第23話 シモン・ペテロ
湖上で対岸に見えた朝日は、すっかり高くなっていた。風はなく、焚火の跡からは白い煙がまっすぐに立ち上っていた。
食事を終えた一同が所在なさげに互いの顔をのぞき見ていると、師がおもむろに立ち上がり、歩き始めた。皆がそれにならい、師の後をついて歩き始める。誰も口を開かなかったし、その必要を感じなかった。嵐の過ぎ去った後のように静かで、満ち足りた時間が流れていた。
同じようにこのガリラヤ湖畔を歩いたのはそう遠い昔のことではなかったはずだが、なんだかずいぶんと時が経ってしまったような気がする。
シモンは師のすぐ斜め後ろを歩いていた。船から飛び込んで泳いだためにずぶぬれになった服も、すっかり乾いている。
はじまりは、シモンの妻の母の熱病がいやされたことだった。
流行りの熱病で臥せっているのを見てシモンたちが絶望していたところに現れ、その手をとって引き起こしたのだ。医師にもどうすることもできなかった高熱がまるで嘘のように引き、一行をもてなし始めた時には、何が起こっているのか理解することがすぐにはできなかったのを覚えている。
あれ以来、想像を超える奇跡を、幾度となく目にした。その師が、犯罪人として捕らえられ、磔の刑で殺されてしまった。事前に聞かされ、あり得ないと直言したが厳しく戒められもした。
ところが、確かに死んで葬られたはずの師が、今度は再び自分たちの目の前に現れたのだ。締め切ってあった戸の内側に立って、
「平安あれ」
と言った。一同が狂喜乱舞したのは言うまでもない。その後、師の指示に従って、ガリラヤに退いた。そこで待つように、ということだったが、シモンはいても立ってもいられず、岸辺にあった船で漁に出た。一晩中、網を投げては引き上げるという作業を繰り返した。物心のついた頃から数限りなく繰り返してきた動作だったから、体が覚えている。魚が獲れるかどうかなど、どうでもよかった。とにかく体を動かしていないと、叫び声を上げてしまいそうだった。
結局、何一つすくいあげることのできないまま、白々と夜が明け始めた。船を戻そうとし始めた時、岸に立つ人影を認めた。シモンたちの背後から昇り始めていた朝日の、金色の光を正面から受けたその人影は、網を船の右側に下ろしてみよ、と言った。
そうだ、あの時だ。シモンは思い出した。姑の熱病がいやされた数日後、同じようにこの湖で夜通し漁をして、何も取れないまま戻ってきたシモンたちに、再び沖へ漕ぎ出して、網を下ろしてみよ、と告げたのだ。自分たちの船だけでは載せ切れないほどの大量の魚が上がり、ひれ伏さざるを得なくなった。漁のことなら誰にも負けないつもりでいたシモンにとって、それはどんな奇跡よりも偉大なものであり、認めざるを得ない圧倒的な力だった。
今また、あの時と変わらない声が、あの時と同じように、網を下ろしてみよと言ったのだ。
「先生」
誰かがたまらずに叫んだ。シモンは弾かれたように、湖に飛び込んで、岸に向かって泳いだ。船を気にしているゆとりはなかった。
「ヨナの子、シモンよ」
不意に師が、シモンの方を振り返って、語りかけた。
「お前は、わたしがお前を愛したようにわたしのことを愛するか」
3年の間、寝食を共にしてきた、師の吸い込まれそうな深い色をしたまなざしも、包み込むような柔らかな声も、何一つ変わらない。
シモンは束の間、息をすることもできなかった。数日前までのシモンならば、もちろんですとも、と無邪気に即答していたところだろう。たとえ一緒に死ななければならないとしても、この師についていくのだ。本気で、そう思っていた。
ところが、大祭司の庭で取り囲まれ、寄ってたかって責め立てられ、鞭打たれている師の姿を見て、思わずそんな人は知らない、と否定してしまった。
どんな言い訳もできない、裏切りだった。投げかけられた問に答える資格は、自分にはない。けれども、師を慕う気持ちに嘘がないというのも確かだった。
「先生、あなたのようになんて、俺にはとても言えません。でも、俺は俺で、先生のことを思っています」
精一杯、思ったままを言葉にした。それじゃだめだ、と言われるに違いないとシモンは思った。しかし師の言葉は、シモンにとって意外なものだった。
「わたしの羊を飼いなさい」
詳しい意味は分からなかった。でも、少なくとも否定されたのではないということだけは、はっきりしていた。
「ヨナの子、シモン。わたしがお前を愛したようにわたしのことを愛するか」
しばらく歩いて、再び師が尋ねた。シモンは同じように答えたが、師もまた、同じように、
「わたしの羊を飼いなさい」
と応じた。さらにしばらく後、師は3度目の同じ問いをシモンに投げた。
シモンは、師が自分の3度も裏切るということを予告した上で、
「お前の信仰がなくならないように、お前のために祈った。だから、立ち直ったら他の兄弟たちを力づけてやれ」
と言われたことを思い出した。そして気付いた。自分は、師に祈られていたのだ。それだから、ここにいるのだ、と。
湖の方からやわらかな風が吹いて、一同の頬を撫でていった。このまま、ずっと歩いていたい。シモンは願わずにはいられなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます