第二章

 直衛は家に帰ってやらねばならぬことがあるというので、その場で信乃と別れた。

 姉のしたことは決して他言せぬゆえ、心配無用と最後に付け加えることも忘れなかった。

 その神社の方へと道をとり、去っていく後ろ姿を見送りながら信乃は思った。

 あの朔次郎は、直衛のように、姉のことをまだ心に留めているのだろうかと。

 自身、斬った女を、まだ――

 そう思いめぐらせながらも、しかし、朔次郎――いや、小坂靭実を思い浮かべ、あの男は、来栖直衛とは違うのだと信乃は思った。

 どこがどう違うのか、はっきりとはわからないけれど、直衛とは違うのだ、と。

 姉とかけおちしようとした朔次郎を、二人が人違いではないかと言った通り、朔次郎はどこか直衛とは違う。

 女のために、身を持ち崩すような男には思えなかった。

 それが、直衛との決定的な違いかもしれない。

 直衛の去っていく後ろ姿を見送りながら、 信乃は背後に人の気配があるのを感じた。

 振り返ってみると、左手を首から布で下げた、藤吉郎が立っている。

 藤吉郎が戸惑うような様子で、何か言いかけたとき、信乃は思わず、

「なぜ、嘘をつかれました。」

先程、目の前で次々と会話が流れ、言いそびれたことを、信乃は口に出した。

 藤吉郎は信乃の言葉に、わずかに躊躇するようなそぶりをみせながらも、すぐにきりりと表情をかえ、

「いえ、どちらにせよ、あれしき、よけられなければならぬもの」

「いいえ。いいえ違います。そういう問題ではありませぬ。あれは、私が藤吉郎さまを斬りつけたのではありませぬか。」

「信乃どのが、どのようなおつもりでも、あれしきのこと、よけられねばならなかったのです。――ただ」

そこで藤吉郎は、言いかけた言葉をとめた。信乃が続きを待って藤吉郎をみつめていると、藤吉郎が「いえ」と言葉をきったので、

「ただ、何なのです。」

返事を求める信乃を、藤吉郎が戸惑うようにみつめたが、答える様子もないので、信乃が再び、

「何なのです。はっきり言ってください。」

そう、つめよるように問うた。

 藤吉郎が困った顔をして、

「いえ、その――お顔に、傷がついてはいけないと、その迷いが、こうなってしまったのです。女人相手はなれぬゆえ、私もしくじってしまい」

信乃は藤吉郎の言葉にしばし呆然とした。それから、ゆっくりと眉根を寄せ、うつむくと、

「藤吉郎さまは」

信乃の目がうるうると潤みだす。

「や、信乃どの。」

「藤吉郎さまは」吐きだすように言った。「藤吉郎さまは、――人がよすぎます…。」

信乃はそのまま顔を両手でおおい、うつむいた。

 泣いている。

 藤吉郎はその、うつむいた信乃の顔をみつめながら、信乃がなぜ泣くのか、さっぱりわからなかった。

 斬りつけられたのも、怪我をしたのも、自分なのに――。

 上から信乃を見下ろしながら、さて、どうしたものかと考える。

 こんなふうに泣かれると、また、ぎゅっと抱きしめてみたいような衝動にかられるではないか。

 ぎゅっと――。

 そう、信乃の体に右手をのばそうとしたとき、信乃が突然頭をもたげ、

「私が、悪いのに、私が――」

度肝を抜かれ、藤吉郎は思わず身をひいた。

「直衛さまのように、なじられればよいものを――。なぜに、ご自分のせいになどなさる――」

何も気づかぬ様子で話す信乃に、藤吉郎は幾分たじろぎながら、

「い、いけませぬか。」

そう問うた。

 信乃はまたも視線を下げ、うつむき、答えなかった。

 また、藤吉郎はわからなくなった。

 そもそも自分をなぜ斬りつけたのか。

 やはり、直衛のいうとおり、姉の仇のつもりであったか――。

 しかし、その前に、気になることも言ったのだ。

 同じ――では、ないか――と。

 ――あの時、あの道に迷わせた、あの男と、同じではないか! 想いだけ残して、一人行ってしまった――あの男と、同じ――!

 想いだけ残して――

 やはり、あの夜、たきとの会話はきかれていたのだ。

 藤吉郎は自身で、かあっと首から顔にかけて上気するのを感じた。

 それでその上気を、信乃がうつむいている間に、信乃に気付かれぬようになんとかしようと、右手で胸元の衣をハタハタとやり、甲で赤らんだ顔を押さえながら、言葉を探した。

 冷静に――冷静に。

 だいたい自分はこの場に何をしに来たのか――。

 そう、直衛どのと、それから、朔次郎の――。

「直衛どのとは、何をお話しでしたか。」

信乃は、指で涙をぬぐいながら、うつむいた顔をあげると、

「高野のまゆみ様とのことを――。」

「まゆみ様の――」

それからしばらく藤吉郎は黙って信乃の姿をみつめていたが、ややあって、

「どこまで話しましたか、直衛どのは――」

「どこまで――と?」

「ええ」

「まゆみ様とのなれそめと、それから、途中で、高野の姫であることを知ったと――、それから橘の君がこの村へやってきて」

「高野の戦の夜のことは」

「高野の戦の夜――いいえ、そのことは、お話しには」

信乃がそういうと、藤吉郎は顔を上にむけて、やり切れないというように息をついた。

「まだなのだ、あの人は――。」

「まだ――?」

「直衛どのはまだ、誰にも高野の戦の夜のことをお話しにはならない。」

信乃は何も言わず藤吉郎の顔を見つめた。

 藤吉郎は小さく唇をかみ、信乃の視線を避けるように、顔を横向かせると、

「私のせいなのです。直衛どののことは。」

藤吉郎のいう言葉の意が解せず、信乃は疑問の色を顔に浮かべた。藤吉郎は小さくため息をつき、それから、

「あれは――私のせいなのです。直衛どのが高野の姫と最期を共にできず、一人ここに残されたのは、私のせいなのです。――私が、直衛どのが戦に出ながら高野の姫のところへ――敵の内に馳せ参じようとしている心を察して、父親の兵衛どのに告げ口をして――」

 藤吉郎の顔に、哀しい影がよぎった。信乃は思わず、

「敵の内へと向かおうとする方をとめた。」

「ええ。」

「――それは、正しいことではありますまいか。」

「正しいことです。」

「もしそのまま行かせたなら」

「ええ」藤吉郎は信乃の言葉の続きをとった。「直衛どのは今頃この世にはいなかった。」

 信乃は小さくうなずいた。

「しかし直衛どのの、それは――『生きて地獄』――です。」

 あの日、高野の戦の折、藤吉郎が直衛の父、来栖兵衛にあてて急ぎ馬を走らせ、その文を届けたのは、総攻撃の前日だった。

 なぜか直衛はここを出立する時、いつになく藤吉郎の手をとって、『息災で、励まれよ』と言ったのだ。

 その時、この村の中で直衛とまゆみとの仲を知っていたのは、藤吉郎だけだった。しかも藤吉郎は初陣さえも許されぬ身であったから、自室で激しい不安にさいなまれながら、どうしたものかと考えあぐねた。そして、はやる気持ちを抑えきれず、兵衛に文を書いたのだ。そしてほぼ私用ともいえるその文を、急ぎ使いを出して戦場に届けさせた。

 兵衛はその文を受け取ると、総攻撃を前にして、直衛に戦場からひくことを命じた。

 なぜか、いや、やはり、ひどく抗う直衛を、たくさんの兵で抑えつけ、戦場から無理矢理ひかさせた。

 そして後方へと押しやって、その身を縛り付けて拘束した。

 それが、観念したのかおとなしくなったと思っていたら、いつのまにか直衛はその場から消えていた。

 そして、戦が始まり――終わって三日経っても五日経っても、直衛の姿はどこにも見当たらなかった。

 よもや、高野のお館に向かい、あの火の中に飛び込んで、姫とともに死んだのではないかと案じていた矢先であった。村の外れに、ぼろぼろになった直衛が、憔悴しきった顔で現れたのだ。

 その時、藤吉郎はとるものとりあえず館を飛び出し、直衛の元へと向かった。藤吉郎にとって直衛は、来栖兵衛に武術を指南してもらう兄弟子でもあったのだ。

 直衛が村の中を一人、家へと向かっているときいて、藤吉郎は迷わず家までかけつけた。家の前までたどりつくと、肩を落とし、家人に囲まれる直衛の姿が見える。その無事な姿にうれしくて、「直衛どの!」と呼びかけた。しかし、その時振り返った直衛の、藤吉郎に向けられた、眼――恨みの色がこもった――。

 その色を、藤吉郎は今でも忘れることができない。

「直衛どのは、その不明であった七日の間、どこにいたのか、今まで直衛どのが誰かに話したことは一度もありませぬ。ただ、後にわかったことですが、女ものの懐剣を――おそらくまゆみ様のものを持っていたので、あの戦のさなかにまゆみ様におあいしたのだろうとは思うのですが」

「懐剣――ですか。」

「ええ、羅のほどこされた女物で、――兵衛殿が刀ものは一切直衛どのから取り上げてしまったつもりが、それには後から気付いたらしく」

 泥酔するか寝るかの日々で、たまに外を出歩く姿をみつけても、だらしなく何かに憑かれたように目線は何かを追ってうろうろとうろつきまわり、いなくなる。探しに出ねばなるまいかと皆が不安になった頃には帰ってきて、帰ってきたかと思うと、また泥酔する。そんな日々の繰り返しだった。もしや気がふれたのではないかと皆が怪しみ、父親の直衛は、誤って自害して果てそうなものを一切直衛から取り上げた。それでも、その懐剣には長く気付かず、何かの折にふと、直衛の部屋にあるその女ものの懐剣に気が付いた。

 兵衛がその懐剣を取り上げ、持ち去ろうとすると、直衛が兵衛の体にすがり、返してくれとわめいたという。

 それでも兵衛は直衛につかまれながら、ふりきって部屋を出ようとした。途端、直衛はふいに兵衛の体から手を離した。驚いて兵衛がその姿を目でおうと、直衛は部屋の中ほどまで歩いていき、膳の上においてあった皿を手にとった。

 それを部屋の柱にまで歩いていき、柱にしたたかにうちつけて割りしだいた。

 手に残ったかけらを握りしめ、

「父上!」

握りしめたその手から血がしたたっている。その割れ目を己の首につきあてながら、もう片方の手を差し出し、

「お返しください、父上。」

いうと、首につきあてられた先からも細く血が流れた。

「決して、早まった真似はいたしませぬ。ですから――父上、お返しください。それが、のうては、私は、生きられぬのです。」

 兵衛は思わず、息を飲んでその場に立ちすくんだ。

 直衛の頬に、涙が伝う。

「あの時、共に行けなんだものを、なぜ、今になって追いましょうや。――お返しください、父上。」

 兵衛はその時、今にも首をかっきろうとする息子の姿を、ただ、みつめた。

 そして、何も言わずに、その懐剣を手渡した。

 しかし、その懐剣をいとおしそうに受け取る息子を見ながら、このまま回復するのを本当に待ってよいものか、それともこの場で斬って捨てるべきかと迷うたほど、その姿に絶望を覚えたのだという。

 そこまで信乃は、顔を蒼白にしながらきいていたが、ふと我に返り、

「すると直衛さまは、あわれたのですよね、まゆみ様に。」

「ええ、あったのでなければ、懐剣など受け取ってはいないと思うのです。にもかかわらず、戻ってきたということは、あの戦場で何かが、あった、のでしょうが、それは――もう五年にもなるのに、直衛どのが話したことは、一度もありませぬ。」

「誰も――知らぬのですか。その七日ほどの間、直衛様がどこにいて、何をしていたのか」

「誰も――高野の戦は、高野軍の二千に対し、一万の兵で、それこそ蟻一匹這い入る隙もないほど、お館を取り囲んでいたそうです。本来高野に味方である者も皆敵方となり、高野の方々は降伏するか自害して果てるかしかなく、高野の――私の大伯父にあたる方です、お館様は、気位の高い方ゆえに、降伏するはずもなく、一族皆自害して果て、お館に火を放たれた――ご遺骸は改めようもなく、まゆみ様もおそらくその火の中でご最期を遂げられたのだと。――しかし、そのときに、一体いつ、どうやって、直衛どのがまゆみ様にあったのか、誰にもわからず」

「懐剣は、やはり、本当にその時に受け取られたのでしょうか。」

 信乃の問いに、藤吉郎は首をかしげた。

「直衛どのがそこまで執着するなら、まゆみ姫がいつも身につけていたものを、渡されたのでしょう。やはりこの時という時でなければ、懐剣など他人にお渡しにはならないような…。」

「もしあわれて、二人が決めたことなら、藤吉郎さまにはなにも責任がないような――いえ、敵の内にまっすぐととびこんで行ってはかえって、二人はお会いできなかったかも」

 藤吉郎は信乃の言葉をきき、視線を落とした。

「それでも――先程も、直衛どのは――」

 ――生きて許されぬものが、その想いを遂げるならば、行く道は、一つしかありませぬ。

 

 五年前の高野の戦とは、稲賀政明が高野に恭順の意を示すよう、領地割譲を迫って起きた戦であった。そもそもが恭順の意を示すようにと迫ったものの、ゆくゆくは小国の高野を稲賀が飲み込むのが目的で、高野の領主をじりじりと追いつめ、挑発し、あの戦へともつれ込ませたもので、勢力を強めつつあった稲賀側にとっては格好の標的であり、いつ起きてもおかしくはない戦だったのである。

 高野が負けることは目に見えた戦であったが、それでも高野は最期まで従属することをよしとはしなかった。

「あの戦は、私の親族をうつための、それでなくても胸のふさがる思いで迎えた戦で、なすすべもなくあの夜を向かえながら、――その上に、逝くはずのない直衛どのを失うなどと――。」

 藤吉郎はそのまま、言葉をつがなかった。

 そんな藤吉郎を信乃がみつめる。

 すべきことをした。それなのに――。

 とめて――悔いた、生きた、五年の、時が――

 藤吉郎の眼には、激しいイタみが映るのに、その眼は強く信乃をみつめている。

「信乃どの」

「はい。」

「すべては、高野の戦の夜に、はじまったことなのです。」

信乃は、言う藤吉郎の顔をみつめ、自身の胸元の両手を強く握りしめた。その見ている藤吉郎の口が静かに開く。

「姉君が慕った義見朔次郎は、罪人でございました。」

藤吉郎の言葉は穏やかだったが、その言葉に、信乃は思わず目を見開いた。

 藤吉郎が続ける。

「義見朔次郎は、高野の戦で命からがら逃げ延びて、徒党を組んでお館さまのお命をねらった下手人でした。この領国内で、追っ手をかけられていた人物です。」

 信乃の頭に、姉にかくまわれて猟師小屋にいた朔次郎の姿がよぎる。

「それがまさか、我らは誰も、生き延びて、よもや高階の寵臣になりはてようとは、思うてはおりませなんだ。てっきり、死んだものと――ですから、信乃どの、信乃どのにとっては、朔次郎兄と姉君のかけおちをとめてしまったと、思うておるやもしれませぬ。それから――朔次郎兄を、姉君を置いて迎えにもこなかった薄情者とも――しかし、信乃どの、あの頃の朔次郎程度の罪人が、他の領国に流れこんだとて、所詮とる道は限られている、流れものになって夜盗となるか、飢えて死ぬか――それに女一人が付き添って、とても生きていけるものではございませぬ。女が共にあるならば、生きるために何をさせたかもわからず、そしてそれは、どこかで、誰かが、とめねば」

「藤吉郎さま――!」

信乃が思わず藤吉郎の言葉をきった。そしてそのまま、

「あのままいけば、姉さまは不幸になったと言われるか!」

信乃の勢いに、藤吉郎の口がわずかにわなないた。

 彼は続けて、

「ええ、そうです。それは、姉君が、ただ人との婚姻が許されなかったというだけの問題ではない。相手が、あまりにも悪すぎる。この乱世、帰る場所のない罪人と――それは、誰かが、とめねば」

「そ、――そん…」

 藤吉郎は一つ息をすい、ゆっくりと吐いた。

「この世は、乱世にて――いつ、命が絶えるとも知れず、一つ道理ではまかり通らぬことばかり。だからこそ、そう思って、いろんなことに、心の中で折り合いをつけながら、生きていかねばならぬのです。」

 見ている信乃の目が、途端にうるみだした。

「姉さまのことを」

その顔がゆがむ。

「思い捨てよと申されるか。」

「そうでは、ありませぬ。しかし」

藤吉郎は言葉をとめ、手をぎゅっと握りしめた。

「誰かのせいであるようで、誰のせいでもありませぬ。残ったものは、生きなければ。」

 藤吉郎をみつめながら、信乃は胸元で握りしめた手に、さらに力をこめた。

 幸福の時をとめたのではなく、不幸の未来をとめたというのか。

 朔次郎を失った小夜の、哀しみは、糸をひき、「巫女姫」と共に、自らの命の幕を、引いたというのに…

「それでは――」

信乃の目からボロボロと涙がこぼれた。

「姉さまは、何のために、この世に生まれ、生きたのか。」

 それでは、「小夜」は、どこにも行き場がないではないか。

 ――嗚呼、ツライ。

 この世はすべて、思い通りにいかぬことばかり。

 「乱世」の一言では、とても片づけられぬ。

 生きる意味を、問うことさえも、許されぬのか。

 心のままに、走ることも、許されぬのか。

 独りこの世に残されて、独りこの世をさまようて――

 どこまで行けば、この怨みは果てるのだろう。

 ドコマデ、行ケバ――

 あの、姉を残し、大木村を後にした夜か。

 猟師小屋にかくまわれた敵将の存在に気付きながら、姉を見過ごした時か。

 二人の逢引の場所を、父たちに教えた五年前か。

 高野の戦が、起こった夜か。

 稲賀と高野のお館が、決裂した日か。

 それとも――それとも

 それとも――


 

 高階の出陣は三十日、それで動かぬだろうということになった。

 作戦の都合、小坂靭実だけは一足先に出立することになる。

 それを、敵にも味方にも気取られてはならない。

 そのため小坂の家では、靭実の身代わりを置くことになった。

 同じような背格好で、同じような年ごろの兵が一人配されることになったが、その小坂靭実の出立に先駆けて、茂実は靭実を誘い、夕刻、川べりの道へそぞろ歩きに誘った。

 夕刻であれば、まだ寒さも身にしみる頃である。

 茂実は川べりの道を歩きながら、その山の端に沈まんとする夕陽を眺め、

「国境の小競り合いが、三十日まで持てばよいがの。戦場は、何がきっかけで火がつくかわからぬ。」

茂実がこういうのに、靭実は答えなかった。

 三十日と決めたからには動くまい。おそらく敵もその日に出陣となろう。

 三十日であれば、この戦は昼だ。

 夜に動くことはかなうまい。

 それでも、その新月の夜を最大限に使わねばならない。

 でなければ、靭実が先に出立する意味がない。

 靭実は西の山の稜線に浮かぶ夕暮れの光を見ながら、高階隆明の指示する作戦を思い出していた。

 一歩誤れば、危険な作戦ともいえる。

 味方の兵に何かあれば、靭実自身が危険にさらされる。しかし、それは致し方のないことかもしれぬ。

 だからこそ、劫姫の下賜だったのか。

 横を歩いていた茂実が、黙った靭実の顔をうかがい、夕暮れの色を映した川面に視線を向けると、低い声で静かに、言葉を発した。

「今のそなたは、この領国ではむずかしい立場となった。」

 そう言いながら、茂実は足をとめた。つられて靭実も立ち止まる。

 茂実は続けた。

「ただでさえ、そなたはその若さで重用された。それゆえ家臣の中にはそなたを疎むものもおる。高階の家臣は、古くからお館に仕えるものも多く、こたびのことでそなたが稲賀領の出であることがわかった。正真正銘の『よそ者』が、お館さまにその若さで、重く用いられている。」

茂実はそこで言葉を切り、靭実に顔を向け、目を細めて靭実をみつめた。

「あの日、そなたを初めてみた時、その太刀筋から、普通の少年ではないだろうとは思っていた。どこかで剣を磨き、この乱世の中破れて、流れてきたのであろうと。そのまま村人たちに叩きのめされ、また他の地をさまようていくには惜しいと思い、そなたを拾うたが、まさかここまで、めざましい出世を遂げるとは思うてはいなんだ。」

茂実の老いた顔に西日の陰がさしている。冷たい風が髪をなびかせた。靭実はその義父――というには少し年長にすぎる、その老いた顔から視線をそらせ、顔をうつむかせた。

「義父上の恩は、死んでも、忘れはいたしませぬ。あの時義父上に助けていただかなければ、自分はどうなっていたか――。」

 茂実は靭実の言葉をきき、少し顔色を暗くした。

 当時、家督を継ぎ、破天荒だった隆明に対し、隆明よりもはるかに年長で経験豊かだった先代の家臣たちは、隆明の言動を軽んじた。さらに、領地拡大と改革を望む隆明と、従来のやり方を温存しようとする家臣たちは対立し、その結束が、目に見えぬどこかで崩壊する兆しも見せていたのだ。

 それまでの報恩で得た揺るがぬ地位と領地―― 隣国との同盟、決まりごとの中で動くだけのぬるま湯の中で、若さゆえに血気はやる隆明の焦躁を爆発させてはならぬ――そう思った重臣の一人だった茂実は、何か隆明に、「目新しいもの」が必要だと思った。

 隆明の目を新しく見開いてくれるような、何かが――。

 それを、どこから現れたとも知れぬ靭実に、そこまで期待したか――そこまでは自身判然とせぬが、「何か」を靭実に見なかったかといえば、嘘になる。

 靭実にとっては拾うてもらった恩もあろうが、茂実にとっては、渡りに舟とでもいうべき、靭実との出会いだったのだ。

 茂実は頬に川面から来る冷たい風を感じながら、靭実の顔をみつめた。

「こたびの作戦は、重々注意せねばならぬ。わしも細心の注意を払おう――が、もし――」

茂実の顔は、いつにも増して真剣だった。そしてその眉間を寄せると、

「もし、味方に裏切りが出たら」

靭実ははっとして顔をあげた。茂実の顔をみつめる。その探るようにみつめる靭実に、茂実はそのまま言葉を続けた。

「もしも――のことだ。もしもの、な。戦況次第では、味方にもどんな魔がさすやもしれぬ。その時は、靭実」

「お待ちください、義父上。お味方に、どんな裏切りが出るというのです。結束を崩せば、それは負けに通ずるもの、それが」

「靭実、もしものことだ。もしもの、な。」

「しかし!」

「もしも、もしもその気配があったとして、そなたの命にかかわるようなことになれば――、わしは、そなたがこの高階から逃げても構わぬのではないかと思う。幸いわしには子がない。戦場で不明となったとしても不思議はなく、親族とて今までのわしの奉公でそう辛い仕打ちはうけまい。一時どこからともなく流れてきたものが、また消えたと思えば、それでよいのだ。」

 靭実は茂実の言葉に、言葉を失くした。

 この方は突然、何を言うのだろう。

 任務を遂行し、作戦を成功させ、華々しく凱旋することを望みはしないのだろうか。凱旋して、お館の妹君と婚礼をあげ、ますますこの息子が出世をし、領国そのものが栄えることを、望みはしないのだろうか。

 なぜ今、こんな不吉な「もしも」の話をする。

 怪訝な顔でみつめる靭実の頬を、茂実は右手をのばし、軽くポンポンと叩いた。

「この世にはな、靭実、魔物がおるのよ――魔物がな。群を抜こうとすれば、それを引きずり降ろそうとする、魔物が――そなたはその魔物に、魅入られるに足る人物だ。その魔物に勝つか負けるかは、そなたの力量と、運次第と言わねばならぬ。」

 茂実は川面の方に顔を向け、稜線に消えていく夕方の陽の名残りを見つめながら、

「どれ、日も長くなったのう。老いぼれには、日の長くなるのが、何やら嬉しいわいの。靭実、そなたには、到底わからぬことであろう。」

 言って、茂実は稜線から目をそらし、ちらりと靭実に目を向けると、元来た道へと足を向けた。立ち止まったまま動かない靭実を残しながら、

「今の話は、忘れよ。ただ心にとめおいて、必要とあらば、思いだすがよい。」

 茂実が川べりの道を、家へと歩いていく。その義父の後ろ姿をみつめながら、靭実はまだそこにたたずんでいた。

 川面には水鳥が戯れている。水鳥もそろそろ寝床へ帰らねば、とっぷりと日も暮れてしまうだろう。国境をかたどる西の山は、その影を濃くし、またこれも、闇の中に沈もうとしている。

 その暮れゆく景色の中で、あの日の小夜の声が、今更ながらによみがえる。

 ――疲れておる、か。しかし、それがお前の運命なのよ。私が巫女姫であらねばならぬようにな。死ぬまで戦い続け、お前は、修羅の道を歩んで行かねばならぬ。永遠に、心休まることがない。それが、お前の運命なのだ。

 それが、お前の運命――。

 

 翌日になって来栖直衛が、領国の地図を持って橘の元へとやってきた。

 直衛は橘の前に腰を下ろすなり、地図を広げ、

「『ホ』ではありますまいか、橘の君」

そう唐突に話し始めた。

 橘はいささかムッとしながらも、落ち着いた様子で返した。

「何がホ、なのだ。――敵の布陣か。」

その言葉に直衛は、満足そうに笑顔を浮かべ橘を見た。

「さすがに、橘の君は、お話しが早い。」

 ホとは、敵方の布陣を予測したときに、イ、ロ、ハ、ニと四種類の候補をあげていたが、直衛が言うその「ホ」とは、さらにそれ以外に布陣があるということである。

 直衛は領国内の地図を広げ、玉来村よりはるか北東に位置する地図の上に右手人差し指を置いた。地図には「結城」と書かれている。

「結城は、戦場には近うございますが、今は我らの領地にございます。三輪義史どのが守っておられる。この領地内の少し北側に」言いながらその指を北へと引き上げた「かつて結城家が建てた山城の跡がありまして、今その城はなく、上は更地になっております。裏方は国境の山が迫っており、それから」言いながら直衛は、今度は左手人差し指をそれよりずっと西側の地点へと置いた。「いつも敵方と対面する中津原はここにございます。私が予測しますに、敵はまず本陣に小坂の偽物を用意しわが軍に対峙、対峙し引き寄せながら、この右手の結城家の城跡より本物の小坂の別働隊が我が陣の横腹――もしくは後方めがけて飛び込んでくる。さすれば、どうなるか。」

「来栖。」

「はい。」

「戦が始まって領地内に入り込めば、自ずと兵の動きはこちらにも知れる。別働隊を設けるのであれば、その作戦を知られぬために自然その数は中心部隊より少なくなる。それではあまり効果はあるまい。さらにこちらに動きを知られれば、その別働隊は本陣と切り離され一気に取り囲まれ、孤立無援にならぬとも限らぬ。」

「ですから。」

直衛の言葉に橘は視線を向けた。

「戦よりも先に、領国内に少しずつ送り込んでおくのでございます。裏手は国境に面した山、領民の目を欺き山越えすればできぬことでもありますまい。わけてもその別働隊の総大将は」

「小坂靭実か。」

「いかにも。」

直衛はにっこりと笑った。その笑顔に、橘はやや不機嫌になりながらも、

「来栖。」

「はい。」

「先発した別働隊が、先にその動きを知られ、囲まれて逃げ場を失ったらどうする。実際その危険が」

「その心配はございませぬ。」

「何?」

「結城を拠点として動く、などという予測は、我らにしかできぬことです。何より、知ったからとて、大物を配して領国に忍びこみ、そんな危険な賭けに出ようとは、我らのうちの者は誰も思わぬでしょう。ましてこたびの戦のきっかけとなった張本人が、でございます。警戒はするとしても、」

「来栖。」

「はい。」

「稲賀どのは既に、小坂靭実が結城の家臣の遺児であることはご存じだ。」

「しかし橘の君」

「なんだ」

「その事実はこちらに知られればどう働くかわからぬゆえ、決して日の目を見ませぬ。敵はもしその事実を知られていると仮定しても、それも計算に入れて動きましょう。ゆえに、我らには大っぴらには取る手立てがないと想定し、作戦は遂行される。――いやそれよりも、『まさかそんな危険な賭けには出るまい』と、こちらが見ていると、考える公算の方が大きい。」

「来栖。」

「はい。」

「どちらにしても、その作戦は敵にとっては危険だ。その作戦を成功させるには、敵にとって敵地内というだけでなく、三分の一は別働隊として配さねばならぬ。それがもし全滅した場合、本陣は大打撃を食らうことになる。」

「やりまする。」

「理由はなんだ。」

「小坂靭実が、義見朔次郎だからです。」

橘は、来栖直衛をみつめた。珍しく、恐ろしいほどに自信を秘めている。

 橘は一つため息をつき、

「奴はそれほどに大胆な男か。」

「昔から無鉄砲なところがあったのは、間違いありませぬ。奴は、無理の状況に追い込まれても、そこで賭けに出られるのなら、打って出る男です。その思い切りの良さは短所でもありますが、人が避けるところに挑んでいく長所でもある。半分でも勝機ありとみれば、こたびのことも引き受けましょう。生まれ故郷には何度か足を運び、現地の地形も心得ておりますれば。それに――」

「なんだ。」

「劫姫との婚姻が、妙な時期に決まりましたゆえ。」

「ああ、あの、――わざと流された噂か。あれは、あちら側の都合と私は見たが。」

「と、申しますと。」

「小坂がこたびの大木村の一件でこちらの出と知れただろう。ゆえに小坂は高階側で微妙な位置をしめているに違いない。しかし実質婚姻で高階のものとなれば、その微妙さも幾分かは解消されよう。また、高階領国内に小坂の出自が広く知れ渡った時も、今は縁戚ということで、小坂自身が裏切る不安もある程度は解消される。何よりも、この稲賀領国内に――」

 そこで、橘は言葉を切った。しばらく目を閉じ、考える様子だったが、ふと目を開けた。

 今この時でなければならぬ理由は、何だ。

「味方の裏切りを想定して――か。妬みゆえの」

そこで、直衛は、満足そうな笑みを見せた。

「さようでございます。高階軍内部で今微妙な位置にいるよそ者の小坂を、とてつもなく妬んでおるものもおりましょう。それゆえにこの作戦では、戦場で裏切り者が出る可能性もございます。それをいくばくか抑制するためと、そして何より、小坂本人に対しその不安を解消するための、婚姻でございますれば。」

「来栖。」

「はい。」

「戦には出ぬのか。」

「何度も申しますように、私はこたびは留守居役にて。」

橘はそこで、ふふふと笑った。

 直衛はそのまま表情を変えない。続けて橘は、

「つまり、内々に警戒して布陣をくむようにと、稲賀どのに私から伝えろと。」

そこでまた、直衛は笑顔を浮かべ、

「さすがは橘の君、話が早い。」

「藤吾どのからではなく。」

「公に伝えられて、奴がこの領国の遺児と知れるのはまずうございますから。」

橘は目を閉じ、何か考えるふうであった。

 しばらくしてため息をつき、目を開くと、

「あいわかった。稲賀どのに、そうお伝えしよう。」

そういうと、直衛は橘に向かって小さく頭を下げた。

 直衛に内々の進言を頼まれたのは、これで何度目だろう。

「時に来栖。」

「なんでございましょう。」

「そなた本当に、お館に出仕する気はないのか。」

直衛は橘の突然の問いに、やや動じた気配を見せたが、そのまま元の落ち着きを取り戻し、動かなかった。そのまま答えないでいると、橘が、

「あまりにここを動く気配がないと、かえって由良が稲賀を裏切る気があるのかととられかねぬ。この地はお館からも遠く、いざとなれば、どちらへとも身を翻すことができるゆえ。」

「橘の君。」

「なんだ。」

「藤吾様にも、父にも、まして私にも、そのような意志はありませぬ。たとえ仮のお話とはいえ」

しらじらと直衛の言葉をききながら、仮にあったとしても口にはせぬだろうと橘は思った。もし稲賀から身を引く日がくるとするなら、直衛は将来のため、この地に置いておいた方がよいというのも、事実だ。

 ただこの地にあっては、せっかく才があっても名を立てられず、いざという時役には立つまい。

「来栖。」

「はい。」

「仮の話ではない。あのバカ殿が稲賀の次を継ぐのであれば、現実になるとも知れぬ話だ。」

「橘の君、――バカ殿だ、などと…。確かに今のお館さまに比べれば、武将としては劣られる方かもしれませぬ。まして未だお若く、他国に名だたる重臣方もいらっしゃいますれば――それに、橘の君。」

 直衛は視線を落として、橘から目をはずした。

 膝に乗せた手を握りしめた。言葉にならない悲哀が、直衛の体をまとう。

「私は、本当に、他意があるわけではなく、まして、何かを悟ったわけでもなく、まだ――。あちらには、ゆきえ様が――甘い――弱いと言われるかもしれませぬが。」

 橘は打たれたように顔を上げ、強い口調で言った。

「そこまで、言うてはおらぬわ!」

それから自分の声に自身驚いて声を落とし、

「あ、甘い――などと、――ただ、生かせる時に、生かすべきだと、いうておるまで。あのバカ殿に代わる前に、出るなら、早う出て、名なりなんなりあげたほうがよいのだ。」

「橘の君…」

また「バカ殿」を口にする橘に、直衛は苦笑した。

 橘はそんな直衛を見て、やや視線をうろうろとさせると、また眼差しをあげ、

「私はな、来栖、あの――小坂靭実という男が、許せぬのだ。」

直衛は何も言わず、橘の目を見返した。

「そなたらは、あの小坂に、義見朔次郎として面識があるだろう、しかし、私にはない。だから余計に、許せぬのかもしれぬ。神殿を汚しただけではない。仮にも、命を助けられた女を――しかも、かつて恋仲だった女を、高階の命だからといって、捕まえに来られるものだろうか――女に導かれたからといって、斬れるものだろうか。むろん、それは、今の乱世の習いからすれば、せねばならぬことなのだろう、せねば、あやつの命があやうくなる。巫女姫小夜の霊送りにかかわったから、私には余計にひいきの思いがあるのやもしれぬ。甘いのは――私かもしれぬ。しかしな、来栖。」

橘はそこで一息つき、視線を落とした。

「私が、そなたがこたび戦場にいかぬかというのは、そなたが行く方が、その仇討ちがより確実になると思うたからだ。仇を討ちたいのは信乃ではなく、私なのだ。それが何に対しての仇なのか、はっきりとはつかめぬ。しかし、乱世だからといって、何もかもがわりきれるような、人の心はそんなにたやすいものではないわ。乱世であれば、人の死はつらくはないか、乱世であれば、斬った相手を許せるか――もしそうだとしたら、それはまがい物だ。平時であっても、乱世であっても、人の心の営みは変わらぬ。」

橘はそう言って直衛を見上げた。それからまた視線を落とすと、

「気の――すむまで、その女を想うておるがよい。ただ、いつかは、それにけじめをつけねばならぬ。なぜならそなたは、この世に生きているからだ。生きているなら、その生は、生きなければならぬ。たとえそれが、この世の仮の宿りであったとしても。」

 直衛は黙って橘の言葉をきいていた。それから静かに、小さく息をつくと、

「橘の君。」

「なんだ。」

「私は、自分の生を、生きぬというつもりはありませぬ。」

そういうと、橘はまっすぐと直衛をみつめた。

直衛は、少しためらうように一呼吸おくと、

「ただ、今しばらく」

「うむ」

「周りの方々には、もどかしいかも、しれませぬが――」

 お館にいる稲賀の側室ゆきえは、まゆみ姫ではない。

 寸分たがわぬ容姿というわけでもないらしかった。しかし、姉妹であるがゆえにその面影は濃く、対面して何かが大きく崩れていくやもしれず――直衛はそれが、一番恐ろしかった。

 今ここまで持ち直した自分が、崩れていくかもしれぬ。

 まだ、自信がなかった。

 あの強い動揺と、熱い想いと鼓動にうちのめされる、それが再び襲ったとき、己が己で立っていられるのか、まだ、自信がなかった。

 またもや襲うかもしれぬ強い喪失感に、勝てる自信は――まだ、ないのだ。


 

「こりゃ無理だな。」

 藤吉郎の左腕の傷口を見ながら、隈吉が言った。藤吉郎は行軍に際する荷物配当の打ち合わせに参加していたが、それが終わってから少年兵たちに囲まれ、包帯を解かれた。

 藤吉郎はしらっと言った隈吉の言葉に、

「しかし、玄水どのは深い傷ではないと。」

藤吉郎が隈吉にいうと、横から与助が、

「深い傷じゃないけど、浅くもない。すぐに完治するもんでもないだろう。弓を弾くなら痛みが走る。俺なら一線からひかせるな。」

隈吉が続けて、

「小荷駄隊警護、養護隊警護、よくて遊軍ってとこかな。ま、諦めろ。」

「勝手なことを! お前らが決めるわけじゃあるまい。」

「俺らでなくてもわかることよ。だいたい何でこんな時期にそんな怪我をする。一歩間違えれば、今度の戦は出番なしだったぞ。」

「いやいや、こいつのことだから、こういうことはあるだろう。ちょっとした油断ですぐに」

「待て、待て、俺はきいたぞ。」

少年兵たち四、五人が囲む後ろから、やせた背の高い男が、藤吉郎の傷口をのぞきこんで言った。

「それは、ホレ、例の大木村からきたお嬢さんのつけた傷だと。」

その言葉に隈吉が、はじかれたように、

「信乃ちゃんか?」

そう答えた。男がうなずくと、

「ええ? あんな大人しそうな顔で、藤吉郎を斬った?」

「俺がきいた話では、なんでも痴話喧嘩だそうで。」

そう男がいうと、一同が「おおっ」と声を上げた。

 藤吉郎がかっとなって「違う!」といいかけるのに、畳かけるように少年たちが、

「おお、こいつももう、そんないっちょまえの男になったか。」

「口も頭も回るわりにはそういう気がさっぱりだったのによ!」

「ち、ち、痴話喧嘩だって、痴話喧嘩! いったい、何やらかしたのよ、藤吉郎ちゃーん。」

うひゃっひゃっと笑う少年たちに向かって、たまりかねたようにまた「違う!」と藤吉郎がいいかけると、ふと隈吉が、

「いや待て、信乃ちゃんはいいなずけがいなかったか。」

そこで一同の動きがふととまった。

 それからややあって皆がいっせいに「おおっ」と声を上げると、

「いいなずけといえば、もう婚儀が決まっているということか。何、藤吉郎、お前フギミッツウか。」

「いいなずけがいるといえば人妻も同じじゃないか! そうか、お前やるなあ!」

「そうか、そうか、藤吉郎もそこまでいったか、なになに、先を越されたぞ!」

そこで与助が、しなを作り、高い声で、

「ああ、藤吉郎さま! い、いけませんわ、そんな、私には、私には言い交わしたお方がっ!」

すると横から別の少年兵が、

「い、いいじゃないか、ど、どうせ、お、俺たちは、フ…フギミッツウなんだよ!」

と与助に迫り、みんなで大笑いになった。

 たまりかねた藤吉郎が顔を真っ赤にして怒りながら、「お前らあ!」と叫んで一喝する。

 そこに後ろから「あの…」と小さな声がきこえてきた。

 藤吉郎が場にふさわしくない女の声に、ゆっくりと振り返ると、信乃が、両手に大きな木の箱を抱えて立っていた。信乃はその姿勢のまま、

「こちらに、食事を届けてほしいといわれて持ってきたのですが、どなたにお渡しすればよろしいでしょうか。」

藤吉郎の体が火をふいて、どっと汗が出た。

 見ると信乃は横長の箱いっぱいに握り飯を入れ、立っている。藤吉郎が思わず、

「し、し、信乃どの、な、ぜ、こんなところ」

と言いかけたところで、後ろから手ぬぐいを顔に巻かれ、体に腕をまわされて少年たちの後ろへとひっぱりこまれた。その隙に隈吉が、

「ああ、それは俺が預かるよ。」

そういって信乃の手から横長の木箱を受け取った。

 突然のことに顔を覆われ藤吉郎が抵抗しようと抗っていると、先ほど口をはさんだ長身の男が、藤吉郎の耳元で、

「恥ずかしいやつめ、おとなしくしていろ。耳まで真っ赤だ。」

と、つぶやいた。

 少年たちが続けて信乃に、「ところでなんで信乃ちゃんがこんなところへ?」 と質問している。その質問に信乃が、「女の方たちが兵糧の準備で忙しそうにしていらっしゃるので、何かお手伝いできることはないかと尋ねましたら、これをこちらまで届けてほしいと。」 と答えている。「ええ、信乃ちゃんにこんなことさせてるのか、ひどいなあ。」と少年の一人がいうと、 「いえ、私がお手伝いさせてほしいと言ったのです。お気になさらず。」

 藤吉郎が顔にまかれた手ぬぐいをゆっくりはずすと、信乃はたすきがけに明るい顔で少年たちに答えていた。

 藤吉郎は、そのまま手ぬぐいを先ほどの男に手渡し、信乃の前に歩いていくと、「ちょ、ちょっと信乃どの。」といいながら、信乃に手で後ろへ行くようにうながした。信乃はその明るい顔のまま、不思議そうに藤吉郎を見上げた。

 信乃は体の向きを変え、それに従って藤吉郎は兵の詰め所の入り口へと行くよう促した。

 妙な視線を感じた。

 振り返ると、少年兵たちは並んで、全員でにやにやと笑っている。

 それに藤吉郎は舌打ちして、また信乃に入り口へと行くように促した。それから詰め所の入り口を抜け、外に出ると、

「そんな、手伝いはせずともよろしいのです。信乃どのは客分にて」

「はあ、でも皆様が忙しく立ち働いているのに、一人だけ何もしないわけにはいきませぬし。」

「いや、しかし」といいかけたところで、また妙な視線を感じた。後ろへ振り返ると、入り口の戸のところから数人の顔がのぞいている。藤吉郎はぎょっとして、

「と、とにかく信乃どの、こんなむさくるしいところはなんですから、上へ、上へ。」

と促した。

 藤吉郎にせかされるままに館へと続く坂をのぼると、由良の館の前へ出る。せかされて、そのせかす藤吉郎を横目で気にしながら、

「もう、腕は大事ございませぬか。」

そう信乃が尋ねた。

 そういえば、傷口の布を外したままだったと思い出し、 左腕を袖の中まで探ってみた。

「つっ…。」

傷口に指があたって顔をしかめると、すぐに袂に手をつっこんで巻いていた布を探った。気がつくと、信乃が泣きそうな顔をして藤吉郎を見ている。

「あ、や、信乃どの。そ」

何か言おうとしてどもっていると、信乃が藤吉郎の取り出した布を受け取って、袂をまくり、藤吉郎に袂の布をひきあげているように促した。布を持ち傷口に向かい合わせたところで、ふと動きが止まった。

 ややあって思い直したように、傷口に薬のにおいのする布をあて、上から長い布をまきつけた。

「玄水どのにもう一度、薬を付け直していただいたほうがよろしいのでは。」

そう信乃がいうので藤吉郎は

「ええ、後で診てもらいに行こうかと。」

 橘は藤吉郎に、この傷のことを藤吾にこう言い訳させた。「稽古の途中で過って斬れてしまった」と。藤吾にその嘘が通じたかどうかはわからなかったが、何分嘘は下手なので、父親を欺ききれた自信はなかった。戦を前にして藤吾はしたたか説教をたれたが、しょげる息子に父親は、何か意味深な目で藤吉郎をみつめた。

 戦は控えるかと言われた。前線にまわされることはかなわぬかもしれぬからと。

 しかし藤吉郎は、それで信乃が、自身を責めるのではないかと思い、また、小坂との戦を前にして逃げるようなので、前線でなくともかまわぬから、参加させてほしいと父に頼んだ。

 相手はもはや、信乃の姉の仇とは言いがたかった。

 かつてその姉と恋仲に陥った男が、不思議な力をもつ一族の終焉に利用されただけでしかなかったかもしれない。

 そしてそれが、義見朔次郎という、かつて高野で何度も顔をあわせた男である。

 その朔次郎の話がどうしても信じきれず、どこかで強く、機会があれば、それが本当のことなのかと確かめたいという思いがあった。

 それは直衛とて同じかもしれない。

 藤吉郎は黙ってそんなことを思い返していたが、信乃はなぜか布を巻き終わっても、傷口に手をあてたまま離そうとしない。

 黙って離そうとしない信乃の顔を上から見ながら、

「あの、信乃どの…。」

と、また上気しそうになる顔でしどろもどろ声をかけると、信乃が、

「姉さまなら、治せたのに。」

そう、小さな声を発した。

「え、あ、姉君が?」

信乃は小さくうなずいた。

「姉は、体の中の気に働きかけて、急速に傷口を治すことができたのです。我らが一族のものであれば、修行していれば、皆できるはずなのに。」

そういいながら、まだ信乃は藤吉郎の腕を持っている。そのまま、信乃はうっと息をつまらせると、「私のせいで…。」と途端にうつむいた体から悲哀の気がたちのぼってきた。

「や、信乃どの、し、の、どの。お、お気になさらず。信乃どのは、姉君ではないのですし」

「しかし、私が斬り付けねば、藤吉郎さまは、このような目には…。」

信乃の悲哀の色はさらに濃くなる。

「いや、そんな、すぐに、治ります。信乃どの、どうかお気になさらず。」

そういって、あ、あっはっはと笑ってみせたが、信乃はうつむいたまま顔をあげないので、しらりとした空気があたりに漂うだけだった。

 うつむいた信乃の頭を見下ろしながら、「なぜ斬りつけたのですか。」という問いが、心の中にわきあがる。

 なぜ斬りつけたのですか――想いだけ残して一人行ってしまったあの男と、同じということはどういう意味で――あの男とは朔次郎、残されたのは姉君でしょう――朔次郎兄と姉君は、恋仲で――つまり――

 暇のあるたびに藤吉郎はこの思いをめぐらせ、うっとりとなっては、いやしかしまさかまさかと思い直した。

「戦には出られるのですか。」

 信乃の問いに我に返った。信乃はうつむいたまま顔をあげない。

「え、ええ。」

左腕の傷の上に手をおいたまま、信乃はまだ離す気配がない。それでも、少しでも姉のように力が使えればよいと思っているのだろうかと、藤吉郎はその手を見ながら思った。藤吉郎は続けて、

「でも、皆は前線からは外されるだろうと。――なんだか、最初の意気込みが無駄になったようです。」

そう答えたが、信乃はこれといって反応を示さなかった。

 ややあって、

「私、毎日お祈りしております。この傷のせいで、藤吉郎さまが、戦場で決して不利なことにはならぬように――きっと、ご活躍できますように、と。」

 藤吉郎はうつむいたままの信乃の言葉をきいていたが、涙声ではないので少し救われた。

 その信乃のうつむいた顔をのぞきこんで言葉を続けようとした途端に、信乃が顔をあげ、

「では私、お手伝いの途中ですから、お勝手の方に戻ります。」

そういって藤吉郎の腕から手を離した。勢いよく頭を下げ、後ろへとふり返る。つられて藤吉郎も急いで頭を下げた。

 頭をあげ、信乃の後ろ姿を見送る。由良の館の奥の方へと走っていく後ろ姿に、きくべきことをきき損なったと、少し思いひかれた。

 藤吉郎はため息をついた。

 自身も先ほどの詰め所へ帰ろうと思った。信乃につかまれていた左腕を上げて、その当てられた布を見ながら、玄水どののところへ行くのが先だろうか、もしかして今の信乃の手当ては、ちょっとはきいたのだろうかなどと思いながら、歩き始めると、途端に後ろから藤吉郎の体に女の腕の気配が――伸びて、藤吉郎の体に強く巻きつき、その頭と体が背にあたって、強く抱きしめられた――それは信乃の――と、思う間もなく、慌ててその指の巻きつく気配がまとう、抱きとめられた胸のあたりを見――しかし、そこには、感じたはずの腕もないので振り返る――と、体をとりまく気配がさらり――藤吉郎から離れて風と消え、どこにもその姿が見たらない。

 驚いて遠くはるか後方に目をやると、館の影に振り返って消えていく信乃の姿が見えた。

 藤吉郎はしばし立ち止まる。

 気――のせいか――気の――いや、しかし。

 まだその身に残る強い腕のあとを感じながら、藤吉郎は今あげていた左腕の布のあたりをみつめた。

 傷など、治らねばよい。

 いや、治らなくても、消えねばよいのだ――この左腕にとどまって、ずっと胸にとまればよいのだ――あの――姿が。

 藤吉郎は右腕で、信乃の陰に抱きとめられたはずの胸をおさえた。

 体の中に残る気配を感じながら、館の前から玉来の村を見渡す。


 

 戦場から一番遠い南方の玉来とその周辺の村々は、お館で行われる出陣式にあわせ、数日早く出立する。その期日は三日後――もう、まもなくと迫っていた。

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