第三章

 その日早朝、小坂靭実は、作戦を共にする国境近くの豪族、中尾雄山と作戦の手順を確認し、その館を後にした。

 百五十余りの兵を引き連れ、山越えで国境を越える。

 わずかとはいえ馬を連れ、甲冑を抱え、深い雪山を越えるのは、それだけで大変な労力だった。

 中尾雄山たちは後日、高階隆明らが出陣するその前日二十九日に出発し、雪山と、中津原へ向かうはずの道と、二大隊に分かれて行軍する。

 そのあとさらにお館から出陣した軍の別働隊と合流する予定だった。

 向かうは稲賀領結城――旧結城領玄武城跡だった。

 下見は、この敵陣に入って行う作戦の案が出てから、前日までにすませている。単体ではみつかりにくいものの、多くの兵をひきつれての行動では、確実に目立つ。その目立つはずの気配を消すために、「道をつける」のが、先発隊である靭実と、この中尾の役目だった。

 山越えで行く中津原への行程は初めてであるが、その先の土地はまだ高野にいる頃、何度も遠出して見歩いた土地だった。

 靭実にとっては、祖先の地である。

 しかし靭実にとっては、祖先の地として暮らした記憶はなかった。

 まだ赤子の頃、母と養母に連れられ、戦火の中、この地を抜け出した。塚本太郎と名乗る間もなく、義見朔次郎として生きた。育った。――それは異国、高野の地で、である。

 国境を超え、山のふもと付近にたどりつくと、木々の間から雪に覆われた田畑らしきものが見え始めた。

 人影はない。

 ここで靭実は甲冑と食糧を背負い、蓑と笠をまとった旅装の兵たちに、さらに十手に分かれて森の中を進むことを命じた。落ち合う場所は旧結城領玄武城跡の裏手東側にある物見台後、落ち合う時間は日暮れ時となる。

 彼らは分かれた後、中尾一軍がたどりつくための「道をつける」。

 つまり、彼らの目的は、その間にある敵軍の「目撃者」を一掃することだった。

 国境の山を越え、 さらに玄武城跡のある山を越え、その向こうに中津原が広がるこの土地一帯は、玄武城跡のある山の東側が、戦場である中津原から影になるため、雪山をあえて動けば移動がわかりづらい。またその中津原が戦場として使われるために、昨年末の戦であたり一帯の住人が逃げたまま、目撃者となる安住者も少なかった。国境付近で兵の出入りも激しく見張りの兵同士の小競り合いもひっきりなしに起こるため、かえって、この移動が作戦としての移動とわかりにくいのではないかと踏んだのだ。

 さらに、本陣別働隊の移動は新月の夜だった。

 それでも、その動きを見とがめるものが出るかもしれない。

 彼らは前もってその目撃者――敵への通報者となるであろうものを払い、あとの中尾軍もまた、この目撃者を仕止めつつやってくる。

 そして、その前もってつけられた道をたどる高階軍別働隊と合流した小坂たちは、一気に脇から敵の陣に攻め入るのだ。

 靭実は頭の中で作戦を復習しながら、目の前の、薄暗い木立をみつめた。

 玄武城跡までは、まだ少し。

 立ち止まって一つ息を吐いた。

 隊長に兵たちの休憩を命じさせる。

 交代で、食事と仮眠をとるのだ。

 兵たちがそれぞれにその場に腰を下ろすのを見届けると、靭実は腰に下げた筒から取り出した干飯を口にし、あたりの気配に耳をすませながら、森のはずれまで歩いた。

 玄武城跡のある山のはずれで、今越えてきた国境の雪山が見える。

 一年のうちに四度も山越えをしようとは。

 靭実の顔に自嘲気味な笑みが微かに浮かんだ。

 一度目は、小夜に助けられて、越えた。

 二度目は、小夜を捕らえに向かった。

 三度目は――靭実はそう思いながら、自分の胸元を見た。

 その胸元を、探らずとも分かる――捨てられず、未だに抱えた小夜の遺髪が――いや。

 いや、あの女は本当に、死んだのだろうか。

 靭実はその遺髪のある胸に手を当てた。

 その気配を探すように、空を見上げる。

 よく晴れた空だ。まだ雪は深いとはいえ、春も近い。

 斬ったはずの小夜が、神殿から消えていたと――噂には聞こえてきていた。忍びの者がその遺体を運び出して、埋めたとも伝えられているが、誰もその遺体を見ていないのだ――と。

 小夜の遺体は、誰も見ていない、と。

 それはつまり、生きているということではないのか。

 そしてこうして見上げていれば、どこかで、小夜を乗せたハヤテを見つけるのではないか。

 あの女が、死ぬはずがないのではないか。

 瀕死の床から人を蘇らせるあの女が、はたして自身本当に死んだりするだろうか。

 斬った手ごたえと、あのずっしりと重い、ぬくもりの残る体を、抱きとめて、置き去りにして、しかしその後また、あの神殿の中で、肉は生まれ、きっと、また、この世に、生きて、再び――もう一度――

 もう一度――

 靭実はここから遠く、南の地にある大木村の空を見つめ続けた。

 見つめ続けている限り、いつか、ハヤテに乗った小夜をみつけるような気がする。

 あの日、高階領をさまよいながら待ち続けたように、天を切って、小夜の姿が現れるのではないかと――。


 

 確かあの時信乃は、母の膝を枕にして、眠っていたのだと思う。なぜなら上から母と姉との話し声がきこえてきていたからだ。覚えているところでは、姉が父のことをひどく心配しているというふうであった。確か姉は、自分のために父が戦に出なくなるのなら、男子として名をあげるその道をふさぐことになるのではないかと、気に病んでいたのだ。

 せっかくそれだけの器量があるのに、と。

 父はその時の戦を最後に、戦場からひくことになっていた。そんな話をしていたのを、信乃も理解していた。

「ですが、小夜よ、父様は元から立身出世はのぞんではおりませぬ。」

母がそう穏やかに答えると、小夜が母に体を乗り出し、

「しかし――」

と、膝を寄せた。

 母はややあって、「小夜」――そう言いながら、目の前にすわっている小夜に上半身を近づけた。その反動で、信乃の目が開いて、信乃は二人の下からのぞき込む格好になる。母は右手を立て、小夜の耳にささやいていた。

「実はな、母様はな、父様が戦場に行かなくなるのが、嬉しいのです。」

小夜は母の言葉にはっとして身をひいた。その小夜を見ながら、母はふふと笑い、

「誰にも、言うてはなりませぬぞ。しかしな、これでもう、次はご無事で帰ってくるか、戦場でやられはせぬかと、気をもむ必要もなくなるのです。」

その言葉をききながら、小夜はまだ驚いた様子で母を見ていた。信乃は起き上がり、母の膝にすわってその体に腕をまわし、抱きついた。母は「おや、信乃起きたか」と言って、その信乃を受けとめながら、

「小夜は、父様に戦場で功績をあげ、立身出世していただきたいか。」

そういうと、小夜は驚いていた顔をふと真顔に戻し、その眼差しを落とすと、また母の顔を見あげ、それから母の耳元に口を寄せた。

「実は母様、私も、父様が戦場にいかぬときいて、ほっとしているのです。」

そして二人は顔を寄せたまま、うふふと笑った。

「内緒、で、ございますぞ。」

そう小夜がいうと、母も、うふふと笑いながら、

「内緒でございますぞ。」と続けた。

 母に抱きついたまま、信乃も

「ないしょで、ございますぞっ。」

と、応じた。

 小夜と母は、信乃の幼い声に笑いあい、母は信乃の顔を見た。信乃を抱きとめながら、その背をポンポンと叩く。

「我々おなごの、ないしょ、で、ございます。な、信乃。」

 ないしょ、で、ございます。

 ――あれは、一体いつのことだったか。

 あの会話を理解できていたのだから、それほど幼くはあるまい。

 しかし記憶をたどっても、信乃の中には誰か身近なものを戦場に送ったという記憶は、既に出て来ない。大木村に求められた出兵の数もさほど多くはなかったから、そのせいもあったかもしれない。

 明け方わずかにまどろんだだけで、信乃はほとんど眠れなかった。

 玉来村をはじめとする周辺の村々が、戦場へと向かう、その出立の日だった。

 朝お勤めをして、朝餉のあと、由良藤吾らの形式的な出陣式を橘が執り行うと言っていた。

 信乃は部屋の中がわずかに薄明るくなったのを機に、着替えて静かに外に出た。

 どうせ眠れぬのだから、動こう。

 そう思って手水場へと向かったのだ。

 しかし外に出ると、まだまだ厳しい朝の寒さに、信乃は身震いした。

 手水場の水は朝も早く凍っているのではあるまいか、お勝手で湯をもらった方がいいのではないかと思いながら手水場へと向かうと、薄明の中に既に誰かがいて、井戸から水をくみ上げている。その背を見て、ふと立ち止まり、進むのを躊躇したが、背中がこちらに振り返って信乃をみつけた。

「信乃どの。」

なぜか笑顔だった。

 それでそのまま、何事もなかったように信乃は、

「お早うございます、藤吉郎さま。いつもこのような時間に?」

「いえ、今朝は早く目が覚めまして――気がせいて早く起きてしまったのです。」

そう言って藤吉郎は、たすきがけた両の手で、ばしゃばしゃと顔を洗った。顔を洗うと、冷気にまぎれて湯気がたちのぼる。そのまま手ぬぐいで顔をぬぐうと、また顔を起こした。

「つ、冷たくはありませぬか。お勝手でお湯をいただいた方が。」

「何、冷たいのは最初のほんの一瞬のこと。信乃どのも使われるか。」

「あ、はい。」

そういうと、藤吉郎は自分の使った分の水を桶から捨て、新たに井戸から水をくみ上げようとしたので、信乃が、

「おやめください、藤吉郎さま。自分でやります。」

慌ててその動きをとめた。それから藤吉郎から急いで釣瓶を受け取ると、井戸の中へと釣瓶を落とした。

 井戸の中へと釣瓶が落ちて行く、その暗い底をみつめていると、藤吉郎が話しかけてきた。

「晴れましたなあ。まだ日は昇りませぬが、雲一つない。」

 それには答えず、信乃は釣瓶をひきあげた。水を桶にいれ、顔を洗う。

 冷たさに目が覚める。

 よくあんな平気な顔をして洗っていたものだと驚きながら藤吉郎を見ると、空を見上げているのかと思ったら、信乃を見ていた。ぎょっとしてまた急いで洗ってしまうと、信乃も手ぬぐいを顔にあてた。すると藤吉郎が話し続ける。

「最初に信乃どのをみつけた日も早朝で――しかし、雨でした。小雨が降る中、橘の君に叩き起こされ、橘の君を背負い、裏山へと駆けたのです。」

 信乃は思わず、薄暗い中藤吉郎の顔を探った。

 なぜ、今、そんな日の話をするのだろうと信乃は思った。

 藤吉郎は続ける。

「もう一月半――いや、まだ、一月半にしかなりませぬか。不思議なもので、年を越すと、遠い昔のことのように思える。」

 なぜこんな話をするのだろう。これでは、長の別れを前にしたようではないか、縁起が悪い。

 信乃は慌てて、藤吉郎の話をとめさせようと、口を開きかけた。すると、藤吉郎が、

「あの雨は、信乃どののせいで降ったのだと、後で橘の君におききしました。」

 一瞬、わが耳を疑った。

 激しく動揺する。

 その動揺に気付かないのか、藤吉郎は話し続ける。

「人には見えぬはずの鳥が私には見え、白石山を早朝立ったというのに、その朝にはこの村にいたという信乃どののお言葉が理解できず、橘の君にうかがったのです。」

信乃は自分でも、動揺で頭から血の気がひくのがわかった。その気配に気づいたのか、藤吉郎が、

「少し――前に、知っていたのに、黙っていてごめんなさい。信乃どのにも、姉君のような力があると――しかし操りきれぬので封じられているのだと、ききました。今こんなどさくさにまぎれていうのもどうかと思いますが、機会がなく」

それからためらうように藤吉郎が下を向いた。

「誰にも、他言はいたしませぬ。父上にも、母上にも――ご安心なされ。」

 混乱した頭の中で、「秘密を知ったからには」という大木村の掟がよぎったが、その村も散り散りになり、その秘すべき「巫女姫」そのものが消えようとしていることに思い至った。それから藤吉郎が橘からきいたのだと言ったことにも思いが至り、いいのだろうかという疑問と、この人ならいいのだという得心が、心の中で激しく交錯した。

「なぜにハヤテが見えまする。」

 ずっと前に聞きたかった言葉が口をついて出た。

「ハヤテとは、あのイヌワシのことですか。」

答えずに信乃が黙って藤吉郎をみつめていると、藤吉郎は少しうつむいて、しばらく黙っていたが、また顔をあげると、

「わかりませぬ。――わかりませぬが、見えるものは見えるので…。」

「いつからですか。」

「信乃どのがこの村に来て、目覚められた日から」

 そうだった、と思い返した。そういえばこの人は、あの日無邪気にそれを見て笑っていて、それで信乃は橘に尋ねたのだ。

 藤吉郎に霊感はあるのか、と。

 そこで信乃はふと思いついた。

「では、剣の稽古のおつきあいをしてくださったのも、そのためですか。」

「はい。」

「わたくしはてっきり、ただ藤吉郎さまのご好意によるものかと。」

「好意です。」

藤吉郎はきっぱりとそう言った。言われた後で信乃は、ふと拍子抜けしそうになったが、思い返して、「好意」とはどちらの好意なのだと混乱しそうになった。

 親切という意味なのか、それとも――。

「己の力を操るために――この村を去り橘の君と離れても、安心して自分の力と向き合うためにと、始められた修行の一つであるとお聞きしましたので、そのお力になれればと――しかし、その修行の成果もかなり出てきたのではないかと。」

そう言って、藤吉郎は左手の傷口に巻いた布をほどきにかかった。何をするのだろうと見ていると、布の下から表れた、傷口――濃く後はあるものの、既に切れ目は閉じられている。

 信乃は思わず手で口を覆った。

「人に怪しまれるので、このまま布は巻いております。姉君がどの程度のお力があったのかは存じません。しかし、信乃どのも、浅い傷だとはいえ、こうも早く太刀傷がふさがったのを見ると、同じお血筋なのだと。」

「でも」信乃はその傷に見入った。それから慌てて顔をあげ、

「でも、まだ、玉が――」

「玉?」

「私の力は、玉に封じられているはずなのに――姉が、村を去る前に一度解放して、またあの、最初の日に、橘の君が閉じられた。だから、使えるはずが」

「難しい理屈はわかりませんが、でも現に、こうして――」

 もう一度信乃は傷口を覗き込んだ。

 傷はふさがっているものの、まだ付近に跡が強く残っている。信乃は思わず、その上からそっと手を当てて、もっと治りはせぬかと心をこめた。

 目を閉じる。

 きっとそこに眠っているだろう、体の中の気に、働きかけて、肉よ早く蘇生せよと――

 ふと、信乃の背に手が回り、体全体を温かくぬくもりが覆った。

 途端に両腕で抱きしめられて、信乃は思わず目を見開いた。

「と――藤吉」

藤吉郎は答えず、信乃の体を両腕で強く抱きしめた。

「と」と口にしかけたが、藤吉郎が、

「しばし」

言って、抗おうとする信乃の動きを制した。

「このまま」

続けて言うのにまかせて、信乃は動かなかった。

 抱かれた藤吉郎の肩越しに、日の昇る影が差す。

 糸が――

 ほら、また、あの熱い糸が

 この人のもつ熱い糸が、体から伸びて、全身にまきつく。

 体中をおおって、その熱が、入りこむ、そそぎこむ。

 胸を熱くして、焦がれそうになる――胸が、熱くて、息が――

 信乃の目から涙がこぼれた。

 あえぐ口元から白い息が漏れる。

 どこからともなく聞こえる鳥の音で、藤吉郎は信乃から突然手を離すと、そのまま後ずさり、振り返って太陽の光に向かい走りだした。

 信乃は、追おうとして力が入らず、その場に立ちすくんだ。

 涙が後から後から頬を伝う。

 これでは、長の別れと同じではないか。

 もがれた後のように体に気配ばかりが残る。

 火照る――熱く――あつく

 太陽の光が山の端からさした。

 村のあちこちでなく鶏の鳴き声が遠く響いてくる。

 


 だって、ずっと一人だったのに。

 あの日から、母が死に、姉が抜けがらとなり、父が死に、それからずっと一人だったのに――。

 寄る辺もなく、独りで生きてきたのに。

 あの姉の魂を追って大木村の猟師小屋へと向かう、雪原の中、本当に真っ白い景色の中で、不安にかられ、あの道を急いだ――差し出された左の手

 ――つかまって。何かすがるものがあれば違うでしょう。

 言われるままに手をとった。

 ――信乃どの。この村へは、留まれぬのです。

 ぼんやりと映る景色の中で、その目の中に映る藤吉郎がつらそうな顔をしていた。

 それは藤吉郎の、親切か、同情か、寄せてはならぬのに押し寄せる、次から次へと押し寄せる――熱い糸となって、絡みつく。

 誰も、想うてはならぬのに。

 立てなくなるではないか。

 その手にすがっては、その身に寄せては、一人では――。


 

 朝餉をすませ、略式ながら出陣の儀式が広間で執り行われたが、信乃は立ち入ることはならなかった。当主と、この家の主な家臣たちが集って、橘が行うのだという。

 その間に信乃は自身の荷の中から、大木村を出るとき姉にもたせられた包みの布を探した。

 橘が、姉の安否を霊視する時に用いたものだった。

 信乃はその布を荷の中からひきだすと、自身の手に広げ、握り、そっと顔を寄せた。

 その布に祈りをこめる。

 姉さま――姉さま。藤吉郎さまを、お守りください。姉さま。

 信乃はしばらくその布を抱きしめて離さなかったが、やがておもむろに立ち上がると、館の外へと向かった。外に出ると、まだ中の式は終わっていないらしく、見慣れない顔の旅装の男たちが数十人、それに家の者や村の者数名が、中から人が出てくるのを待ちかまえていた。

 今この時に、渡せるだろうか。

 なぜもっと早くに、これを思いつかない。

 すると、中から人のどやどやと動く音がきこえてきて、館の中から藤吾の姿がのぞいた。次から次へと人が出てくる。旅装の者が今回の戦場へ向かう者であることはわかったが、彼らは出てくると一度立ち止まり、外で待っていたその旅装の数十人の男たちに目礼した。それから男たちと一緒になって由良の館の前を歩いていく。おそらくここから神社へと向かい、神社の下の広場で乗馬し、兵をひきつれて出発するのだろう。

 目の前を藤吉郎が過ぎていくのが見えたが、あまりの男たちの重々しい雰囲気に声もかけられず、泣きそうになりながら、辺りにうろうろと目を配した。すると、その後に控えるこの家の長男の丙吾と、橘と、来栖直衛が目に入った。

 信乃はかけだし、直衛のそばへと近づくと、「直衛さま」と声をかけた。

「これは、信乃どの。いかがされた。」

そう問われると、信乃は直衛に姉の包みを差し出し、

「これを、これを藤吉郎さまにお渡しください。ご武運を、お祈りしており」

「行きましょう、ご自分でお渡しなさい。」

信乃の必死の形相でしゃべる言葉を切って、直衛は信乃の背を押して、男たちの後を追った。

「な、直衛さま。」

「何、信乃どの本人から受け取った方が、あれも嬉しいでしょう。」

そういうと、見る間にその後ろへとつけて、神社の階段を上るあたりに来たところで直衛は立ち止まった。「しばらく待ちましょう」との声にしばし足をとめて待ったが、やがて上で柏手が聞こえ、ややあって一団が下りてくると、直衛は藤吉郎に「藤吉郎どの」と声をかけた。

 藤吉郎は直衛に気付き、一度立ち止まって、二人のところへ近づいてきた。直衛が、「ほら、信乃どの」というので、信乃はどぎまぎしながら、近づく藤吉郎の顔を見、それから目の前に立ち止まった藤吉郎にその布を差し出した。

「これは?」

藤吉郎が尋ねると、信乃は、

「姉さまの形見です。」

「これを私に?」

 信乃はこくりとうなずいた。

 すると、藤吉郎はあからさまに嬉しそうな顔をして、

「私にいただけるのですか?」

そういうと、信乃は途端に首を振った。藤吉郎は拍子抜けしたような顔をして、信乃の言葉を待っていたが、

「姉さまの――今は、この世に一つしかない形見です。必ず、その手で、私に、お返しください。必ず」

 いうと、藤吉郎は途端に笑顔になって、

「わかりました。そういうことなら、お預かりいたします。」

そのまま布を受け取ると、布を広げ、首に巻きつけて結んだ。そして、

「大事にします。」と付け足した。

「きっと姉さまが」一団が下の広場まで下りてしまったのを気にしながら、信乃が続けた。「姉さまが、守ってくれます。」

 その言葉に、藤吉郎はまた笑顔になってうなずいた。そして、直衛に目配せして、二人に向き直り「では、行ってまいります。」と頭を下げた。

 藤吉郎は神社の石段を下りきり、馬に乗る一団にまぎれて行く。

 それを目で追う信乃の目から、はたはたと涙がこぼれ始めた。

 伝えたいことの半分も、言えなかった。

 ご無事で、ご武運をお祈りしております。生きてお帰りください。お待ちしております、どうか――。

 石段の上から見送る二人の背に、橘の声が聞こえた。

「でれでれではないか、みっともない。」

驚いて振り返ると、六佐に抱えられた橘がいる。

「あの布は、巫女姫どのの形見ではないか。いいのか、あのような――」

ふと、言いかけて、橘はすぐに険しい顔をした。途端に気配が変わった橘に、直衛はただならぬものを感じ、思わず真顔になって橘の顔を見た。すると、橘はすぐに上から、

「藤吉郎!」

叫んだ。

 気づく気配がないので、また橘が藤吉郎の名を呼ぶ。何事かと思いながら直衛が加勢して呼び続けると、その声に気づいて、藤吉郎が馬上から振り返った。すると橘は、

「『誘惑』に、乗ってはならぬ!」

そう声をかけた。

 聞こえたのか聞こえないのか、藤吉郎はしばらくこちらを見ていたが、怒ったような顔をして、「橘の君!」と返してきた。そしてまたややあって、

「私は、そのような男ではありませぬ!」

 違う――!

 違うのに――違うのだ。橘の胸の中で、途端に不安が黒い影となってよぎった。

 しかし橘の不安とは裏腹、藤吉郎はそのままこちらに向かって頭を下げると、一団にまぎれて行ってしまう。

 出陣する兵の中でどこか、一人、背が満足の色をたたえている。

 信乃は泣きながら、その後ろ姿を見送っていた。

 手を合わせる。

 ご武運を――姉さまどうかお守りください――どうか――


 

 雨もなく、昨日に引き続き快晴だった。

 信乃は橘にきいた通り、由良の館から神社の裏手に抜ける道へ入り、森の中の沢へと続く道へと下って行った。

 少し下って、脇にある木立の中へと足を踏み入れる。

 目印はないと言われた。ただ、木立の果てへ行きつくと、木立が途切れたところに膝丈ほどの木々と草の群れが見えるという。

 勘を頼りに行きつくしかなかった。

 あの日の朝は、母が――おそらく母が、橘の夢に現れ、この場を案内し助けてくれと頼んだのだという。

 母は果たして、その前夜の小夜の行いをどう思ったか――そして、今信乃の行く末をどう思っているのか。

 信乃には問うすべもなかった。

 木立の中をわけいって、さほど下がるわけではないと橘は言った。木立の果てを目指して歩いていくと、なるほど、木々の途切れた辺りが少し明るくなっているのが見えてくる。辺りには、腰丈ほどの木々があって――ああ、ここだ――信乃は思った。

 乗り出して、下を見る。

 すぐ崖になっていて、下の方に小さな川が流れている。

 その先は玉来村の冬枯れた田畑が広がっていて、ずっと北の方まで平地がひろがっているのが見えた。左右には山々がうかがえるが、少し遠い。

 神社の境内や石段から見るよりも、視界はいいのだと思った。

 左手にのぞきこまなければ由良の館や、その下にある家々は見えない。

 信乃は空を見上げた。

 あの中空を飛んできたのだろう。しかし、まるで覚えていない。途中から意識が消えてしまって――でも、おそらく、この低い木々の上に投げ出され、そのまま気を失っていたのだ。

 ――最初に信乃どのをみつけた日も早朝で――しかし、雨でした。小雨が降る中、橘の君に叩き起こされ、橘の君を背負い、裏山へと駆けたのです。

 ――あの雨は、信乃どののせいで降ったのだと、後で橘の君におききしました。

 それはまだ、姉に力を解き放たれ、橘に閉じられる前のことだ。

 気が大きく影響するのは、姉も自分も変わらない。そしてそれに気付いた橘は、急いでこの力を封じた。しかし――

 昨夜信乃は橘に、藤吉郎の左腕が、信乃が触れたために治癒が早いことを話した。

 力は、閉じられているはずではないのか、と。

 すると橘はしばらく考えた上でこう答えた。

 そもそも、風の精霊そのものも、消えずに見えておるのだろう、と。

 信乃はその問いにうなずいた。これは、それ以前に、玉に力が封じられ、放たれる前から見えるものだ。

 橘は続けた。

「そもそもその力の封じ方自体も、長の年月をかけて封じたものらしいし、そなたの意志も手伝って封じたものらしいのに、姉君が力でもって突然といてしまったのだ。私はその玉のもっている記憶を借りて、元に戻そうとしたにすぎぬ。ならば、必要とあらば、ゆるゆると抜け出して、そなたの意にかなうこともあるかもしれないし、ただ単に全体的に力の発揮を緩める程度のものかもしれぬし――わからぬな。」

 信乃は橘の答えに、不安そうに聞き入る。何かほしい答えとは違うような気もする。

「どちらにせよ、時間をかけて堅固に封じたものをといてしまえば、その後何度結びなおしても、元の強さでは維持できまい。ぽろぽろとこぼれてくるものもあるだろう。」

「しかし、ぽろぽろとこぼれて、操れぬものとなりましたら、いかがいたしましょう。私自身、どうしたらよいか…。」

 信乃の言葉に、橘は黙って信乃を見上げた。

 何か考えるふうではあったが、ややあって、ため息をついた。

「今は、取り越し苦労をいたしても仕方あるまい。少なくとも、まだ悪い方には動いていないのだし、このまま修行を続けるがよかろう。藤吉郎の言うように、本当に修行の成果が出てきたのやもしれぬ。」

 修行の成果などと――わずか一月で、そんな成果が出るのだろうか。

 姉のかけた時間と比べたら、及びもつかない――いや、姉ほどにつかえるようになるには、あれほど時をかけねばならぬということであろう。

 しかし――

 信乃は近くにある大きな木に手をかけ、そのふちに足を進めると、木に身をよせて、再び空を見上げた。

 空を駆けたい――わけではない。

 それは子どもの頃から焦がれながらも、畏れたことだった。

 そして今は秘せねばならぬものであり、その力の復活を、姉は決して望みはしないだろう。

 しかし、ではこの力は何なのか。確かに、自分の中にあって、確かに自分の自由を損なっている。消すわけにもいかず、制御せねばならない。

 何かみつけなければならない答えのようなのに、その答えが見いだせない。

 信乃はため息をついた。

 再び北の彼方の中空をみつめる。

 藤吉郎は今どのあたりだろう。

 明日夕には、お館あたりに到着するのだろう。

 最後の出立の日の藤吉郎を思い出す。

 ――私にいただけるのですか?

 ふいにそこが出てきて、思わず信乃は笑顔になった。

 かわいらしいお顔だったこと――と。

 降るようにやってくる、熱い想いは、気付いていたようなのに、ずっと気付かぬようにしていたような気がする。糸のように押し寄せて、この身にからみ、あの時――強く腕に抱きしめられ、ついには胸の奥にまで入りこみ、今もここに残っているようで――とてもあまい、熱を帯びる。

 あまい、熱を――。

 まるで今までのすべてを忘れそうで――それはならぬと思い返し、それでもまた繰り返し、ひた寄せる。

 今あの空の下の、どこにいるのだろう。

 すぐそばにいるようで、はるか遠くにいるようで――あの時すがったように、腕をからめ、もう一度、触れてみたい。

 あの腕に胸に、あの朝返し損ねた想いを伝えるためにも、もう一度――。


 

 木々の合間から、暗闇の中でともされた松明の明かりの中に浮かぶ、小坂靭実を、弓矢で狙う。

 小坂は合流した中尾雄山と何か打ち合わせをしているように見えたが、その話はきこえない。時折、兵が周辺に異常のないことを報告に来るぐらいで、特にこれと言った動きはなかった。

 佐助は斜め後ろでその弓を構える仲間に向かって、体をそちらへ傾けながら、

「どうだ、狙えるか。」

と問うた。

 相手は弓の狙いをゆるめ、しばらく考えて、

「ふむ、ここで撃つと、返り撃ちにあいかねぬな。位置を定められやすい。逃げるに必要な時が稼げるかどうか。」

「場所を変えるか。」

「ああ。もう少し、遠くから狙ったほうがよい。――と、なると、俺の腕では無理だな。」

 佐助はそう言われてしばらく考える様子を見せた。

「わかった。代わりの者を頼もう。」

そう答えた。

 後方の男は弓をしまう気配を見せ、それから、

「しかし、どんぴしゃだな。」

と言葉を継いだ。

 佐助が答えずにいると、また後ろから、

「玉来の来栖直衛は、予知でもできるのではないのか。」

と問うた。すると、佐助はややあってから、

「あの村には蓮如一門の巫女が、一人遣わされているが、そのような話はきかぬ。」

「ふむ、昔から才知に富むのとはきいていたが――しかし、故あってお館には出仕せぬと。」

「あの若さであの重臣に交じれば、やっかみでつぶされてしまうわ。」

「由良の当主と父親が相当のタヌキゆえ、それを重々承知で出さぬのだろう。」

由良ときいて、佐助は舌打ちした。

 玉来ときくだけでも胸糞悪いのに、その上「由良」だ。

 信乃を助けたかは知らぬが、次男が下手に近づいて、――邪魔な。

 その舌打ちをきいてかきかずが、男が続ける。

「しかし、あの話は本当か。」

「何がだ。」

「小坂靭実が、高野の出である、と。」

「本当だ。」

「どうやって調べた。」

 佐助は答えなかった。

「間違いではないのか。高野の生き残りが、誰か奴を見たのか。それとも本人が直に言うのを聞いたか。」

 男の問いにそれでも佐助は答えない。

 男は少しじれる気配を見せたが、たとえ仲間だとて、情報源は語れぬこともある。答えない佐助に、男が諦めかけた頃、ふいに佐助が振り返った。

「確かめるか。」

 思わぬ答えに、男はやや度肝を抜かれた。それから、

「確かめる?」

答えると、佐助が、

「そうだ。」

「殺るのに、確かめる必要があるのか。」

「成功するとも限らぬ。失敗したとしても、敵はこちらが作戦を知ったとわかり、作戦を変えるだろう。すれば、後退せざるをえまい。その時、それゆえに作戦を内通したと噂をまくのも手だ。」

 背後からの明りの中で振り返った佐助の顔を、男はさぐったが、どこか薄笑いを浮かべているように見える。気のせいかと思いながらも、その目を見返した。

「確かめる手でもあるのか。」

問うと、佐助はさらにその笑いの色を濃くしたように感じた。何やら佐助がいつもと違って不気味に感じながらも、男は佐助の答えを待った。すると、

「高野の生き残り――ではないが、既知の仲である、男が一人――。」

 

 結城三輪義史のところから運ばれる物資を中継する野営地で、焚火の周囲で暖をとりながら、与助が寝転がった姿で、ぐだを巻くように「あーあ」と言ってため息をついた。

「あーあ、なんでこの弓の与助様が、小荷駄隊の護衛なのよ。あーあ、あーあ。」

 それをきいていた隈吉が、

「いうな、与助。もう決まったことだろう。」

「だあってよお、本陣にいたら、今頃は隊を抜け出して」

「おい。」

藤吉郎が口をはさんだ。

「かわい子ちゃんたちと、うひうひだったのによお。」

「与助!」

小さく一喝した。

「そりゃ、藤吉郎はいいよお。てめえの怪我でこっちまわされたんだからよ。しかし何で俺ら玉来駐屯所の兵までが付き添いで回されるわけえ? 普段から訓練つんでて、そこらの田んぼ耕してるだけの連中とは違うのによぅ。」

「小荷駄隊護衛も大事な役回りだ。」

「そらそうだろ。兵糧がなくて戦がやれるか。――そうじゃなくってぇ。」

そう与助がぐだを巻くのに、隈吉が横からむしろを投げて、

「うるさい、お前はもう寝てろ!」

そう言ってよこした。

 他の者も明日に備えて就寝の準備に入っていた。結城からの荷が明日朝ここに到着し、引き返して本陣後方に合流する。その受け渡し場所であるこの寺の境内で野営を行うこととなったのだ。

 明日朝一番に荷を受け取り、出発すると、出陣の儀を行い出発した本陣に合流しなければならない。この隊は夜間の見張りをせねばならぬ上に、他の兵よりも多く移動を伴うので、備えて早めに休まなければならなかった。

 総勢二十名の荷の引き手に、隊長が一人、さらに九名の警護兵がつく。

 藤吉郎たちはその中の一人だった。

 敵地も近いので、今夜は交代で隊を見張ることとなった。

 藤吉郎たちは後の番である。

 隈吉に夜露をしのぐむしろを投げつけられると、与助もそのまま黙ってしまった。

 藤吉郎が就寝の準備をしていると、「俺ちょっと」と言って、隈吉が立ちあがる。小用を足しにいくのがわかったので、藤吉郎は「ああ」とだけ答えて、そのまま準備を続けた。

 隈吉の姿が見えなくなったのを確認すると、藤吉郎はそっと、左腕の怪我の上に手をあてた。

 傷はもう治っている。

 しかし、それを誰にも言うわけにはいかなかった。

 なぜならそれは、秘密なのだ。

 約束したわけではない。しかしそれを知られたら、信乃は窮地に陥るだろう。

 あの姉が、やはりそれで高階に狙われたように。

 だから、藤吉郎は怪我をしたままでいなければならなかった。

 結果兵糧物資を運搬する警護に回されたが、活躍の場を失った与助や隈吉も巻き添えにあった格好になり、それはそれで申し訳ないと思う。

 与助には、来なければよかったのだとさえ言われた。

 本陣の指揮官も、怪我を負ってなぜ来たのかというような顔をした。

 しかし来なければ来ないで、間際になって頭数をそろえるために誰かと交代せねばならない。

 自分の立場からいくと、その交代要員は直衛になるが、立て続けの出陣では申し訳なく思えた。――いや、それだけではない。

 直衛はきっと小坂を――いや、朔次郎を意識して、その陣に交わるだろう。

 いろいろと考えた時、今度の出陣は直衛にとってあまりよいことであるとは思えなかった。

 直衛なら、相手の――朔次郎の手の内をよむ。確実に、読む。

 その活躍が、今の直衛の本意とするところか。

 直衛に対して引け目がある分、藤吉郎はその本意とせざるところに、行かせるわけにはいかなかった。

 藤吉郎は目の前で炊き上げられる焚火をみつめた。

 焚火を囲んで皆が休んでいる。本陣とは比べ物にもならない、少ない待機人数だ。

 でも、それはそれでよかったのかもしれない。

 姉の形見を、この手で返せといった信乃との約束も、確実に守れる。

 藤吉郎は首に巻きつけた姉の形見だという、信乃に手渡された布に手をふれ、みつめた。

 どうせ渡されるなら、本人のものがよかったというのが本音だが、大事なものだから返せと言いたかったのが、信乃の思うところなのだろう。

 生きて帰れ、と。

 生きて帰って、それから――。

 思い返せば思い返すほど、あまい気持ちで満たされる。

 これだけで、もう、何もいらない。

 立身出世も、仇打ちも、御恩も、奉公も――。

 何モイラナイ、モウ、何モ――


 

 うつむいて膝に頭を預けていると、後ろから隈吉の小さく呼ぶ声が聞こえた。顔をあげると、隈吉が近づき、耳元に口を寄せて、

「そこの木の陰に、佐助というやつが来ていて、お前を呼んできてほしいと。」

言われて、藤吉郎は隈吉の背後の木陰に目を向けた。すると確かに、いつかあの由良神社の境内で見た、忍びの男が立っている。

 藤吉郎は立ち上がり、なぜこの男とここで会うのかと怪訝に思い、その木陰の男へと近づいて行った。

 男は藤吉郎とさして背丈は変わらない。痩せた――しかし鍛えられた体の男で、焚火の明かりのせいかもしれないが、目ばかりがやたらと鋭くみえた。先程この境内に近づいた気配もなく、見張りも何か言った様子はないのに、どうやってここまで忍び入ったのか。

 藤吉郎はその男のもつ空気に、何か不気味なものを感じた。男は話があるから、さらに寺の裏へと回らぬかと誘うが、藤吉郎はそれをためらう。

 すると男は、チラリと焚火の明かりを背に立ってこちらをうかがっている隈吉に目をやると、

「義見朔次郎という男を知っているか。」

と、言葉を継いだ。

 息がとまるかと思った。

 しかしそれに何とか平静を保とうとしていると、続けて男が、

「今そこの山へ来ている。旧結城家玄武城跡の東側の見張り台に、作戦待ちで待機している。」

 男の視線は妙に鋭かった。

 それもそうだろう、これは、お館が使う、忍びなのだ。

 大木村の巫女姫を見張っていたというのも、この男だと聞いた。

 藤吉郎が息を飲んで男をみつめていると、男は続けて口を開いた。

「頼みがある。」

藤吉郎は意外な言葉をきいたと、視線を上げた。

「頼み?」

「その男が義見朔次郎かどうか、見てもらいたいのだ。」

 藤吉郎は心を落ちつけようと、ともすれば粗くなりそうになる息を飲み込み、抑え込もうとした。

 この男は何をいうのだろう。

 自分のところへやってきて、義見朔次郎を――いや、違う。小坂靭実が義見朔次郎かどうかを、確認しろというのだ。それを、なぜ知っている、それを、ああ――

 ――信乃、そなた藤吉郎の母が義見の親族と、いつ知った。

そうだ、信乃から橘――橘から、お館だ。お館から――すると、この男は――

「これは、お館さまからの命か。」

 藤吉郎はそう尋ねた。

 佐助はしばらく藤吉郎を黙って見ていたが、なぜか顔に笑いを浮かべると、

「そう、とってもらっても構わぬ。」

「とってもらっても、とは?」

「我々はお館の命で、奴の動きを探っているからだ。それに、協力してもらいたい――そういうことだ。」

 藤吉郎は、答えを躊躇した。ここのお役目が、と、言おうとして、――すると続けて佐助が、

「朝にはここに戻る。それならよかろう。」

すかさずそう言った。

 藤吉郎の心の中に、あの、高野の戦の前の月に、高野の道場でみかけた、最後の朔次郎の姿がよぎった。

 朔次郎兄が――小坂靭実となり果てて――

 本当だろうか。

 橘に言われても、信乃に言われても、その疑問はぬぐいきれず、自身の目で何度も確かめたいと思った。思ったことは思った、しかし――

 藤吉郎はどこか、この目の前の男を信用しかねた。そしてすかさず、

「この、隈吉が一緒でも構わぬだろうか。何かあった時には、この男にここに連絡させる。」

 佐助は後方で話をきいている隈吉の方に目をやった。それから、

「よかろう。――では、出立いたそう。」

 そう言って、寺の裏へ向かって歩き始めた。

 藤吉郎は隈吉に目配せしたが、隈吉には何のことかわからない。わからぬまま藤吉郎が自分の休むはずだった場所に剣を取りにいって腰にさし、また返って歩き始めるので、隈吉も同じように武具を手に持ち、仕方なくその後を追った。


 

 焚火の明かりが見えなくなると、星明かりが三人の行く手を照らした。

 寺の裏手に抜けたところで、隈吉が、「おい、おい、いいのか、藤吉郎。」と声をかけてきた。しかし、藤吉郎にはきこえているのかいないのか、佐助の後を追って、足早に歩いていく。

 後ろをついていく藤吉郎に、佐助は問うた。

「その首にまきつけている布は、信乃の姉、大木村の巫女、小夜のものか。」

 藤吉郎は後ろに続きながら、思わず首に巻きつけてある布に目を向ける。それから目を上げると、

「そうだ。よくわかったな。」

答えたが、何も返事がない。

 ややあって、

「それを、信乃がお前に?」

「あ――ああ、預かったのだ。」

 佐助は振り返りもせず、ただひたすらに玄武城跡の方角へ向かって歩き続ける。

 しばらくして、ポツリと、独り言のようにつぶやいた。

「小夜の、においがする。大木村、巫女姫の――。」

 言われて、佐助は思わずその布を手でつかみ、においをかいだ。

 しかし上等の絹らしいのはわかるが、そんなにはっきりと匂い立つだろうか。

 わずかに香る匂いは、確かに、信乃を抱きしめたときに感じたそれと、似ているかもしれない。

 だからといって、そこまではっきりと、姉妹の区別がつくだろうか。

 目の前を行く男を見ながら、不思議な男だと思った。

 不思議な、男だと――。

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