ。もう一つは――」

 小坂はもっていた布を握りしめ、その布のにおいをかいだ。

「この布の持ち主の行方を、探し出せそうだということ。」

 藤吉郎はその言葉に、うたれたように体をビクリとさせた。

 それから、ゆっくりと小坂靭実をにらみあげる。

 藤吉郎は小坂をにらみあげながら、うめくようにつぶやいた。

「殺せ!」

 身をよじって小坂に体を向け、小坂に近づこうと身をよじると、もう一度、今度は「殺せ!」と叫んだ。

 殺せ、何も知らない――殺せ、殺せ――!


 

 小坂靭実はお館への使いの兵を出発させた。

 国境までは徒歩で移動し、そこから夜明けとともに馬で早駆けせよと命じた。

 この伝達は、闇夜が災いした格好となった。

 兵が到着するのは、お館で出陣式が終わり、既にこちらへと向かう途中のこととなるだろう。そこから作戦を変更し、別働隊の行動を変更させ、それをすべての隊長に伝達させねばならない。

 小坂の隊と中尾の隊はいったんこの場を離れ、今この作戦のために動いている兵をすべて国境まで撤退させる。

 もはや作戦は遂行不可能となったため、この場にとどまるわけにはいかなくなった。

 いったん待機場所を山中の森の中に移し、そこで中尾とは別行動をとる旨を彼に告げた。中尾はやや驚きながら、

「なぜに今、ここにとどまる必要がありまする。」

そう尋ねた。

 小坂は少し考える様子を見せた。

 確かに、自分がこれ以上ここにとどまっていいことは何もない。敵は既にこの場所に自分がいることを知っている。早々に、この場を立ち去った方がいいのは当然だ。

 しかしである。

「一つ、どうしても手にいれねばならぬものがある。」

 中尾は怪訝な顔をした。

 小坂は最小限にとどめた森の中の焚火の明かりに目を落としながら、言葉を続けた。

「お館さまご所望のものが、行方知れずになっており、それを見つける手立てが、偶然にも手に入り申した。」

「それは、今この時にこだわらなければならぬものでございますか。」

 薄暗闇の中でも、中尾のいらだちが手に取るようにわかる。

 今この時に――そう、問われて、今この時にこだわる必要をこの男に説けるだけの自信がない。納得させられる自信がない。

 その時、どこからともなく現れた兵の一人が、小坂に近づいた。敬礼するその兵に、

「吐いたか。」

と問うた。

「いえ、知らぬの一点張りで。」

 その言葉をきいて、中尾が、

「小坂どの、捕らえた敵兵に今更何を尋問しておられます。あの者がいたことが、既にこの作戦が敵に筒抜けだということの証でございましょう。捕らえて返さねば、あちらもそれがばれたことがすぐにわかる。何を今更お尋ねか。」

その中尾を、小坂は手で制した。

「あの布はどこで手に入れたと?」

そう小坂が問うと、兵は、

「ただ、拾った――と、ばかり。」

小坂はため息をついた。

 それを見ながら中尾が、

「小坂どの、いつまでも敵の兵に執着していてはなりませぬ。お見受けしたところ、小坂どのの古い知り合いか――とも存じますが、だからとて奴は敵、情けは無用につき」

「中尾どの」

小坂が中尾の言葉を切った。そして、

「連絡の兵を必ず差し上げます。今は、先に国境辺りまで撤退していただきたい。そして、私のすることに口出ししないでいただきたい。」

小坂の強い口調に、思わず中尾は言葉を飲みこんだ。

 中尾はしばらく言葉をつがず、何か考えるふうであった。

 ややあって、

「小坂どのの兵も、私が連れ申すのか、それとも」

「必要数――今ここにいる私の兵だけで構いませぬ。それだけを残して、あとはお願いいたしたい。」

焚火の明かりがあるだけで、暗くはあったが、中尾から強い不満の気配が漂ってくる。

 しかし中尾は、

「承知いたした。」

と述べるだけで、不満の言葉はつがなかった。その飲み込んだ言葉を察し小坂は、

「中尾どの――既に、敵はここに我々が待機していると思いはいたしますまい。撤退したと思わせて、私はお館さまにいいつかっている仕事を成し遂げたいのです。詳しくは話せませぬが」

「それは、今でなければならぬと?」

「今でなければなりませぬ。これを逃せば二度と機会はありますまい。」

 中尾はしばらく答えなかった。

 それから、そばにいる自身の家来に視線を向け、

「兵を集めて撤退の準備をせよ。」

命じた。

 中尾が動き始める。

 それにあわせて小坂が、「奴はどこに?」と、報告に来た兵に問うた。

 兵は小さく頭を下げ、腕を動かして、森の中の闇を指さした。

 焚火の火に松明を差し込み、明かりを掲げて兵の指す方向へと歩いていく。

 おそらく闇の向こうの小さな明かりの中に、あの男はいるのだろう。

 先ほどは、男の顔に動じなかった。

 いや、動じないように、見せた。

 しかし、靭実にはなぜこうなるのかがわからない。

 なぜ、藤吉郎なのだ。

 靭実の頭にまた、高野で何度となく出会った、剣の勝負を幾度となく願った、あの、まだ成人前の藤吉郎の姿が浮かぶ。

 来るたびに、一人無邪気に剣の稽古をねだった。

 何も知らず無邪気に――それは自分も、同じだったかもしれない、自分は、女人と逢瀬を重ねる来栖直衛を探しては、剣の稽古を挑んだものだった。

 今ならわかる。

 あの頃由良は、高野と稲賀の間をとりもち、高野のお館と話し合うため、その家臣たちを連れて高野を頻繁に訪れていたのだ。

 何も知らずに我らは――。

 しかしその奴がなぜ、小夜のものを持っている。

 それは簡単に察せられた。

 小夜か信乃――あるいは二人ともが、あの村へ逃げ込んだのだ。

 拾ったものを身につけることはないだろう――そんな見え透いた嘘を、藤吉郎がつき――おそらく、命をかけてかばっている。

 どうやら、あの姉妹の秘密まで知っているらしい。

 でもそれが、なぜ藤吉郎なのだ。

 そしてなぜ、今ここにいるのがお前なのだ。

 見えない糸に操られ、暗闇の中で気が遠くなりそうだった。

 折しも祖先の地に将として返り来て、なぜお前が、ここにいて、己の中から、「過去」を引きだすのか。


 

 松明一つの暗闇で殴られ続け、頭がもうろうとしていたその目の前に、もう一つ松明の明かりが近づくのが見えた。藤吉郎は後ろ手に縛られ、木に背を預けた格好で足を投げ出し薄目を開けて見ていたが――それはまさかと思ったが、近づく主は、小坂靭実だった。

 思わず目を見開き、後ろ手に縛られた手に力をこめて、背中を支える木を使って姿勢を正した。男はみるみるうちに近づいて、藤吉郎の前で立ち止まると、藤吉郎を見下ろした。それから、松明を横にいる兵に手渡すと、藤吉郎の目の前に腰を下ろした。

 目が合う。

 何も言わずに藤吉郎をみつめている。

 ゆっくりと口が動く――と思っていると、

「なぜかばう。」

と問うた。

 一瞬、動じかけた。しかしそのまま、黙って答えないと、同じ口が、ニタリと笑う。

「惚れたか。」

 ぎょっとした。

 ぎょっとした後で、しまったと思った。

 口のきき方はあの頃とさして変わっていない。むしろあの頃と違って、かわいらしげがなくなった分、憎たらしく感じる。

 それでも答えないでいると、靭実は立ち上がり、

「なんとか言ったらどうだ。」

問い続けた。

 下から見上げると、気のせいか笑っているように見える。

 するとややあって、横にいる兵に何かい、白い布を受け取った。

 靭実はもう一度かがむ。

 かがんで目の前に近づいた顔は、笑っている。

 そのまま白い布を差し出した。

「これは、誰が渡した。」

 藤吉郎は、それでも答えない。すると靭実は目を細め、

「大木村の村人でもあるまいし、そこまでかばう必要はあるまい。さあ、一体だれが渡した。」

 問い正す靭実の顔が、どこか楽しげに見える。口元は明らかに笑っていて、その口が、言葉を続けた。

「小夜か。」

 靭実の顔が藤吉郎に近づいてくる。

「それとも、信乃か。」

 目の前にある靭実の目を、藤吉郎はにらみつけた。

 話すわけにはいかない。

 この男には、決して――。

 


 来栖直衛の「やめ!」という声で、信乃は打ちこむ手を止めた。

 直衛は最後にうちこまれた信乃の竹刀を受けとめたまま、その竹刀を組み合わせた状態で姿勢を正した。信乃に打ちこませる前の手合わせた状態にそれを一旦とどめると、

「本日はこれまでにいたしましょう。」

と言って、直衛はあわせた竹刀を信乃の竹刀から離すと、自身の竹刀を下げた。

 信乃も竹刀を下げ、右手に持ち直すと、両手を右わきにつけて頭を下げた。

「ありがとうございました。」

直衛はその声ににっこりと笑った。

 稽古は由良の館の前で行われていたが、横で見ていたきよらが、一つ大きくため息をついた。

「変わられましたな、信乃どのは。」

まだ粗い呼吸のままの信乃に、きよらは話しかける。

 何が変わったのかと、不思議そうな顔をして信乃がきよらを見ると、

「ええ、変わられましたな。」

直衛が言葉を継いだ。

 そういう直衛ときよらを、信乃は交互に見た。二人とも、どこか満足そうに上気した顔をしている。それから、信乃は、

「な、何が、変わりましたでしょうか。」

そう二人に尋ねた。すると、きよらが、

「勢いがつきました。思い切りがいいというか――以前は何かを――抑えているというか、そんな感じでしたのに。」

「はあ…。」

信乃はまだ粗い息をしている。

 勢いがついたと言われても、自分ではよくわからなかった。

 それで変わられましたと言われても、何が変わったのかよくわからない。

 よくわからないという顔で信乃が汗をぬぐっていると、

「なに、信乃どの、それはいいことなのです。気に病む必要はありませぬ。」

そう直衛が言葉を足した。

 直衛がそういうと、きよらもその言葉にうなずいた。

 うなずくきよらに信乃が思わず微笑むと、きよらが、

「何か、自信のようなものが感じられます。何かいいことがおありでしたのですね。」

そう言って、にこにことほほ笑んだ。

 きよらの言葉をききながら、直衛は微笑んだ。

 直衛は、竹刀を腰にさし、お館から村の方へと視線を移した。

 遠く東の空に視線を上げ、

「本日も、よい天気となりましたな。出陣式は、晴れやかでありましたでしょう。」

などと言いながら、気持ちよさそうにのびをした。

 直衛の言葉につられ、信乃は遥か北北東の戦場のあたりに目を向ける。

 本日出陣式となれば、隊と一緒に戦場へ移動するということだろうか。――いや、時刻からすれば、もう隊はかなり先へと進んだろう。

 夕刻には戦場へ到着するに違いない。

 信乃は自然と、その北北東の方角に体を向け、手を合わせた。

 どうか姉さま――藤吉郎さまをお守りください。

 どうか、姉さま――


 

 隈吉がいない。

 藤吉郎は、薄暗い森の中で木に縛り付けられたまま、その姿がないのを確認した。

 夜が明ける前は確かに近くに気配があったように思う。

 しかし、今は全くその気配が感じられない。

 殺されたかと思った。

 問い正され、責められるうちに、死んだ――か、不要の者として、始末されたか。

 それにしては、小坂は自分に「何か」をそれ以上尋問する気配はなかった。

 それどころか、見張りの兵が数人いるものの、その他の兵たちもどこにいるのかわからくなっている。

 佐助はどうしたろう。

 やはりその姿がどこにもない。

 捕らえられた時には、既にいなかった。

 逃げた――か、それとも、最初からこれが目的か。

 あの男は、自分と小坂を血縁と思っているのだろう。同じ、信乃の姉の仇だと――。

 言われてみればそうだった。こうすれば、一蓮托生で仇が討てる。

 もしかしたら、どこかから自分たちをねらっているのかもしれない。

 しくじったと思った。

 隈吉が死んだとしたら、それは自分の責任だ。

 自分は仕方ないとしても、隈吉には申し訳ない。

 戦場で散るならまだしも、まさか、こんな形になろうとは。

 しかし、考えてみれば、佐助のこの行動は、危険な賭けではあるまいか。

 結局相手の居所を知りながら、相手に作戦を見抜いていることを知られてしまった。それはつまり情報を秘密裡につかんでいて、敵に我らの懐へと飛び込ませることができたのに、それを台無しにしてしまったということではないのか。

 それはひいては、佐助自身の立場をも危うくする。

 それとも、その作戦を見抜いていることをわからせ、変更させることそのものが、目的であったか。

 藤吉郎にはわからなかった。

 とにかく、自分が戦の駒となり、大きく何かが動いてしまったということは、理解できた。

 それが、味方に吉と出るか、凶と出るか。

 その時ふと、そばにいる兵の動く気配で藤吉郎は我に返った。

 山の中の林の、他からは見えないくぼみの部分に潜む格好で、藤吉郎は捕らえられていた。そのくぼみの向こうの斜面の陰から、突然小坂靭実の姿がのぞいた。

 そして、兵に何か指示を出し、ゆっくりと藤吉郎に近づいてくると、藤吉郎の前にかがんだ。

「飯は食ったか。」

 靭実は尋ねた。

 しかし藤吉郎は猿轡をかませられたまま、にらみつけて答えない。それに靭実がふっと笑うと、

「しぶとくなったものよ、昔は子犬のようだったではないか。」

そう言って藤吉郎を眺めると、即座に立ち上がり、兵に「運べ。」と命令した。

 途端に、二人の兵が木に近づいて木と藤吉郎を結びつけていた縄をほどき、後ろ手にしばっていた縄を、藤吉郎の腕を抑えながら前に縛り直した。そのまま背後と前から抱え上げられ、すぐに後ろへ向かって背中から乱暴に投げつけられた。

 どうやら兵の背に載せられた薪背負いのための木枠か何かに、投げ入れられたらしい。

 即座に、その木枠に腰を据え付けられ、体のあちこちを結わえつけられた。

 どこかへ連れて行かれるらしかった。

 それがどこかはわからない。

 敵地か、味方か、それとも、全く関係のない死地か――。

 さっさと殺せばよいものを、と藤吉郎は思った。

 抱えあげられながら、今更ながらに自分の行動を悔いる。

 あのとき、橘の君に言われたではないか。「誘惑に、乗ってはならぬ」と。

 藤吉郎は抱えあげられながら、木々の間から見える空を見つめた。

 晴れている――よい天気だ。

 お館では出陣式をとうにすませ、父たちは出発しているだろう。自分たちがいた、結城へ向かう小荷駄隊は、自分たちの消えているのに何と思ったろう、逃げ出したと思っただろうか。

 残された与助は、突然いなくなった理由を問われ、返事に窮しているだろう。

 申し訳ないことをした。

 藤吉郎を背負った兵が、斜面を登り始めた。

 木々の間の空が、兵が歩くにつれて流れて行く。

 藤吉郎はその空を見上げながら、信乃のことを思い浮かべた。

 人の目には映らぬ風の精霊にのって、 大木村から一路、 空を駆けてきたという信乃。

 この小坂靭実に斬られた姉とともに、その不思議な力を持つという。

 そして、小坂は――いや、高階隆明は、その力を、望んでいるのだろう。

 せめて、もし自分が死んだら、由良の館へ向かってこの魂を馳せ、橘の君に伝えてもらおう。

 ここではないどこかへ、逃げろ――と。

 そうだ、できたら、お館さまのところへ移った方がいいかもしれない。

 いや、きっとそうだ。

 ――結局、あの出陣のとき、あの布を預かったのが、最後となってしまった。

 あの姉上の布は、今は手元にない。

 小坂に取り上げられてしまった。

 申し訳ない。

 約束通り、この手で返すことができない。

 失望されるかもしれない。

 謝らなければならない。

 一目でいい。

 この身が滅んで、しくじったことをなじられても、一目でいい、あいたい。

 なぜに、出会ったのか、この短い生涯で、よくぞ出会ったものよ――ほんのわずかな時だけれど、俺は幸せだった。

 結局ゆきずりにすぎなかったのか――結局は、なせぬ仲にすぎなかったのか。

 ――信乃は俺が死んで、少しは悲しんでくれるだろうか。

 藤吉郎は、その空をみつめながら、遠く離れた信乃を思い、それから父、母、兄夫婦やきよら、直衛や兵衛、村の者の顔を思い浮かべ、己の過ちを、悔い、――恥じた。

 

 夕餉の支度が終わり、信乃が橘の居室へ自分の膳を運びこもうとしている時だった。表から騒々しい足音と戸の開く音がきこえた。信乃は立ち止まり、部屋のすぐ前に控えている六佐を見たが、六佐もそちらに顔を向けている。途端に男の声で、「丙吾さま! 丙吾さま! 大変でございます! 一大事にございます! 丙吾さま――!」と叫ぶ声がきこえてきた。続いて、

「丙吾さま――橘の君! 橘の君も、急ぎ下の駐屯所までお越しくださいませ! 藤吉郎さまが、藤吉郎さまが、小坂に、小坂靭実に、とらえられましてございます――!」

 途端に、信乃の持っていた膳が、けたたましい音を立てて落ちた。

 六佐が立ち上がるが早いか、橘が中から六佐を呼ぶのが早いか――すぐさま六佐は部屋の中へと入って行った。間もなく六佐に抱えられて橘が出てくると、橘は部屋の外で両手で口を抑え蒼白となった信乃の顔を見、

「そなたはここにいよ。」

そう言い残し、館の入り口へと廊下を歩いて行った。

 信乃はそこに一人残され、呆然と立ちすくんでいたが、すぐに我に返り、館の入り口へと向かって駆け出した。

 しかし駆けながら、気が、遠くなりそうになる。

 「藤吉郎」が、「小坂」にとらえられた。

 それは、藤吉郎が「朔次郎」にとらえられたということだ。

 いや、それ以前に、今日出陣式なのに、もう、戦が始まったというのか。

 おかしくはないか。

 何かの間違いでは、ないのか。


  

 館を出たところで、丙吾と駐屯所の兵が、館の前の坂を下りる姿をみつけた。信乃は、それに追いつこうと後を追った。

 坂を降りきったところで丙吾たちに追いつき、丙吾が、「深田五郎を呼べ、それから来栖直衛もだ。」と、一緒にいた兵に指示を出していた。

 丙吾が駐屯所の中へと入っていくので、信乃もそれに続いた。

 中が騒然としているせいか誰も見咎めない。

 夜だというのに駐屯所の前の広場は、由良の館の真下にある、崖に沿って作られた宿所の明かりが漏れ、多く火もたかれていて、明るかった。

 駐屯所のその広場の中央に人だかりが出来ている。

 橘がその人だかりの中に分け入った後らしく、そのために開けられた人垣の中の道を、丙吾も後に続き、信乃もそれに続いた。

 見ると人垣の中に誰か人が――戸板の上に寝せられている。中をうかがい見ると、それは、頭髪も乱れ、顔が血だらけで、体中ボロボロになった、隈吉だった。

 信乃はその変わり果てた姿に思わず立ちすくみ、両手で口を覆った。

 隈吉はぐったりとして、年配の兵の一人が応急措置を施している。その傍らにいた、駐屯所の責任者らしき男が、丙吾の姿に気づき、「丙吾さま」と声をかけてきた。

「これは一体、何事か。」

丙吾が強い口調で尋ねると、男は、

「はい、先ほど、馬で戻りましてございます。」

「して、藤吉郎が小坂にとらえられたと?」

「はい。」

「戦は、まだ始まっておらぬのではないのか。」

「そのはず――ではございますが、どうやらこの者が申しますには、藤吉郎さまが今小坂にとらえられ、旧玄武城跡のある砦山にいると。」

「なぜ藤吉郎も小坂も、戦も始まらぬのに――いや、戦が始まろうというのに、そんなところにいる。」

「それは――」

言って男は、隈吉に視線を落とした。隈吉は手当てを受けながら、また別の兵に口から柄杓で水を飲まされている。隈吉がむさぼるようにそれを口に含み、――途端に、人垣の後ろの方が大きくどよめき、揺らいだ。

 間もなく、「直衛どの!」「直衛さまが!」という声とともに、来栖直衛が現れた。

 直衛は丙吾と橘に一礼した。

 その直衛の姿を認めたか、隅吉が話し始めた。

「藤吉郎どのと与助、私の三人は、結城三輪さまのところからの、物資の受け取りをする、小荷駄隊の警護として配属――されましてございます。その、お勤めの最中でございました。」

 隈吉は負傷した苦しそうな息の下からこう語った。はれ上がった顔の、唇の端には血が固まってついている。

 隈吉の語るのはこうだった。

 結城からの荷の、受け渡し場所である寺で野営している時に、佐助という男がやってきた。藤吉郎を呼び出してくれというので呼び出すと、男は藤吉郎に義見某を知っているかと尋ねた。そして、玄武城跡に小坂がいるから確認してくれと言った。藤吉郎は佐助の言葉をひきうけ、 それで二人で、 その佐助について玄武城跡に向かったのだという。

「それで、玄武城跡にいる奴らのところへ行って、つかまったと。」

隈吉の説明をきいて直衛がそういうと、隅吉はうなずいた。そして隈吉はまた、差し出される柄杓に口をつけ、勢いよく水を飲む。

 直衛は続けた。

「して、なぜお前だけが戻ってきた。」

いうと、隈吉は飲んでいた水を飲み込み、いったんその柄杓から口をはずした。息を整え、

「私は――今朝小坂にこう伝えよといわれ、縄を解かれ、馬を与えられましてございます。奴は藤吉郎どのの所持されていた布を差し出し、急ぎ村へ帰り、この持ち主に伝えよと、言うのです。」

 そのとき靭実は、顔に笑みを浮かべながら言ったという。

 ――急ぎ玉来に戻り、この布の持ち主に伝えよ。藤吉郎の命を救いたくば、明朝、山の端に朝日が昇りきるまでに、砦山の頂にまでくるがいい、と――。

 その言葉をきいていた丙吾が、

「布の持ち主とは、誰のことだ。」

そう尋ねた。

 すると、隈吉は、

「大木村から来た、女人であると…。」

一斉に、その場にいる信乃に視線が集まった。

 その反応に直衛が危ぶみながら、

「それは確かか。」

そう尋ねると、

「はい――しかし、どちらかはわからぬ――と。仔細は本人に尋ねるがよい――と、申しておりました。」

 その言葉に、その場で一斉に皆が顔を見合わせた。

「どちらか――とは?」

隈吉は答えなかった。ただ、わからないというふうに首を振った。

 しばらくその場に何か考えるような空気が漂った。

 ややあってこの場の責任者であるらしき男が、

「何かの間違いではあるまいか。」

すると丙吾が、

「間違いで、この戦場にあって、このような狂気じみた真似をするのか。」

「はあ、――しかし。」

 皆の沈黙する中、信乃が一歩進み出、言葉を発しようとした瞬間、橘が横からりんとした声で、

「それで、そなた、そのことを途中誰にも報告せず、一目散にこの村に帰り来たったか。」

そう隈吉に声をかけると、隈吉が、

「はい――明朝までの約束とあらば、何をおいても早く知らせねばならぬと。」

橘の気配が怒りに変わり、声を荒げようとした途端、横から直衛が、

「赤木どの、急ぎ馬と夜目にたけた兵に、使いをお願いしたい。」

と、橘の怒気を切って、その駐屯所の責任者らしい男に話しかけた。赤木と呼ばれたこの恰幅のよい男は、直衛に向き直った。

「さて、何用でございましょう。」

「今隈吉が話した内容を、急ぎお館までお伝え願いたい。 この男の話す通りなら、 小坂は今まだ砦山の頂にいるはず。 奴が何ゆえこのような愚行に及んでいるのかはわかりませぬが、 明日の朝まではその場を動かないと言っているのは確かでございましょう。」

「む…しかし、このような話、あまりにも信憑性に乏しく」

「いえ、小坂が旧玄武城跡にいたことは納得できまする。お館もこの情報をつかんでいたのでございましょう。 藤吉郎どのが小荷駄隊の警護に配属され、三輪軍に物資の受け取りに行ったということは、三輪軍は予定を変更して全軍待機となっていたはず、それは結城三輪軍の近くに、小坂の軍勢が潜んでいたということを意味しておりましょう。 この駐屯所の兵も含め藤吉郎どのがその警護に回されたということは、敵のいる近くで、ある程度力量のある兵が必要であったということも意味しております。 奴がたくらんだのは、おそらく、我が軍の右翼である砦山に潜み、戦が始まると奇襲をかける作戦 ――とにかく、この隈吉が馬を与えられ、命からがらこのことを知らせにやってきたことから考えましても、小坂がそこにいることは間違いありますまい。」

直衛の話をきいていた赤木は、直衛の言葉にいちいちうなずき、そして、

「分かり申した。では急ぎ使いの兵を用意いたしましょう。間に合えば、小坂をその場で討ち取ることもできるやもしれませぬ。」

「お願いいたす。」

そういうと、赤木はその人垣を離れ、駐屯所の部下を大声で呼びつけた。部下がかけつけると、また、その男が宿所の中に向かって誰かを大声で呼びつけている。

 直衛が丙吾と目配せしてうなずきあった。すると丙吾が、

「隈吉はそのまま休むがよい。傷は早く治せ。」

そういって、丙吾がその場を去ろうとするので、隈吉は目を見開き、戸板の上に急いで起き上がった。

「お、お待ちください、丙吾さま。藤吉郎――藤吉郎どのは、どうなりましょう。今、砦山の頂に、おそらく、生け捕りにされているはず」そこで隈吉はちらりと信乃を見た。「奴は――藤吉郎どのの持っていた布の持ち主に異常な執着を示し、それがために藤吉郎どのを捕虜に、私に馬を走らせました。とぅ、藤吉郎どのは――」

そう、隈吉が必死の顔で尋ねるのに、先の間、かけつけていた由良家家臣深田五郎が、隈吉のそばに歩みよった。隈吉の半身起こした肩に手を置いて、

「隈吉、案ずるではない。後は我らが何とかいたすゆえ、そなたは早くその傷を治すがよい。」

そういってぽんぽんとその肩を叩いた。

 それで、深田五郎が立ち上がると、丙吾と直衛、橘と六佐は、示し合わせたように歩き始めた。兵でできた人垣が、通るための道を開ける。

 隈吉の様子を見ていた信乃が我に返り、慌ててその後を追った。

 人垣を離れ、その入口に近づいたとき、やっと四人に追いついく。

 駐屯所の入り口は、広場とは違って、明かりが少ないせいか、暗い。

 信乃はおそるおそる、震える声で直衛たちに声をかけた。

「あ、お、お待ちください、あの、あの、わたくし――わたくし、い、いかがいたしたら、よろしい、のでしょう。みょ…明朝までに、砦山というところへ――」

そう声をかけると、入口の前で一同が立ち止まり、後ろ姿のまましばらく黙っていた。

 直衛が信乃へと振り返ると、直衛はいつになく困ったような顔つきで、

「信乃どの」

と言葉を発した。

 しかし言葉を発したまま、二の句が継げない。言葉をつまらせたままの直衛を信乃がひたとみつめている。

 先程隈吉に声をかけていた深田五郎が追いついた。

 すると、横から橘が、

「信乃よ、これは、――罠だ。」

そう、上から言葉を発した。

「わな?」

「そなたをつかまえるためか何かは知らぬ。しかし命かけて、この月のない夜に馬を走らせ、砦山に向かったところで、藤吉郎は生きているとは限らぬ。しかもおそらくこれは二人生きて帰すためではなく、『そなた』を、捕らえることを目的としているのだ。」

 深田五郎は橘の言葉にうなずき、その言葉の続きを受けて信乃に語りかけた。

「奴がなぜに、そこまで大木村の者に執着しているのかはわかりませぬ。しかし、これだけははっきりと言えましょう。命かけて砦山にかけつけても、藤吉郎どのの命も、まして信乃どのの御身も、誰も保証はできぬということでございます。」

みつめる深田の目には、憂いの色が浮かんでいる。中肉中背のがっしりとした中年男のその口元に、妙はよく似ているのだと思った。

「だから、――保証はできぬから、――だから?」

「信乃どのは、ここにそのまま、おとどまりいただき」

深田が頭を下げていう、その言葉は、そのまま後が続かなかった。

 信乃はそのうつむいた顔をみつめて、次の言葉を待っている。すると、橘が、

「あの男、――狂うたのよ。」

 そうつぶやいた。

 信乃が、「あの男」とは誰かと思っていると、続けて橘が、

「社を血で汚し、巫女を斬り、よもや正気でいられるとは思えなんだ。――そう、狂うたのだ。なあ、信乃。」

 そう言うと、橘は信乃に視線を定めた。

「明朝までに、女の身で、この場から砦山へなどいけるものか。無理難問を唱えて、どういうつもりか――行く必要はない。これは、ただの『罠』だ。姉君を死なせ、まだ、足りぬというのか、あの男は――。」

 信乃は橘にそう言われて、直衛を見、丙吾を見、深田を見た。一様に暗い顔をしている。深田だけがうんうんと橘の言葉にうなずいていた。

 橘は独りごちるように、「たった布一枚で何がわかる。おかしいのではあるまいか。ここに、大木村の者がいるなどと」――と、やけくそにつぶやいた。

 丙吾と深田五郎、そのそばにいる者どもの手前、橘は幾重にも言葉を隠している。しかし、そのうちにただ一つ、橘が信乃にその真実を告げた。

 ――行く必要はない。これは、ただの『罠』だ。

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