第五章

 由良の館の広間に、丙吾、直衛、深田五郎、そして橘と六佐が帰ってきて、丙吾を上座に腰を下ろしたところで、外からあきの声がきこえてきた。

「神主さまをお招きいたしましたが、こちらへお通しいたしますか。」

そう言われ、丙吾が、

「ああ、こちらへお通しせよ。」

「わかりました。」

そう言って、あきが退く様子がうかがえた。しばらくして、年老いた男が一人入ってきた。

 由良藤吾の叔父にあたる男だ。

 男が入ってくると一同は頭を下げた。男は上座にいた丙吾の左隣まで行き、静かに腰をおろした。すると丙吾が、

「叔父貴さま、仔細は…」

「大よそはあきからきいたが、仔細については一向に…。藤吉郎が、小坂靭実にとらえられたと。」

そう問うと、丙吾は顔色を曇らせ、

「はい。」

言って、言葉をつまらせた。

「して、なぜ藤吉郎が小坂にとらえられる。」

そう問われ、丙吾は、

「小荷駄隊に配属された藤吉郎の元へ忍びがやってきて、小坂靭実が近くにいるから、何やら確認せよと。その時に捕まえられたようでございます。」

「忍びが――?」 男は丙呉の言葉をききながら、しばらく考えるようであったが、続けて、

「確認せよとは、何を。」

そこで丙吾は顔をあげた。

「はい、――藤吉郎と行動を共にしていた駐屯所の兵が、急ぎ帰り参って伝えるには、『義見なにがし』を知っているかと聴かれた…と。」

 神主である男は、顔を上げ、

「よしみ――と?」

尋ねた。

 彼は一同を見渡したが、橘も直衛も視線を落としている。それでそのまま、また丙吾に、

「よしみ――なにがしとは、誰のことだ。」

そう顔に怪訝の色を浮かべ、問うた。

 丙吾が答えないので、男は続けて、

「よしみとは、しずどのの――高野の、あの義見か。」

老齢で気難しそうな性格が、その痩せてくぼんだ目から感じられる。それに対し、丙吾は眉間に深くしわを寄せ、

「わかりませぬ。そうともとれますし、なにがしが誰かわからねば、何のことを言っているのかも、それが一体、藤吉郎に何の関係があったのかも、さっぱり――。」

と、答えた。

「帰された駐屯所の兵は、そこがよくわからぬのだろうか。」

きいても、丙吾も、誰も、うつむいたまま答える様子はない。

 男は続けて、

「だいたい、小坂はなぜ、駐屯所の兵を返してきたのだ。」

そう言ったところで、また外からあきの声がかかった。

「お話中失礼いたします。赤木様がいらっしゃいましたが、いかがいたしましょう。」

「通してくれ。」

丙吾が答えると、ややあって重い足音を響かせて赤木の姿が現れた。広間の入り口の前で立ち止まり、失礼いたすと言って一礼した。

 広間へ入り、丙吾に向かい合わせる下座へと足を運ぶ。

 どしっという音とともに、彼は腰をおろした。

 一同と並ぶと、その武将らしい武骨さがよくわかる。

 髭面の口から太い声が漏れた。

「使者は先程、出立させましたほどに。」

すると直衛が、

「隈吉はあれ以上に、何か話しましたか。」

と尋ねた。

「はい、えー…、砦山にはそもそも、多くの敵兵がつめておったようでございまして――わが軍の横腹から不意打ちする計画でございましたのでしょうな。ところが、藤吉郎どのと隈吉がみつかって捕らえられると、そこにいた大方の軍は撤退を始め、わずかな小坂の一隊だけが残った――と。」

「小坂のその隊の数は、どの程度でござりましょう。」

「さて、クマが申すには、目に見える範囲で二十四、五と言っておるのですが――あれも囚われの身でござったゆえ、今少し人数もおりましたかと――。」

「わずか、二十四、五――しか残さず、いえ――三十としても、小坂が砦山に残っているというのですか。」

「さて、それも、不思議な話でございますな。まあ潜伏が相手に知れれば、即座に撤退と思うのが当然の考でございますれば、敵地にそのまま兵が留まるとこちらが予測すまいと、小坂も考えたのやもしれませぬ。さらに、クマが直接お館へ出向き、報告しましても、一兵卒の言葉ゆえに信憑性も乏しく、また、クマがこちらへ帰りつき、引き返してお館へ向かい、戦場へと報告し、隊を組んで砦山へと向かい、としたなら、それがこの月のない夜で、夜明けまでにわが軍の兵が小坂のところへ行きつけるかどうかも、実際難しいところ。そもそも我が軍の兵が隊を組んで小坂一人のために砦山に向かったとして、そちらに気を取られている隙に、別の方角から敵が攻めてきては、こちらの布陣や戦意が崩れぬとも限りませぬ。――で、あるならば、」

「少数でしかない砦山の小坂を、稲賀軍はこの際目標からはずすと、小坂が踏んだと――」

「ふむ、でしょうな。もしこちらが敵に気取られぬほどの少数で分け入っても、場合によっては奴らに捕らえられ、危ううございますれば――しかし、」

 赤木はそこまで言って、橘の方をちらっと見やった。

「私が解せぬのは、小坂がなにゆえそこまで、大木村の者にこだわっているのかということでございます。私が察するに、敵は――いや、もしや敵は大木村に攻め行ったその最初から、殺された巫女、もしくは、巫女のご一族様の御身を欲していたのではなかったかと。」

 赤木の言葉に、橘は伏せていた目を上げた。そして赤木の方に顔を向けると、

「その理由は?」

と赤木に問うた。

 橘の言葉に、赤木は若干たじろいで、

「いや、理由はわかりませぬ。――わかりませぬが、しかし」

「巫女が殺されたは、戦の挑発ではない――と?」

橘の凛とした口調に、赤木はさらにたじろいだ。

「いえ、そう、とは――申しませぬ。しかし、しかしですな――話はどうきいても、信乃どのが所有されておった布――その布をめぐって、大木村の女人となれば…。」

 橘は厳しい目でしばらく赤木をみつめていたが、また前にその顔を戻した。目の前には、直衛が向かい合わせで座っている。橘が視線を向けても、下を向いたまま何か考えている様子で、こちらに目を向ける気配はない。

 そこで丙吾の隣にいた神主が口を開いた。

「つまり小坂は、大木村からきた女人を――信乃どのを、藤吉郎を人質に、寄こせ――と、申しておるわけか。」

 そう赤木に向かって問うと、赤木は神主に向き直り、

「さようでございます、明朝、朝日が昇りきるまでに、大木村から来た女人は、藤吉郎どのの命とひきかえに砦山へくるように――と。」

 神主は顔に信じられぬという色を浮かべた。

 そして、

「まさか――」

そう、つぶやいた。

「信じられぬ。小坂ともあろう男が、戦場でそのような暴挙に出ようとは――。」


 

 ――そなたは部屋へ戻っておれ。

 館に入るときに橘にそう言われ、信乃は一同とは別れた。

 部屋へ向かう廊下を歩き、部屋の前まできて、そのつきあたりに先程自分が落とした膳が傾いて床に投げ出されているのが見えた。

 皿や食べ物も、床の上に散らばっている。

 ゆっくりと、近づく。

 散乱した夕餉の前で腰を下ろし、膳を立て直して、散らばった器を集めはじめた。

 ――急ぎ玉来に戻り、この布の持ち主に伝えよ――

 カチリ、カチリと小さな音を鳴らして、食器を集める。一カケラずつ集めるごとに、目から、ホタリ、ホタリと涙が落ちた。

 ――藤吉郎の命を救いたくば

 ぎゅっと目をつぶる。

 ――信乃どの、藤吉郎です。

 ふと、後ろから藤吉郎の声がきこえた気がして、信乃は座ったまま振り返った。

 あの、信乃どの、昨夜のことを、お詫びいたしたく――

 見ると廊下の反対側のつきあたりに、部屋へ向かう格好で、藤吉郎が立っている。

 部屋の中へ向かって話しかけている。

 途端に部屋の中の橘の「六佐!」と叫ぶ声が聞こえた。そこにいた六佐は、素早く部屋の中に入っていき、すぐに橘を抱えて出てくると、橘と共に藤吉郎に詰め寄った。

 ――そなたか!昨日信乃を泣かせたのは!

 橘ががなり立てるのに、藤吉郎は「いぃ、いててて、いてぇっ」と声を上げている。

 そうだ――

 信乃は微笑んだ。

 あの日藤吉郎は、自分が顔を泣き腫らしていたのを己のせいだと思って謝りにきたのだ。

 本当に、人がいい――

 思いながら信乃は立ち上がり、藤吉郎たちのところへ向かって歩きはじめた。

 ――違うのです!

 信乃は廊下を走り出した。

 そうだ、違うのだ。

 そうではない――

 あと少し――その藤吉郎の幻に――手を伸ばし、つかもうとして――消えた。

 目の前には、ただ、白い壁が――。

 触れると固く何もない、ただ、白い壁が――。

 前にも後ろにも、誰もいない。

 先程の隈吉の言葉が蘇った。

 ――藤吉郎の命を救いたくば――

 信乃は足の力が抜けて、ガクガクとその場に崩れ落ちた。その隈吉の伝える口調が、あの小坂靭実の姿を思い起こさせた。

 ――明朝、山の端に朝日が昇りきるまでに、砦山の頂にまでくるがいい。

 信乃はボロボロと涙をこぼしながら、崩れ落ちる体を支えようと、目の前の白い壁にすがった。

 そんなつもりではなかった。

 そんなつもりで、あの布も、渡したのではなかった――手を伸ばせば、届くと――誰も想うては、ならぬのではない――この想いも、間違えではない――たとえ幻でも真実だと、信じて――

 姉様!

 手でその壁をうちつける。

 姉様!

 もう一度強くうちつけた。

 姉様――!


 

 ふと、藤吉郎は我に返った。

 口にかませられた猿轡と、自由にならない体に、そして尻から伝わる冷気で、自分が囚われの身だということに気が付いた。

「寝ていたのか。」

声をかけられた。

「こんな時に眠れるとは、大物だな。」

靭実の声だと気付いて、藤吉郎は顔を上げた。

 辺りは既に日も暮れ、暗闇の中に沈んでいる。目の前で焚かれている焚火が、地面から立ち上る冷気とは対照的に、やたらに熱く照り付けている。

 靭実は焚火を挟んで斜め向こうにいる。床几(しょうぎ)――戦場で用いる折りたたみの椅子に腰を下ろし、焚火の火をみつめているらしかった。

 辺りに目を配す。

 どうやら自分は、地面に埋め込まれた木に、体を結わえ付けられているらしい。

 頭の上には夜空が見え、土地が開けている。山を登ったことから考えて、頂にいるらしかった。

 一体今何時なのか、さっぱり見当がつかない。

 すると靭実が、

「飯でも食うか。」

言って、立ち上がった。

「小便もしたかろう。」

立ち上がった靭実は、待機している兵に声をかけた。兵はすぐに靭実に近付き、靭実は手短に指示をだした。そしてすぐに藤吉郎のところへやってきた。

 藤吉郎を木に結わえ付けた縄をほどくと、藤吉郎を立ち上がらせ、木立の近くまで連れていった。

 用を足させる。

 それからすぐにまた元の木の所に戻してすわらせると、藤吉郎を木に縛り付けた。

 それから兵は、すぐに餅を用意し始めた。

 それを焚火の火で炙るのだろう。

 囚われの身に、それは破格の待遇だった。

 その餅が焼けるのを待つ間に、藤吉郎は靭実の顔を探った。

 何を企んでいる。

 何故、殺さぬのだ。

「父上は息災か。」

突然、靭実の方から尋ねてきた。

 答えようにも、猿轡をかませられたままでは答えようがない。

 藤吉郎がそのまま黙っていると、また靭実が、

「何故行動を別にしている。それとも、この近くにおられるのか。」

靭実は立ち上がった。

「近くを探った限りでは、敵の気配はなかった。朝になってここから半時ほど歩いた寺に、兵の野営した後があったそうだが、どうみても小隊で、既に姿はなかったという。まさか由良どのが、本陣と離れてあんな小隊を率いているとも思えぬ。」

そう言いながら、藤吉郎に近付いてきた。警戒して見ていると、傍らに腰をおろした。

 藤吉郎の口にはめた猿轡を、自らの手で外した。

 餅も焼けたのか、焚火の火で炙っていた兵が、それを持って近付いて来る。

 靭実が兵に「食べさせろ」と指示を出すと、靭実はまた床几のところへと戻っていった。

 兵が藤吉郎の口に餅を突き出す。

 藤吉郎はやや躊躇したが、どうせ死ぬなら同じこと――と、その餅にかぶりついた。

 瞬く間に平らげると、今度は竹筒を差し出される。

 それも、勢いよく飲んだ。

 食事が終わると兵は引き上げた。

 そしてまた、靭実が、「さて」と言葉を継いだ。

「先程の質問だ。なぜ父上はおられぬ。なぜ、単独行動なのだ。」

 藤吉郎はまた、探るように靭実をみつめる。

 何を探っているのだろう。――えらく遠回しな聞き方だ。

 なぜ自分達がここにいるのが分かったか、それを知りたいか――敵が、どの程度内情を把握しているのかを――。

 力で口を割らぬのなら、遠回しにと考えたか。

 藤吉郎は靭実から視線を外した。

「怪我をしたのだ。」

そう言った。

「それで、前線から外された。父上とは別行動だ。」

靭実は藤吉郎に視線を投げた。

 立ち上がる。

 藤吉郎に近付くと、「どこだ」と尋ねた。「左腕の…」と言い終わるか終わらぬかのうちに、藤吉郎の前にしゃがみ込み、左腕をつかんで手前に引き寄せた。藤吉郎の体が傾くのも構わず、荒々しく左腕の衣服をはぎ、傷口を覆った布をはぐと、靭実は焚火の火でその腕を照らした。

 靭実の動きが、にわかに止まる。

 みつめたまま、動かない。

 やがて、その傷をみつめる靭実の口元が、笑ったように見えた。

「傷を負って前線からはずされたのなら、新しい傷のはずだ。」

口を開いた。

 それから、藤吉郎の顔に視線を投げる。

「治っているではないか。」

言う、靭実の口元が笑っていて、気のせいかこころなし、歪んでいる。

 靭実は立ち上がった。

 そしてまた元の所へ戻って腰を下ろすと、少し心落ち着かない様子で、目の前の焚火を木の枝でかき始めた。

 ごうと音をたてて、火が燃え盛る。

 その火をみつめながら、吐き捨てるように、

「直衛だろう。」

そう言った。

 言われてぎょっとすると、慌てて靭実を見た。何か言おうとすると、続けて靭実が、

「俺がここにいることを見破ったのは、直衛だろう。あいつ以外考えられない。」

違うと言おうとするのに、なぜか言葉が出ない。

 靭実は続ける。

「あいつはどうした。あれほどの奴が、少しも噂をきかない。とうの昔に稲賀に出仕して、重臣に名を連ねる頃かと思っていたのに、少しも――。奴は、どうしたのだ。」

 藤吉郎は息を飲んだ。

 目の前の男から、「小坂靭実」の陰が消えている。

 藤吉郎は目を見張りながら、

「朔次郎兄。」

と言葉を発した。

 その言葉にびくりとしたのは、靭実だった。

「直衛どのは、まゆみ様が亡くなられて、折れてしまったのだ。まだそこから立ち直れず――だから、朔次郎兄」

言うと、突然靭実が立ちあがった。藤吉郎に一瞥をくれると、藤吉郎に向かって歩みより、腰に携えた刀を抜いた。

 藤吉郎に突きつける。

 藤吉郎が靭実を、息を飲んで見上げていると、靭実は右手に握った刀をつきつけたまま藤吉郎を見下ろしている。

「その名で呼ぶな。」

見ていると、刀を持った手に力がこもっているのがわかる。

 藤吉郎は緊張して靭実を見上げた。

 靭実は刀をひき、しばらく藤吉郎の前に立ち尽くしていたが、大きく刀を振り上げ、ぶんと振り下ろすと、また刀を鞘に収めた。

 靭実の息が粗い。

 それから彼は、横においてあった布に手を伸ばすと、兵を呼んで藤吉郎の口にかませるように命じた。

 兵は命じられるままに、藤吉郎の口に布をまきつける。

 それからまた、床几に腰を下ろすと、腰にさしていた刀を鞘ごとぬいて、それを目の前に両手で立てた。両手を柄の上に載せると、その上に顎を置き、じっと焚火の炎をみつめた。

「たかが女のことではないか。」

どこか顔を歪ませながら、ふっと笑った。

「直衛だ。」

 姿勢を正し、刀を挟んで足を組んだ。

「あれだけ先を嘱望された男が、たかが女一人に身を持ち崩すとは」

 背を丸めて刀を抱く。

「何がいけなかったのだ。奴の――あれが、弱さか」

ひとり言のようにつぶやいた。

 ふと、靭実は何かに気がついたようで、丸めた体を起き上がらせた。

 刀の柄を右手で握り、地面に先をつけたまま、藤吉郎に向かってその刀を示すと、

「巫女姫小夜を斬った刀だ。」

そう言った。

 藤吉郎は目を見張った。

 しかし構わず靭実は、

「どちらが来るのだ。」

言葉を続けた。

 どちらが来るのだとは、どういうことかと面喰らっていると、また靭実は、

「お前の命とひきかえに、明朝、太陽が山の端に昇り切るまでに、お前の布を持っていた持ち主は、この頂へ飛んで来いと、お前と一緒にいた男を遣いに出したのだ。」

藤吉郎ははじかれたように頭をあげ、体を乗り出した。それから足に力をこめると、

「それで、やってくるのは、小夜か、それとも信乃か。――お前に小夜の布を預けたのも、その傷を治したのも、どちらかなのだろう。」

 藤吉郎は、信じられぬ、いや、信じたくないという思いで、靭実の言葉をきいていた。靭実はまだ、一人で話し続けている。

「小夜は、昔ならまだしも、今はそう簡単に男に心を許す女ではあるまい――すると、信乃か? いや、信乃なら、そこまで美しく傷を治すはずはないものな。ならば、ここへ空を駆ってくるのは、小夜だろうか――いや」

靭実は言いながら、藤吉郎に視線を向けた。

 靭実の顔に、明らかに落ち着きのない、動揺の色が浮かんでいる。その顔を見ながら、藤吉郎は靭実の、何かが、おかしいと思った。

 何かが、おかしい。

 そして、おかしいと思いながら、遠く、由良の館にいる信乃に思いを馳せた。

 来るなと叫んだ。

 声よ届けと願いながら、心の中で、来るなと叫んだ。

 信乃よ、来るな――と。


 

 赤木が駐屯所へと帰った後、由良の館の広間では、橘が自室へ帰る旨を告げて、六佐と席を立った。

 席をはずす橘を、直衛は何かいいたげな顔でみつめていた。しかしそのまま何も言わず、六佐とともに去る橘を見送った。

 橘が広間から出て行くと、丙吾が深田に、

「由良の兵は、村にどれぐらい残っている。」

そう尋ねた。すると深田が、

「年寄りや若造を集めましても」

「使える者だ。」

そこで深田は一度言葉を飲むと、しばらく考えて、

「どうみつもっても、五十そこそこ」

「丙吾さま」

直衛が口を挟んだ。

「この状況で、由良の兵を村から動かせば、お館でなんと思われるか」

 まして、さらに駐屯所の兵を、私用で使うわけにはいかない――それは、わかりきったことだった。

 丙吾はため息をついた。

 両手で顔を覆い、眉間を指先で押さえた。

「藤吉郎はなぜ捕らえられたのか。」

尋ねても答えのみつからない問いだった。それでも口からついて出たのだろう。

 丙吾は、線が細く色白で華奢に見えても、落ち着いてよく頭の回る秀才だった。直衛には及ばずとも、剣の腕は弟に及ばずとも、高野のお館の血を濃く継いだのか、由良の跡継ぎにはふさわしい男だった。

 その男でも、弟を救うことはできない。

 ただ、時の過ぎるのを待つしかない。

「父上なら、こんな時どうされただろう。」

丙吾がそう言うと、深田が姿勢正しく座りなおし、両こぶしを床について、「恐れながら」と緊張した面持ちで言葉を継いだ。

「玉来と由良のこの先の安寧を、一番にお考えになるかと。」

その答えをきいて丙吾は、ため息をついた。

「そうだ。」

 両肘を膝の上に置き、右手をぎゅっと握りしめた。そして、

「その通りだ。」

続けた。

 だからと言って、何もせずに藤吉郎を見殺しにするわけにもいかず、丙吾はそのまま黙りこんだ。

 その時だった。

 橘の部屋の方から、女の騒ぐ声が聞こえてきた。

 この家の奥方、しずの声だ。

 直衛は立ち上がった。

 つられて、丙吾と深田五郎も立ち上がった。


 

 信乃が壁にもたれて薄暗い廊下の向こうを見ていると、橘と六佐が歩いてくるのが見えた。

 信乃は眼差しをあげ、橘が近づいてくるにつれ、体を徐々に起き上がらせた。

 橘が信乃の近くまでやってくると、

「おぬし、こんなところで何をしておる。」

そう尋ねた。それから信乃の前を通り過ぎながら、

「早く部屋へ入るがよい。そなた、夕食はまだであろう。」

言いながら歩いていく。遠ざかるにつれて、信乃が体を起こし、立ち上がった。目の前の六佐の背中は、橘の部屋の入り口近くまで歩いていく。すると、その腕の中にいる橘が、

「なんだそなた、夕餉をここに散らかしたままではないか。早う片付けよ。」

などと言っている。信乃は橘の後を追いながら、「橘の君――お待ちください、巫女様。」とつぶやいて橘の後を追った。

「丙吾さまは、直衛さまは、藤吉郎様を、どうなさると」

 部屋の入口近くでようよう追いついて、信乃は六佐の服の袖口を捕まえた。足から崩れ落ちそうになる体を、なんとか支えて、

「橘の君、とぅ――藤吉郎さまは」

言って、六佐ごしに見える橘の後ろ頭をみつめた。橘は振り返る気配がない。

 ややあって、廊下をすり歩く女の足音が聞こえてきた。

 やがて足音の主が、

「橘の君、お待ちください!」

と叫んだ。

 しずだった。

「橘の君、お待ちください! お願いでございます。――お願いでございます。六佐どのを、六佐どのを――お貸しください!」

 しずが六佐に追いつくと、入口の前の廊下にそのまま正座し、立ったままの六佐と橘に向かって頭を下げた。そして、

「お願いでございます! 橘の君、六佐どのを、六佐どのを、藤吉郎のために、お貸しくださいませ!」

 しずが頭を下げるのに、六佐ごと橘が振り返った。六佐がそのままその場に腰を下ろすと、廊下の端の方から直衛たちが走り寄ってきた。

 橘が「どれ、しずどの、顔をあげられよ、どうかこんなところではなく、中へ」というのに、しずはその場で頭をあげて続けた。

「馬鹿な母とお思いでしょう、しかし、――この母の願いをお聞き届けいただいきたい。六佐どの始め一門の助佐方は、夜の闇を馬でかけ、数人の敵をくらまして、一門の巫祝の方々をお守りする力があると聞き及んでおります。六佐どのを始めとして、助佐方にお力を借りられれば」

 六佐とともにその場に腰を下ろした橘は、しずの言葉を黙ってきいていた。しかし、橘はしばらく考える様子でいたが、静かに口を開き、

「しずどの、申し訳ない。」

そばできいていた直衛は、思わず目をつぶった。

「六佐とて、私には一門からの預かり者にすぎぬ。」

 橘の言葉に、色の悪い痩せ衰えたしずの顔が、さらに蒼白になっていく。

 橘は続けた。

「ですから、一門のことではないのに、私の一存で、命の危険に関わるようなことは、させられぬのです。」

しずは一瞬たじろぐ気配を見せたが、すぐに持ち直し、

「そこを――! そこを曲げて、橘の君! わかっておりまする、それは、我らは、橘の君に、私用の願いをしてはならぬと、わかって、いえ、それをわかって、お願いするのでございますれば」

「しずどの。」

橘はやや困ったような顔で、しずの言葉をきいていた。

「お許し願いたい。」

言ったしずの顔が絶望に変わるかと思った瞬間、信乃が、

「わたくしが!」

と、二人の間に割って入った。

「わたくしが! わたくしが参ります! 皆さまがた、ええ、私が、参ります。――橘の君も、皆さま方も、なぜ、わたくしに行けと、仰せにならないのか。私が――わたくしのせいですのに、なぜ、当事者のわたくしを、一人のけ者にして、お話をなさるのか。」

言う、信乃の目からぼろぼろと涙がこぼれた。

「どうか、私に、馬をお貸しください、私に――」

取り乱しそうになる信乃の肩に、横から丙吾が手をかけた。

 「信乃どの」と話しかける。

 信乃が丙吾の顔を振り返ると、丙吾は苦笑いを浮かべ、信乃を見ていた。

「信乃どの、それはなせませぬ。」

そう静かにつぶやいた。そして続けて、

「信乃どののような女人を――しかも、信乃どのの身は、信乃どのの御身一つのようでありながら、お館さまと大木村の村長どのからお預かりした身でございます。そのような身を、弟の不始末のために、戦場へ行かせることなどできませぬ。」

「しかし!」

「お気持ちだけありがたく頂戴いたします、信乃どの。信乃どのを行かせれば、我々も父の立場も、危うくなりかねない。」

「でも、わたくしのせいなのに!」

丙吾は首を振った。

「あなたのせいではありませぬ。あれは、戦場で勝ち抜いた男の慢心がなさせた、女への執心によるもの。弟はそれに偶然居合わせた。あなたのせいではありませぬ。――従っては、なりませぬ。」

 ゆっくりと語りかける丙吾を、信乃がすがるようにみつめる。それから、泣きながら首を振った。

「兄君では、ありませぬか!」

信乃の言葉に、丙吾は瞬時乱れかけた。しかし、すぐに何かをくっとこらえるような顔を見せた。

 そして、

「私は藤吉郎の兄ではあるが、今は玉来の長の、名代でもある。」

 そう言って、丙吾は立ち上がった。

「あきを呼んで、ここの膳を片付けさせるように。」

そう言って、すぐに、しずの肩に手をかけると、

「さ、母上も、お部屋に戻られよ。橘の君に、無理を申してはなりませぬ。」

そう言いながら、呆然とするしずを助け起こして、立たせた。

「お騒がせした。」

 そう言って、よろめく母を導いて、丙吾は廊下を帰り始めた。

 信乃はその姿を見送っていたが、すぐにその姿をふりきって、部屋の中へ帰ろうとする橘を呼びとめた。

「橘の君、お待ちください! 橘の君。」

 橘は待つ気配もなく、いつもの神棚の前の定位置へと戻ろうとする。それに向かって信乃は、

「わたくしを、行かせてください。小坂は、我らの力を手に入れたくて、私にこいと言っているのです。藤吉郎さまは、何も関係がないのに――藤吉郎さまは、とぅ――我ら姉妹の、犠牲に」

 取り乱した信乃の目から涙がこぼれる。

 廊下にいた直衛が入りこんで、信乃の両肩を手でつかむと、

「信乃どの、こればかりは、なせぬことなのです。おやめなさい。」

そう声をかけた。信乃は振り返り、思わず目を見張って直衛の顔を見つめた。言葉を失って直衛をみつめると、後ろから橘が、

「先程も言うたであろう、これは、罠だ。そなたもわかっておるはず――万が一、明朝までに藤吉郎が生かされたとしても、万が一、そなたが明け方までにたどり着けたとしても、藤吉郎の命はない。そなたが行けば、そなたが敵の手に渡るだけ――無駄なことだ。ましてそのようなこと、我らがさせるわけにはいかぬ。」

その橘に続いて、直衛が口をはさんだ。

「しかも本日は、月のない夜にて、馬で駆けることもかないませぬ。馬になれた兵でも、明かりを灯してようよう――夜目でも疾走できる六佐たちならいざしらず、ただ人にはできぬこと――とても、間にあうとは思えませぬ。」

「では」直衛の言葉をきいて、信乃は橘に振り返った。「では、六佐をお貸しください。六佐であれば――」

「ならぬと!」

信乃の泣きながらすがる声に、橘の声が勢い大きくなった。それで橘は一息つくと、

「ならぬと、いうておろうが。」

「しかし、六佐なら間に合うと」

「六佐で間に合うても、結果は同じこと。仮に藤吉郎を奪い返そうにも、相手が小坂では、六佐の剣の腕では歯が立たぬわ。結局は六佐自身も危険に陥るだけだ。」

 信乃は橘の言葉に、呆然とした。

 気が遠くなりそうになりながら、その場に座りこむ。

 橘はそこで息をつくと、静かに目を閉じた。

 背後であきがやってきて、膳を片付ける音が聞こえてきた。しかし信乃の耳に、その音が聞こえてはくるが、何も考えることができない。

 あきに手伝って、いつの間にか信乃から離れた直衛も動くらしいが、その音もしばらくすると聞こえなくなった。

 部屋の戸が閉められたのだ。

 しんとする部屋の中で、信乃はまだ呆然としていたが、やがてその面持ちを定めると、強い目で橘を見た。それから、

「橘の君。」

声をかけた。

「『気封じの玉』の封印を、お解きください。」

橘は驚いて、閉じていた目を開いた。

 やや動じて、

「な…」

「『気封じの玉』の封印を、お解きください。玉の封印が解ければ、この身は空をかけ」

「信乃」

「藤吉郎さまの元へと馳せ参じ」

「信乃!」

「小坂ともども、吹き飛ばしてしまいましょう」

「信乃! 気でも狂うたか。」

「お願いでございます、橘の君」

「信乃、そなたはまだ」

「修行中の身なれども、ここへ来た時よりもはるかにマシになっているはず。」

 橘は粗い息を押し殺すように、信乃の目を見つめ返した。

 信乃は続ける。

「幸い兵は少なく、小坂をのぞいてはまず、空から参るとは思いませぬ。しかし小坂は、日が昇りきるまでに参れと言うておるということは、明け方の光を頼りに飛んで参れということでございます。ならば」

「ならぬ。」

「橘の君!」

「馬で行くより、余計に悪いわ。」

「なぜでございます!」

「そなたがあの日ここまでたどり着けたは、そなたの力ばかりではない。巫女姫どのの念があの玉にかけられていたからこそ、あやまたずここへたどり着けた。空は飛べよう――しかし、誰が操りきれるという。修行など、はじめてまだ一月そこそこ」

「しかし、橘の君」

「あの日より一度でも力を使って精霊に乗れたというなら話はわかる。しかし、ただの一度もない上に、狙いを定めて戦場へ行くなどと」

「巫女様!」

「諦めよ。こうなったのも、あれの運命であろう。定められた道を、もはや変えることはできぬ、そう思って」

「巫女様、お願いでございます。諦めろなどと――このままでは、耐えられませぬ。このままでは、このままでは、――狂うてしまいます!」

「ならば!」橘は声を荒げた。「――狂うてしまうがよい!」

「巫女様!」

橘は右足をひきずりながら、両手を使って片膝で畳の上を進み、信乃の両腕を両手でつかんだ。そして、その顔に顔を近づけると、

「なぜに、そのように、聞き分けのないことを言う。戦に死はつきもの――こたびは前もってそれが予告されたにすぎぬ。知らずに死んだか、知って死ぬかの違いなのだ。ならば、最初から、知らなかったと、諦めるよりほかなかろう。」

 橘の真剣なまなざしを、信乃は見つめ返した。

 横に首を振る。

「巫女様は」また信乃の目からホタホタと涙がこぼれた。「巫女様は、それで、諦めきれますのか。救える命を、諦めろ、などと――巫女様は、わたくしより長く藤吉郎さまをご存じではありませぬのか。」

「しかし、できるものと、できないものとがあるのは、確かであろう。由良がこの時、藤吉郎がために玉来を離れて兵を動かせば、身勝手な行動で規律を乱した――場合によっては、反意ありともとられかねぬ。かといって、六佐をやって犬死をさせるわけにもいかぬ。まさかそなたをやるわけにもいかぬ。ここは、こらえよ。これが、乱世の習いにて」

「ああ、もう…」信乃は橘から身をひいた。「もう、もう乱世という言葉は嫌でございます。姉さまがよく使っていらっしゃいました。『乱世だ。』、『乱世にございますれば』――乱世乱世といえば、すべて片が付くとでも思われている。」

「信乃!」

咎めようとする橘に構わず、今度は信乃が橘の腕にすがり、

「お願いでございます、お願いでございます、橘の君。私が、私が参ります。どなたにも、ご迷惑はおかけいたしませぬ。」

「ならぬ!」

「巫女様!」

 橘は強く、信乃の腕を握った。

「落ちつけ、落ち着くがよい、信乃よ。そなた、そのまま行って命を捨てる気か――何のために、巫女姫どのがそなたを大木村から逃した――何のために、我らがそなたをここで預かっていると思っている。それは、藤吉郎のために、命を捨てさせるためではない。そなたを生きながらえさせるために。」

「では、巫女様は、藤吉郎さまが死んでもよいとおおせられるか。」

「そうではない、そうではないのだ、信乃」

「あんまりではありませぬか! 人一人が生きようか死のうかというときに、なぜそのような打算が働くのです。なぜ、ただ今飛び立って、藤吉郎さまを助けようというお話になられぬ。あんまり――」

信乃が橘の腕をふりほどこうともがく。もがく手が橘の顔に当たり、橘は思わず反射的に信乃の顔を打った。

「いいかげんにいたせ!」

橘の一喝に、信乃の動きが止まる。橘はそのまま、姿勢正しく信乃に面して、大声で、

「このように取り乱した女のために、封印が解けるものか! またあの日のように、嵐を呼ばれては困るわ!」

 橘は息を大きく乱した。呼吸が粗い。

 対する信乃の呼吸も激しかった。

 しばらく二人は息を整えながら見合っていた。しかし、信乃はそれから力なくそこに座り込む。

 声を抑えて泣き始めた。

 手で顔を覆う。

 部屋の中に、信乃のすすり泣く声だけが響く。橘が信乃から退き、いつもの場所へと席を移すと、静かに心を治めようと努力した。

 外に出損ねて部屋の中にいた六佐が、おろおろと二人の様子を見ていたが、信乃がいつまでもしくしくと泣くのをやめようとしないので、六佐は信乃にそっと近づき、

「しの」

と声をかけた。すると橘が、

「六佐、放っておけ」

と声をかける。それで六佐は困ったような顔をして顔をあげ、橘を見たが、それでも信乃が泣きやまないので、

「しの、ろくざ、いける。ろくざ、夜、走れる。馬にしの、のせて」

「六佐! 余計なことを言うでない!」

六佐の言葉を、橘の一喝が切った。橘の声に六佐はたじろぎ、それから、しょげた。大きな体がその場で小さくなり、そして、すごすごと入口へと下がる。

 しょげかえりながら、六佐は部屋を出て行った。

 信乃はうつむいて泣いたまま、いやな空気が部屋を占める。橘は呼吸が整うと、ただじっとそこに端坐した。

 ややあって信乃が泣くのをやめた。

 顔をあげ、ぼうとした顔を橘に向ける。橘は橘で気付かぬふうで、ただじっと目を閉じてすわっていた。

 信乃が橘に語りかける。

「ここへ来た始めの日で、ございます。」

話しかけても、橘は応じようとしない。

 信乃は続けた。

「――わたくしは、この巫女さまなら、きっと、私の力になってくださるものと――私を助けてくださるものと、思いました。巫女姫一族のことをご存じで、由良様のことを話され、ご自分のことも話され――巫女様の、お母上のことをきかされ、巫女様もずっと一人で――今も一人で――きっとこの方は私に近くて、姉のように――姉以上に、私を支えてくださるものと――ですから、きっと私の意を解して、きっとお力になってくれるものと」

 橘が眼差しを上げた。

 上げて、信乃の方を見る。

 何か驚いたような目をして信乃を見ていたが、ややあって、顔を歪ませ、ふっと鼻で笑った。

 続けて、ふっふと笑う。

 そして、

「あれは――、あの、私の生い立ちは、誰にでもする話だ。」

 信乃は思わず目を見張った。

 橘は続けて、

「そうでもせねばの、この世は、鬼ならぬ人が多いゆえ、我のような成り上がりを妬んで、敵に回そうとするものにやられてしまう。そのようなものの妬みを煙に巻くため、我が編み出した、あれは、われの処世の術なのだ。」

 橘がそう言い放つ顔を、信乃は呆然と見つめた。

 手が震える。

 それをぐっと抑えつけると、今度は唇が震えた。震える唇をぎゅっとかみしめ、胸でくっとこらえると、橘をみつめ、

「橘の君は――」

平静を保とうと体に力をこめた。

「おさみしうは、ございませぬのか。」

視線の先の橘は、ただじっと座ったままでいる。

 やがて静かに視線を下ろすと、

「さみしうなどない。」

それから、眼差しをあげて、信乃を見た。

「母者に捨てられた時から、ずっと一人だ。――さみしさなどというものは、心に頼る者がいたからこそ生まれる思い――我は、さみしさなど知らぬ。」

 嘘だと思った。

 橘の言葉をききながら、信乃は、それは嘘だと思った。

 たとえそれが心からの言葉だとしても、そう思っているにすぎない。

 言い聞かせてきただけにすぎない。

 信乃は立ち上がった。

 部屋の入り口へ向かって歩みを進めようとした。

 すると、橘が、

「どこへ行く。」

声をかけた。

「外で、頭を冷やして参ります。」

言って、信乃は部屋を出た。

 部屋の外は美しく後片付けがされ、六佐がいつものように入口のところで控えていた。

 その六佐に信乃は何も言わず、前を通り過ぎて、館の入り口へと目指して歩いた。

 ここから歩いても、夜明けには間に合わない。

 かけても、間に合わない。

 馬で行くか、空を行くか――しかし馬で行くにしても、信乃は早駆けをしたことはなかった。誰かに手綱を頼むか、あるいは、なしたことのないことを無理にするか。

 履物を履いて、館の入り口を出る。

 諦めるわけにはいかなかった。

 馬で行くにしても、刻一刻と時は迫っている。

 砦山の位置を、信乃は知らなかった。しかしおそらく、結城あたりというならば、この地から北北東の位置になろうか。

 信乃は館の前の広場へと足を進めながら、星ばかりの夜空を見上げた。

 歩くには困らない。しかし、馬で行くほど視界がとれるかどうか――。

 兵たちは馬の前に松明を提げて走る。それでもその走りに慣れた者でなければ、暗所では足を踏み外そう。

 たとえハヤテを呼んで飛べたとしても、勝手知ったる大木村ならいざしらず、この夜空を、知らぬ土地へ初めて飛ぶのは、無謀としか言いようがないことは、自分でもよくわかる。

 飛ぶなら夜明け間近だ。

 橘が封印を解かぬのなら、今この半端な力で、ハヤテを呼んで飛ぶことはできぬだろうか。

 まだその背に――乗せてはもらえぬのだろうか。

 橘は、なぜにあそこまで、譲らぬのだろう。

 決められたことに従い、少しもゆるがず、はみ出さず――乱世では、そうでなければ生きられぬのか――人の心までも、定めの檻にはめて、生きねばならぬのか――。


 

 直衛は一人、部屋で地図を広げながら、砦山までの道のりを確認していた。

 砦山に向かうにも、馬を走らせていくならば、明朝に間に合わせるとして、子の刻には出立していなければならない。――しかし一人で、待機中の兵三十名を相手にして戦いきり、その後靭実と対峙し、奴と戦うだけの力が残っているとは、とても思えない。

 小坂靭実の――朔次郎のこの暴挙は、直衛には全く予測できなかった。

 確かに、あの男は昔から、ふとしたことで激しく頭に血が上る。

 ひそかに計画を立てたその布陣を、見破られて頭に血が上るだろうことは容易に想像できた。

 それが戦場であったならいい。

 かえってそれが効果的に働いただろう。

 しかしなぜ、開戦前なのか――そしてなぜ、藤吉郎がそこに居合わせたのか。

 直衛は思わず目を閉じた。

 今はそのことを考えているときではない。

 そして直衛には、藤吉郎を見捨てることなどできない。

 丙吾とて、駐屯所の藤吉郎と仲のいい兵たちとて、同じ気持ちであろう。

 しかし隊を組んでは動けない。せめて――直衛は頭を抱えた。

 せめて、六佐どもの助けがあれば。

 直衛は初めて、自分の地位のないのを――望まれながらもこの地にとどまり、自分の地位をろくに築いてこなかったことを、悔いた。

 どんなに力があっても、能力があっても、いざという時、所詮権力が伴っていなければ、使いものにはならない。

 ろくに、何も動かせない。

 こうして、力及ばぬことに歯がみしているしかない。

 直衛は一つため息をつき、立ち上がった。

 ――と、家の表で誰か、大きな声で呼ぶ女の声がきこえた。

 信乃の声だ。

 直衛は急いで部屋を出、家の入り口へと向かった。

 廊下に出ると、すぐに入り口へとたどり着く。直衛の母が同じく出てきたが、直衛が「私が。」と言って母を制した。外から「直衛さま、直衛さま、お願いでございます、直衛さま。」と激しく呼びながら、戸を打ちつけている。直衛は「お待ちなさい、今すぐ開けます」と言って、入口にある狭い土間に下り、木戸を開けた。

 開けると、信乃の体が勢いづいて直衛の体に飛び込んできた。それを支える直衛にすがって、信乃は急いで体を起こす。

「直衛さま」

「いかがされた。」

「直衛さま、お願い――お願いでございます。」

粗い息で、必死の形相をしている。

「信乃どの、いかがされた、落ち着きなされ。」

「やはり、だめなのです。」

「だめ? だめとは?」

「ハヤテが――ハヤテがいうことをきいてはくれませぬ。」

「ハヤテ?」

「わたくし、馬で行こうかと馬小屋まで足を運んだものの、私の腕と残された時間では到底砦山へはたどりつけぬと思い、それで、ハヤテを呼ぼうと」

「信乃どの、お待ちなさい。ハヤテとは、誰なのです。」

「風の精霊でございます。我ら一族にのみ」信乃が語り出す言葉に、直衛は慌てて信乃を自分とともに表へ出した。「その背に乗ることを許された、風の精霊でございます。」

家の入口の戸を閉める。

「そのハヤテが、言うことをきいてくれぬのです。――早く、行かねば、間に合わぬのに――藤吉郎さまが、殺されてしまう、殺されて――」

崩れ落ちそうになる信乃を、直衛は両手で支えた。

「信乃どの、しっかりなされ。――そもそも、あなた一人で、砦山に行こうなどと――その、ハヤテに乗れたとして、後はどうなさる。無謀なことは考えなさるな。」

「いいえ。」

信乃は首を振った。

「いいえ、いいえ、直衛さま。我らが力をもってすれば、ハヤテに乗ってたどりつき、小坂もろとも吹き飛ばしてしまいましょう。しかし、ハヤテに乗れぬでは、意味がない、お願いでございます、お願いでございます、直衛さま。」

ぼろぼろと信乃の目から涙がこぼれた。その涙を信乃は手でぬぐう。一度つばを飲み込み、暗い中、しっかと直衛を見上げた。

 今度は信乃が直衛の両腕をつかむ。

「お願いでございます、直衛さま。橘の君を、説得してください、どうか――どうか、私の力を封じている、気封じの玉の封印を、解いて、いただきたいと。」

 信乃は粗い呼吸の中、なんとか息を整えようとうつむいた。苦しそうに息を吐く。

 また、顔をあげ、

「時間が――ないのです。直衛さま、さあ。」

そう言って、直衛の手をつかみ、由良の館へ引いて行こうとした。そこで、慌てて直衛が、

「信乃どの、信乃どの、お待ちなさい。信乃どの、落ち着かれよ。まずは、その息を整えなさい、信乃どの。それでは何もできますまい。」

直衛が立ち止まって、つかまれた腕をつかみ返し、信乃の行くのを抑えようとする。

 呼吸の激しさに勝てず、信乃は直衛に言われるままにそこに立ち止まった。そして、なんとか、呼吸を整えようとする。

 直衛と二人そこに立ち、星明かりの中、直衛の顔を信乃は探った。

 そして、信乃は激しく恐れた。

 この人も、駄目というのだろうか――。

 この人も、見殺しにせよというのだろうか。

 体の奥から押し寄せる恐ろしさに、思わず信乃は両手で口元を抑え、震えた。

 抑えきれない嗚咽が、あっと声を上げてあふれそうになる。それを見ていた直衛が、「信乃どの」と声をかけて手を伸ばそうとしたが、信乃はその手を思わずはじいた。

 信乃の顔は歪んでいる。

「あなたがたは、なぜいつも、そのように落ち着いていられるのです。なぜにそのように、なんでもないようでいられるのです。」

「しかし信乃どの。」

「もう、時間がないのに――殺されてしまうというのに――なぜに、そのように落ち着いて」

「信乃どの、私は別に、なんでもないと思うては」

「死んだら――死んでしまえば、二度とこの世では会えぬのに――死んでしまえば」

信乃は、また直衛の腕をつかんだ。それから、急くような口ぶりで、

「早く、行きましょう、直衛さま。橘の君にお願いして、私の力を解いてもらいましょう。明朝夜明け前には飛べるように。」

「信乃どの」

右腕をつかんで無理に行こうとする信乃に、直衛は二、三歩足を進めたが、その信乃の乱暴なそぶりに思わず信乃の腕をつかんだ。それでも行こうとする信乃に、「信乃どの!」と一喝して強く腕を握り、その動きを制した。

「落ちつきなさい、信乃どの。あなたが行く必要はない。女のあなたに、この由良の客人であるあなたに、戦場へ行くことなど許されるはずがない。たとえ飛べたとして、たとえ行きつけたとして、何があるかわからぬ戦場です。それなら、六佐たちが動く方がまだいい。六佐を借りることを頼んだ方が、まだいい。――いや、それしかない。私も今、そのことを考えていたところです。それなら、あなたも気が落ち着きましょう。」

信乃は直衛の言葉を荒い呼吸で黙ってきいていた。しかし、直衛の顔を見上げると、顔を歪ませ、その首を振った。

「駄目なのです。」

直衛は信乃の言葉にたじろいだ。何が駄目なのかと思い、それを問おうとした瞬間、信乃の口から、

「駄目なのです。違うのです――それでは、意味がない。もし――」

信乃は直衛の胸元に両手をあて、その襟元をつかんだ。

「もし、それが失敗して、六佐が捕らえられ――藤吉郎さまが殺されたら、どうするのです。もう――それを待つのはいやでございます。死んだか、死なぬかと、気をもむのは――生きていることを期待して、死なぬことを願って、待つのは、いやでございます。いいえ、だからこそ自分が行って、一目会って――ええ、今すぐにでも馳せ参じ、一目でもお会いして、――でなければ」

直衛は信乃の言葉をききながら、抑えつけられた胸元の手をとり、その手を握り返した。信乃の顔をしっかとみつめ、

「信乃どの――信乃どのは、信乃どのは藤吉郎のことを」

信乃はすがるような眼で直衛をみつめ返している。

「ええ、好きです。お慕い申しております。――それを」

また信乃は崩れ落ちそうになりながら、直衛がそれを支えた。

「それをまだ、お伝えしてもいないのに――何も、伝えてはいないのに――このまま――このままでは」

頬を一筋、一筋と涙が伝いながら、信乃の体の力が抜けて行く。

 直衛は慌ててそれを支えた。

 なんでこの言葉をきくのが俺なのだと直衛が思いながらも、直衛は信乃の顔をぴたぴたと手でたたいた。

「信乃どの、信乃どの、しっかりしなさい、信乃どの。」

 信乃ははっとして、薄目に開けた目をまたはっきりと開いた。そして、直衛の手を慌てて離れ、一人立つ。

 震える手で、口元を覆った。

「あなた方はいつもそうです。」

ほろほろと涙がこぼれる。

「少しばかり年上で、だからといって、何もかも知ったような口をきいて――姉さまも、橘の君も、丙吾さまも、あなたも――まだ、決まったわけではないのに、誰か――が、決めたわけではないのに!」

信乃はこぶしを握って直衛の胸を打った。

「『定め』などと――『運命』などと、やってみなければわからないではないですか! 勝手に、勝手に、たかが、神ではない人の分際で、勝手に、決まってもいないことを、そうだと諦めて、決めて――決めてしまわないでください!」

 信乃に打たれながら、直衛の心に、あの高野の戦の日の、山手の道が浮かぶ。

 馬で走り去る、まゆみの後ろ姿が蘇った。

 ――我が名はまゆみ、亡国の姫なり。

 あざやかに、まゆみの最後の言葉が耳に響いた。

 ――そなたの重荷になるのはご免だ。

 ――はじめから、かなわぬ想いであった。所詮は――

 直衛がまゆみの言葉を思い出している間にも、信乃はまだ話を続けている。

「私、参ります。そう、やってみなければわからないのです。はじめから、駄目と決めつけてしまえば、何もかも、できるものも、駄目なのです。それなのに、あなたたちは――!」

 途端に、信乃が直衛の胸を打つのにあげていたこぶしの、その腕をとって、由良の館へ向かって歩き始めた。

「な、直衛さま。」

 突然歩き始めた直衛に信乃は面喰らった。

 足がもつれそうになる。

「そうだ、行った方がいい。」

直衛は信乃に振り返ってそう言った。それからまた、由良の館へと足を進める。

「出来ぬと諦めて、死んだように生きるなら、いっそ命をかけて、走ればいい――それの、何が悪い!」

 去りゆくまゆみを追えなかった直衛の後悔が、嵐のように彼の胸を襲った。

 昨日のことのように飛来する。

 激しく胸をせめぐ。

 流れる星のように、ただ一時燃えた炎のようでありながら、心に焼き付いて離れない。

 また、燃え盛る。

 乱世、星の瞬く間に人の命が消えて行く中で、己以外誰一人として知らぬ想いであり、しかし、それでも、その想いは、己とまゆみが生きた、軌跡なのだ。

 生きることの意味さえ失いそうになる、この乱世で、心に焼き付いて離れぬ、――何ものにも換えられぬ、ただ一つの生きた証だった。

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